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一四六.次第に風は秋のものに変わって


 次第に風は秋のものに変わって行った。夏の間は心地よく感ぜられたそれらは、今は首筋をひんやりと撫でて、思わず服の裾を寄せさせるものになっていた。


 トルネラで暮らしていると、夏の盛りに冬を感じる。もうそこからは寒くなって行くしかないからだ。だから村人たちは夏が頂点に達した辺りから、本腰を入れて冬の支度を始める。

 しかし元々北国の仕事はすべて冬越しの為だと言ってよい。長く厳しい冬を乗り切るために、他の季節に一生懸命に働く。雪に閉ざされる辺境の村では、厳寒の時期に日々の食を求めて外を出歩く事はできない。


 ベルグリフは薪棚を見て満足げに頷いた。もう割られた薪で満載してある。

 しかしこれでも一冬乗り切れるか微妙な所だ。暖炉は暖房としてだけでなく煮炊きの道具にも使う。

 いざ燃料不足に陥らないよう、トルネラには共同の薪の保管場所もある。自分の所の薪を確保できたら、そこの薪を準備するのも村の大人たちの仕事だ。

 ここのところは、ベルグリフは書類仕事や打ち合わせが多い。ダンジョン及びギルドの稼働は来春という風に話がまとまっている。それぞれの頭の中だけだった話が、いよいよ具体的な形を持って動き出そうとしているのだ。

 建物が出来て行くのを見るだけでも、そんな気はずっとしていたが、セレンが持って来る経営の実際や、ギルドに関しての制度の事などを話していると、余計にその感は高まった。


 薪割り場の周りを整理しながら、ベルグリフはアンジェリンの事を考えた。

 秋祭りの前に、と言っていたから、もうじき帰って来る筈だ。今年こそは岩コケモモが食べたいとしきりに言っていたのを思い出すと、ベルグリフの頬は緩んだ。どれだけ大きくなっても、自分にとってのアンジェリンはあの頃の小さなアンジェリンと変わりがない。


 アンジェリンが戻って来るならば、アネッサやミリアムも一緒だろう。マルグリットも来るかも知れない。

 また大所帯になるな、とベルグリフはくすくす笑いながら、散らばった木片を集めて籠に入れた。これは焚き付けに使うのに都合がいい。


 向こうではサティが洗濯物を干している。微かに吹く風がそれらを揺らしていた。

 今日は一段と風が冷たい気がした。朝のうちは青空が広がっていたのに、今は流れて来た雲が陽の光を遮っている。

 尤も、まだ体は夏の暑さを覚えているから余計にそんな気がするのかも知れない。冬になればこの比ではない。


 最後の一枚らしいのをぶら下げて、サティはふうと息をついて両手をこすり合わせた。


「済んだ?」


 ベルグリフは言った。


「うん、これで最後。はー、干す時になって曇っちゃって……水が冷たくなって来たや」

「もう夏は終わったなあ」


 ベルグリフは手を伸ばして、サティの手を包んだ。ほっそりとした指先がしんしんと冷たくなっている。


「ああ、本当に冷たいな」

「ベル君の手はあったかいね」


 サティは少し照れ臭そうに笑った。

 もう水仕事が段々と厳しくなり始める。井戸の水は一年を通して温度があまり変わらないが、それでも濡れた手はあっという間に冷たくなってしまう。だが、真冬に比べれば今はマシだ。これからはどんどん寒くなる。

 しばらく手を繋いでいた二人だったが、やがてサティが軽く周囲を見回してから、ベルグリフに抱き付いた。胸元に頬を擦りつけて息をつく。


「はー……あったか」

「おいおい、アンジェと同じだぞ、これじゃ」

「ふふん、似た者母娘だから仕方ないでしょ。それとも嫌かな?」

「嫌じゃないけど……」

「照れ屋さん」


 サティはにまにま笑って、ベルグリフの背中を手の平でさすった。ベルグリフは苦笑しながらサティを抱き返し、背中をぽんぽんと叩いた。両腕の中にいるサティはとても華奢で小さく見えた。

 背中に回した手の甲に銀髪が触れると、さらさらとくすぐったい。段々と服越しに体の温もりが感ぜられて来た。サティはもそもそと身じろぎして、ベルグリフを見た。


「……ちょっとあったかくなった」

「うん。暖炉の火を見て来ないと……」


 家の中に入ると、上げ床を拭いていたシャルロッテが顔を上げた。


「あ、お帰りなさい。お外の仕事は終わったの?」

「うん、こっちは大丈夫。シャル、冷たくない?」


 サティはシャルロッテに歩み寄って手を握った。シャルロッテははにかんだ。


「大丈夫よ。お湯をね、ちょっと混ぜたの。今日は少し寒いから」

「おお、賢いねえ。ふふ、いい子いい子」


 サティは笑いながらシャルロッテを抱きしめて頭を撫でた。シャルロッテはむぎゅうと言いながらくすぐったそうに身をよじった。


 水仕事や畑仕事をするから、シャルロッテの手は少し荒れていた。

 かつての白くて可愛らしい手がこうなってしまって、ベルグリフは少し悪いような気がしていたのだが、それとなくその事を言うと、シャルロッテは嬉しそうに笑って、「お姉さまみたいな手になったかしら?」と言った。強い子だと思う。


 家の中には輪にまとめられた木の蔓があちこちにぶら下がっている。グラハムが山に行く度に集めて来て、冬の間の仕事の一つとして籠や笊を編もうとしているらしい。

 シャルロッテやミトは、ベルグリフたちが留守の間にグラハムに教わったようで、小さいけれど中々綺麗な籠を編む。籠はなんだかんだと使う機会が多いし、綺麗にできれば行商人に売る事もできる。冬の室内仕事としては良い。


 グラハムとミト、ビャクは森へと出かけている。恐らくは村の子供たちも連れて、果実や薬草、木の蔓などを集めているのだろう。

 パーシヴァルとカシムは相変わらず気ままにぶらついているようだ。手伝いはしてくれるものの、根っからの冒険者気質である彼らは、農村の日々の暮らしには未だに馴染んでいない。

 ハルとマルはパーシヴァルに付いて行った。腕にぶら下がったり振り回されたり放り投げられたり、少し乱暴な遊びはパーシヴァルがやってくれる。暴れたい気分の双子の相手には持って来いだ。


 じきに昼になる。グラハムたちは弁当を持って行ったが、他の者は帰って来る筈だ。昼の支度をしなくてはならない。

 粉を練って寝かせておき、燻っている暖炉の火に薪を足し、余ったスープに水と具材を足してかき混ぜる。青い豆を莢ごと切って入れ、さらに煮込む。昼食の支度はこれで終わりだ。後は食べる時に生地を伸ばしてスキレットで焼く。


 昼の支度が終わると、シャルロッテは羊の様子を見に行くとケリーの家に出かけて行った。最近は可愛がっている子羊がいるらしい。

 ベルグリフは少し考えてから、穴の開いた袋を持って来て繕い物を始めた。サティは棚の瓶詰や乾燥品の箱、塩漬けの壺などを確認し始める。


 しばらくは黙々と作業をしていたが、やがてサティが口を開いた。


「こういうのが嫌で故郷を飛び出したのに、今はこれが愛おしいなんて不思議」


 ベルグリフは微笑んだ。


「そうか……俺にとってはこれが日常だが」

「ふふ、いいね。こういう事が大事っていうのは、若い時には分からなかったから」


 サティはくすくす笑って、瓶の埃を拭った。


「アンジェは、いつ帰って来るかな」

「秋祭りの前には帰って来ると言っていたが……忙しいかもな。Sランク冒険者だから」

「会いたいなあ。なんだか凄く会いたい」


 サティはそう言って息をついた。


「やっぱりね、あの子は特別っていう感じがする」

「かもな……俺にとってもアンジェは特別だよ」

「だろうね。ふふ、あの子のおかげで再会できたんだしね」


 サティは最後の瓶詰を棚に戻して、ベルグリフの隣に腰を下ろした。


「また冬が来るね……アンジェはここで冬越えをするのかなあ?」

「どうだろうね。その可能性は大いにあり得るけど」


 Sランク冒険者として無類の強さと名声を得ていても、いつまでもアンジェリンは甘えん坊だ。両親や家族、仲間と一緒にトルネラの冬を過ごすとなれば、喜んで腰を据えるだろう。

 しかし、同時に少しずつ成長しているらしいのも確かだ。甘えん坊は甘えん坊なりに考えて、自立しようとしている。

 だからベルグリフは、アンジェリンが一緒に冬を越したいと言おうが、秋祭りが終わったらトルネラを出ると言おうが、どっちにしても受け入れてやると決めていた。


 しんとした家の中で、暖炉の燻る音だけが聞こえる。時折風が窓を揺らす。耳を澄ませば、遠くで羊や山羊が鳴いているのが聞こえる。鶏の声もした。

 しばらく二人で並んで座っていた。

 サティはベルグリフに寄り掛かり、ベルグリフは袋を繕う。サティは少し眠そうに目を伏せて、小さく呼吸を繰り返していた。

 本当に寝てしまったのか、とベルグリフはちらとサティの方を見た。


「サティ?」

「……起きてるよ」


 サティは薄目を開けてベルグリフを見た。それから「んん」と言って伸びをした。


「はー……もう皆帰って来るかな。あ、そうだ。塩漬けのちょっと残ってるのがあったから、使い切っちゃわないと」


 そう言って立ち上がり、別に置いてあった小さな壺を手に取った。中身を出して細かく刻んでいる。

 その背中を眺めながらベルグリフは大きく欠伸をした。



  ○



 マリアの家はオルフェンからは少し離れた所にあるから、気軽に訪ねて行こうという風にはならないが、話をしたかったのもあるから、アンジェリンは頑張った。

 オルフェンに宿を取っている筈のイシュメールには会えていない。滞在中は日銭を稼ぐ為に仕事を受けようと思っている、と聞いたから、ギルドでユーリに尋ねたのだが、イシュメールは一度も仕事を受けていないらしく、宿の場所も分からないと言われてしまった。


 相変わらずだるさの抜けない体を動かしてマリアの庵にやって来た時には、もう昼を過ぎていた。乗合馬車を降りると、土埃が舞っている。

 珍しく一人だった。少し大規模な魔獣討伐の仕事があって、そちらの助けに入って欲しいと要請があった為、三人はそっちに出かけて行った。


 アンジェリンは仕事に出られない状態だが、他三人は元気だ。アンジェリンが動けないからその代わりに、という意味合いもある。高位ランク冒険者は気ままな仕事だが、そういった場合には優先して動かなくてはならない。


 アンジェリンは荷物を担ぎ直した。秋の初めの太陽が目に眩しかった。乾いた唇を舐めてから、ゆっくりと歩き出す。

 小さな村を通り抜け、白い壁の大きな建物の脇を抜けて行くと、木造りの小さなマリアの庵がある。

 前に来た時は周りでたむろしている連中がいたが、今日はいない。それもその筈で、マリアが家の外に揺り椅子を出して腰かけている。

 基本的に来客を歓迎しない姿勢のマリアは、その実力と名声で尊敬されてもいるが、恐れられてもいる。鋭い目つきで不機嫌に睨まれては、半端者では退散する他ない。


 アンジェリンが近づくと、マリアは片目を開けた。


「ふん、アンジェか……」

「マリアばあちゃん、日向ぼっこ?」

「もう陽射しもそれほどひどくねえからな。げほっ」


 マリアはそう言って口元を押さえて小さく咳き込んだ。アンジェリンは歩み寄ってその背中をさすってやる。マリアは怪訝な顔をして目を細めた。


「一人か?」

「うん」

「珍しいな……お前、調子でも悪いのか?」

「うん……」


 アンジェリンは嘆息した。マリアはくたびれた様子で揺り椅子に深く腰掛けた。


「ったく、元気なのが取り柄の癖して……それでどうして来たんだ」

「寝れないの。寝ても、変な夢ばっかり見て、逆に疲れちゃうから……」


 良い薬ない? とアンジェリンは言った。マリアは頭を乱暴に掻いた。


「安眠薬くらいクソ猫でも作れるだろう」

「ミリィも作ってくれた。でも効かなかった……」

「チッ、馬鹿弟子が……入れ」


 マリアは億劫そうに立ち上がって家の中に入って行った。アンジェリンはその後に続く。

 家の中は相変わらず埃っぽいが、マリアが日光浴をしている間に戸も窓も開け放していたらしく、風が通って少しはまともなように感ぜられた。


「お掃除したの? 珍しいね」

「窓を開けただけだ……ほらよ。余りもんだ、薬代はいらん」


 マリアは小さな小瓶をアンジェリンに手渡した。薄紫色の液体が入っている。アンジェリンはそれをハンカチで包んで鞄にしまった。


「ありがと、ばあちゃん」


 マリアは部屋の中の椅子に腰かけて、顎で暖炉の薬缶の方を示した。アンジェリンはもそもそとお茶の支度を始める。その背中を見ながら、マリアが言った。


「お前が弱弱しいと不気味だ。どんな夢を見てやがる?」

「それが……思い出せないの。ただ、嫌な夢だったのは確かで……」

「面倒だな……何か心当たりはねえのか?」

「分かんない……そんなに疲れてるつもりもなかったし、気になる事も……あ、ソロモンの事、何か分かった?」


 アンジェリンが言うと、マリアはふうと息をついた。


「概ね推測はついた。エルフの母親を持つお前がどうして人間なのかもな」


 アンジェリンはポットにお湯を注いでお盆に載せた。


「ホント? 凄いね、ばあちゃん……」

「当たり前だろうが。お前はあたしを馬鹿にしてんのか。げほっ」


 アンジェリンはくすくす笑ってマリアにお茶を手渡した。


「仕事に出るにはきついけど、する事ないから……ソロモンの事調べようと思って」

「お前如きが片手間で調べても何も分からねえよ」

「うん。だからばあちゃんの所に来たの」


 あっけらかんと言うアンジェリンに、マリアはふうと息をついて、お茶をすすった。


「……ひとまず、ソロモンとヴィエナの関係から調べた。禁書扱いの歴史書や叙事詩、散文なんかも当たってみたが、どうやら奴らが協力して旧神と戦ったのは確からしい」

「そうなんだ……じゃあどうして敵対する事になっちゃったんだろ?」

「権力を得たソロモンが増長してヴィエナと考え方が変わってしまった、と考えるのが妥当だろうな。ヴィエナは旧神の一柱ではあったが、人間を好いて慈愛の女神と呼ばれていた。ソロモンが後に苛烈な支配を布いたというのと照らし合わせれば……げほっ、敵対してもおかしくない」


 確かに、帝都で敵対した偽ベンジャミンも、ソロモンは人間に絶望して、自らが人々を導かねばならないと考えるようになった、と言っていた。そういう者は、従わない者に対しては容赦しないだろう。

 しかし、その為に惹かれ合っていた筈のヴィエナとまで敵対するものなのだろうか。


「でも、あの、ニ、ニカ……」

「ニーカユチシマか」

「そう、それ。それには二人は惹かれ合ったって書いてあったけど……」

「だがついに結ばれる事はなかった、ともある。男と女はすれ違う事は珍しくない」

「……それ、経験談? ばあちゃんもすれ違った事あるの?」

「やかましい。話が逸れた」


 マリアはお茶をすすった。


「……ともかく、奴らは協力し合ってはいたが、魔力の質自体は正反対だった。エルフに通ずる白く清浄な魔力を持つヴィエナと、人間でありながら魔王を生み出す事ができた黒い魔力を持つソロモン。正反対だからこそ惹かれ合ったのかも知れんが……ともかく結ばれはしなかった」

「ええと……魂の白と黒?」

「そうだ。普通に考えれば、相性は最悪だ。だが、正反対のものを上手く混ぜ合わせる事ができれば、それは中庸となる。人間の魔力は白でも黒でもない。そう考えると、魔王の魂とエルフの母を持つお前が人間として生まれて来たのも納得がいく」

「そっか……だからわたしは人間なんだ」


 何となく得心が入った。本来交わる筈のない正反対のものが上手くバランスを取った状態になったのがアンジェリンだったのだ。

 アンジェリンはお茶を一口飲んで、言った。


「他には、何か分かった……?」

「シュバイツの目的に関しては見当が付かん。奴の言うところの成功作がお前だとしても、わざわざ逃がして自分に敵対させている事が分からん。そういう部分では絶対に油断しない野郎だからな」

「やっぱりそうかあ……お母さんもそう言ってた」


 アンジェリンはそう言って椅子の背にもたれ、頭の後ろで手を組んだ。

 自分を兵器として扱うつもりであるならばそれはとうに失敗している。加えて帝都の拠点を壊滅させ、ベンジャミンを助け出しさえしたのだ。

 だからこそシュバイツの目的が不明瞭になって自分たちを混乱させている。


 マリアは少し考えている様子だったが、やがてアンジェリンの方を見た。


「……シュバイツには、協力者がいたんだったな」

「え? うん。皇太子に化けてた死霊魔術を使う奴と、あとヘクターっていう冒険者……それと聖堂騎士もいたけど……一人は死んじゃって、もう一人は操られてたみたい。それから大公家の……ええと、三男だったかな? あいつも騙されてたっぽいけど」

「他には?」

「え、と……うーん、他には……」


 いたような、いなかったような。

 アンジェリンは腕組みした。実際に戦ったのはその連中だったが、他にも誰かいたような気がする。

 最後の戦いの舞台になった奇妙な空間を作り出していたのはシュバイツでも偽ベンジャミンでもない、と後になってカシムから聞いたような。

 ぼやけた記憶を辿って行って、ようやく思い当たった。


「……あ、そうだ。確かサラザールっていう大魔導の人。わたしを閉じ込めた時空牢って魔法の使い手はその人なんだって」

「サラザールだと? げほっ……“蛇の目”か?」

「うん。姿がころころ変わって、変な事ばっかり言うの」

「あいつが協力するという事は……さては時空魔法か? まさか事象流……? あの荒唐無稽な説をシュバイツが……? いや、もしあたしらの知らない何かを掴んでいたとしたら、それもあり得ねえ話じゃねえか……」

「ばあちゃん?」


 急に眉をひそめてぶつぶつ呟き出したマリアを見て、アンジェリンはおずおずと声をかけた。マリアはハッとしたように顔を上げてアンジェリンを見た。


「……少し考える事ができた。少し待ってろ」

「え、うん。分かった……」


 何だか分からないが、マリアは何か掴んだらしい。アンジェリンは困惑したけれど、どうせ急いで帰ってもする事があるわけでもない。


「……お茶、淹れるね」


 マリアは返事をしなかった。完全に思考に沈み込んでいる。アンジェリンは肩をすくめて立ち上がった。ポットに古そうな茶葉を入れ、お湯を注ぐ。


 陽は傾いて、夕方が近くなっているようで、窓から朱色を増した光が斜に射し込んで来る。

 湯気立つコップを手に持ってぼんやりしていると、瞼が重くなって来た。夕方のこの時間は妙に眠くなって来る。

 眠るのが怖い、と思いながらも次第に体から力が抜けて、いつの間にかアンジェリンはテーブルに突っ伏していた。



  ○



 ぷんと血の臭いが鼻をついた。驚いて目を開けると、青白い光が照り返す石の壁が見えた。

 地下らしかった。冷たく、重い空気が充満している。窓はなく、壁にある小さな硝子の筒の中で、青白い炎が燃えていた。


 前を見て、後ろを見返る。

 廊下くらいに幅の狭い空間が伸びていた。後ろには上へと向かう階段があり、前は少し行った先が曲がり角になっていた。


 ここはどこだろうと思った。

 見知らぬ場所である。

 足の裏の床は硬く、重苦しい感触がした。

 床も壁も天井さえも、すべて石でできている。靴の踵が床を打つと、大きく音が響くような気がしたが、足踏みしても音がしなかった。


 足元に血が飛び散っていた。まだ乾いておらず、独特の鼻につく臭いが漂っている。気分が悪くなる。

 静寂が耳に痛い。自分の心臓の音が大きい。

 落ち着かない気分で立ち尽くしていると、誰かの苦し気な息遣いが聞こえて来た。ハッとして顔を上げ、その音の方に目をやった。奥の曲がり角の方から聞こえた。


 ごくり、と息を呑んでから、そろそろと歩き出した。足音はしない。靴底を越して冷たさが足に伝わって来るようだ。

 角を曲がると、その奥は鉄格子の牢屋が幾つも並んでいた。同じような青白い光に照らされたそれらは、光を照り返して濡れているように見えた。

 鉄格子のなかで誰かが呻いていた。女の人だった。


「ハ――ァアッ! あッが……ぐううぅ……ッ!」


 思わず駆け寄って鉄格子にすがり付いた。女はうずくまっている。栗色の髪の毛を振り乱し、苦痛に悶えていた。


 どうしたの、しっかりして。


 口だけがぱくぱくと動く。喉の奥から音は出て来ない。


「十三番はもう少しのようです」


 男の声がした。そちらを見る。ローブを着た数人の人物が立っていて、手に持った紙と鉄格子とを交互に見ていた。


「しかし望み薄だな。もし成功であるならばここまで異常成長はすまい」

「概ねひと月と少しで腹部が肥大しましたからな」


 お前らが!


 怒りが沸き立って、地面を蹴る。飛びかかって、殴り倒してやる。

 しかし立っている連中の体をすり抜けて、地面に転がってしまった。男たちは気付いた様子もなく鉄格子の中の女を眺めているだけだ。


 どうしてだ? と困惑して自分の両手を見る。

 ぎゅうと握れば感触がある。足だってしっかと地面を踏み締めている。それなのに、女を助ける事も、ローブの連中を叩きのめす事も出来ない。


 あまりの無力感に呆然としていると、不意に空間がぐにゃりと歪んだ。まるで陶器にひびが入るような音がしたと思ったら、何もない空間に突然穴が開いて、誰かが飛び出して来た。銀髪がたなびいて、青白い光で輝いた。


 お母さん?


 サティだった。着地するや素早く辺りを見回し、状況を一瞬で把握したらしい、たちまち目に怒りの炎を宿して地面を蹴った。


「なっ!」


 ローブの男たちが態勢を整える前に、サティは肉薄し、一人の首を飛ばした。剣など持っていないのに、まるで剣士のような動きだ。魔力で作った見えない剣があるのだろうか。


「きさ――」


 容赦はなかった。サティはあっという間にローブの男たちを皆殺しにすると、鉄格子に駆け寄った。


「しっかりして!」


 そう叫んで腕を振る。鉄格子が斬られてばらばらと散らばった。サティは中に飛び込んで、女の肩に手を回す。もう片方の手は大きく膨らんだ腹に当てられた。女は苦し気に喘いで、サティの服の裾を握り締めた。


「あ、あ……た、助けて……」

「大丈夫……大丈夫だから……」


 サティは必死の表情で何か小さく詠唱している。しかし女の苦悶の声は止まない。


 触れようにも触れられない。すり抜けてしまう。励ましの声すらかけてやれない。

 だからもどかしい気持ちで見守っていると、女が一際大きな悲鳴を上げた。丸めていた体が跳ね上がり、のけぞる。膨らんだ腹がぼこぼこと動いた。中で何かが暴れているようだ。

 サティが歯を食いしばった。


「駄目! お願い、大人しく――!」

「かはっ」


 女の悲鳴が止んだ。小さな吐息と共にかくんと頭が垂れた。手足もだらりと垂れて力が抜けているのに、腹だけが変わらずに暴れている。


「――ッ!」


 サティが素早く飛び退った。

 ほぼ同時に、女の腹を突き破って何だか黒くて形の定かでないものが出て来た。かろうじて人間のような手足と顔とが見受けられるが、長さも太さもばらばらで、すぐにバランスを崩して床に転げた。血が舞い散り、床にも広がって行く。

 直視できない光景だ。しかし目を逸らす事ができない。あまりに凄惨で悲しく、目に涙が滲んで来た。嗚咽が込み上げて来て、鼻の奥が詰まって息がしづらい。


『あ、るじ……? あるじ、ど、こ……?』


 黒いものはぶつぶつと呟いて、手足らしいものをずるずると動かしている。

 サティは悲愴な顔で胸元を押さえた。呼吸が荒くなっているらしい、苦し気に喘ぎ、目の端に涙を浮かべながらも、もがく黒い物体を見据えた。


「ごめん……ごめんね……」


 そう言って一瞬目を伏せたと思うや、即座に見開き、両手を振り上げた。そして剣を振るように前に振り下ろす。すると、幾閃もの斬撃が走り、黒い物体は細切れになった。

 ばらばらと落ちたそれは、どろりと溶けて、粘度のある液体になって広がった。それが血と一緒に赤と黒の二色のコントラストになって、ひどく気味が悪い。


 サティはがくりと膝を突いた。肩を震わせて、両手で顔を覆う。


「ごめんなさい……また、助けられなかった……うぅ……あぁああぁああ」


 死んだ女にすがるようにうずくまって、水門が決壊したかのように泣き出した。服が汚れるのにも気付かない様子だった。

 その姿に、とにかく涙が溢れて堪らなかった。自分自身の悲しみに加え、サティの悲しみと苦しみが流れ込んで来るようだった。


 お母さん。


 今すぐにでもそう叫んで抱きしめてやりたかった。

 しかし、さっきまで動いていた筈の体は動かず、声は相変わらず出ない。ただ立ち尽くして、泣いているその姿を見ている事しか出来ない。


 やがて泣き声が遠くなり、次第に視界に膜がかかったようになって、少しずつ目の前が暗くなって来た。


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