一四五.鍋から湯気が上がっている。ほんのりと
鍋から湯気が上がっている。ほんのりと薬草の匂いのする湯気は台所からゆるやかに漂って来て、アンジェリンの鼻腔をくすぐった。
ここはアネッサとミリアムの家だ。尤も家主は出掛けている。留守番のアンジェリンは食卓に頬杖を突いてまどろんでいた。
まどろんでいる、といっても気持ちの良いものではない。頭に鉛でも流し込まれたように気分が重く、何をするにも億劫だから動かないでいる。しかも意識と思考の間に膜がかかったようになっていて、何だかぼんやりしてしまう。
だから眠いというのではない。だるい。
マルグリットとのじゃれ合いで少しは元気が出たかと思われたアンジェリンだったが、夜に床に就くと案の定おかしな夢を見た。起きた時に枕が濡れて冷たかったから、寝ている間に泣いたらしい。
ひどく悲しかったのは分かっている。胸焼けのように息が詰まるような心持だったが、やはり内容はちっとも思い出せなかった。
それでだるくなって、結局イシュメールに会いに行く事もせず、こうやって仲間たちの家に来てぼんやりしている。
がちゃりと音をさせて、買い物籠を抱えたミリアムが入って来た。ぐったりしているアンジェリンを見て眉をひそめ、駆け寄って背中をぽんと叩いた。アンジェリンはべたっとテーブルに突っ伏した。
「もー、アンジェ、しっかりー」
ミリアムはマッサージするようにアンジェリンの背中を指で押した。
アンジェリンは「うぎゅう」と呻いてもそもそ身じろぎした。
「……それ、気持ちいい」
「え、そう? うーん、やっぱり疲れが溜まってるんじゃないかにゃー」
ミリアムは買い物籠から薬草や木の実をいくつも取り出した。アンジェリンの安眠の為に何か作ろうとしてくれているらしい。
アンジェリンはふうと息をついて体を起こし、ミリアムを見た。
「ミリィ、平気? ポーションなんか作れるの……?」
「そりゃわたしだって魔法使いだぞー。ちゃんとおばばに教わってるんだから」
「でも、依頼の時にお手製のポーションなんか見た事ない……」
「……大丈夫、ちゃんとレシピがある!」
ミリアムはそう言って本棚にある分厚い本を取り出して、テーブルの上に広げた。
「ほら、これ。安眠用の調合。これでアンジェもぐっすりだー」
「効くかな……イシュメールさんに相談しようかなと思ってたんだけど」
「むむう、そりゃ研究畑の魔法使いには負けるけど、わたしだって将来的にはそっち志望なんだぞ。やってやれない事はないもん。友達を信用しなさい」
ミリアムは口を尖らして、薬の材料を抱えて台所に入って行った。アンジェリンは小さく笑って、またテーブルに顎を付けた。ひんやりしていて気持ちがいい。
高々夢なのにな、とアンジェリンは思った。
高位ランク魔獣と幾度も命のやり取りをして来たのに、こんな事でくたびれてしまっているのではまったく不甲斐ない。嫌だなと思いながらも、奮起する元気もないからどうしていいのか分からない。
漂って来る匂いが変わって来た。何だか不思議な匂いだ。馴染みはないが不思議と落ち着くような気がする。
魔法使いの家に行った時は、大抵何かしらの匂いが漂っていた。薬を作る者の所は薬草や香油の匂い、魔道具を作る者の所は魔鉱石や香木の匂い。こういう匂いは、そういった場所を連想させた。
「……マリアばあちゃんは最近どうしてるんだろ」
ぽつりと呟いた。エルマー図書館で会って以来、マリアとは顔を合わせていない。何か掴んだような雰囲気だったが、エルマーとの喧嘩が始まりそうだったので、早々に退散してそれっきりである。
台所から土鍋を抱えたミリアムが出て来た。
「よーし、これでよし。アンジェ、熱いの通るよー」
「んー」
アンジェリンはそれとなく体をかわした。ミリアムは土鍋をテーブルに置く。湯気がもうもうと立ち上っていて、色々なものの混じった匂いがした。
「これを飲めば今夜はぐっすり眠れるぞー」
そう言いながら、ミリアムは鍋の中の汁をコップに注いだ。茶色がかった緑色だ。しかし濁っているのではなく、コップの木目がうっすら見えるくらいには透明である。
アンジェリンは一口含んでみた。苦い。しかし安物のポーション程ではない。
匂いは悪くないが、それでもうまいものではないから、渋い顔をして飲んでいると、ミリアムが思い出したように蜂蜜の瓶を持って来た。
「これを入れれば……」
「……先に持って来てよ」
半ば呆れながら、コップに蜂蜜を入れた。甘苦くて多少飲みやすくなった。アンジェリンはふうふうと冷ましながら少しずつ飲んだ。こういう飲み物はホッとするから良い。
ミリアムは椅子にぎいぎい寄り掛かりながら、ホットミルクをこしらえて飲んでいる。
「ふはー、あまー」
「……そっちのがおいしそう」
「えー、駄目だよ。アンジェは安眠が欲しいんでしょー?」
「ホットミルクでも眠れそうだけど……」
「わたしの薬が効かないと申すか! うぬー」
ミリアムはわざとらしく足をぱたぱたさせた。アンジェリンはくすくす笑う。
「……どっちみち、寝るにはまだ早いし」
「お昼寝すれば? ベッドは空いてるよー」
「んー……」
悩む。昼過ぎの丁度眠くなる時間帯だ。ふかふかのお布団に顔をうずめれば、あっという間に睡魔が覆いかぶさって来るだろう。Sランク魔獣よりも強力な相手である。
「……やめとく。夜寝れなくなりそうだし」
「そう? まあいいけど」
ミリアムは紙袋からクッキーを皿にあけた。
「でもそんな様子だと今年もトルネラで冬越しになりそうだねー」
「うーむ……」
確かにその可能性は危惧している。別に嫌なわけではない。むしろそれでもいいというのも事実なのだが、何となく、こう頻繁に帰っていると、自分の中で特別だった故郷が安売りされるような気分になってしまう。
贅沢な話かなあ、とアンジェリンは椅子の背にもたれて、うんと伸びをした。
けれど、いずれにしても帰郷は楽しみである。実家の寝床はオルフェンのものよりもがさがさして硬いけれど、アンジェリンにとってはそちらの方が落ち着く。きっと悪夢なぞ見ないでぐっすり眠れるだろう。
それにしても、どうして突然こんなに夢見が悪くなったのだろうと考える。考えてみても、別に何か特別なきっかけがあったようには思えない。
アンジェリンは腕組みしてむむむと唸った。記憶の糸を辿ろうとするけれど、どうにも集中できずに、途中で靄がかかったようになってしまう。
テーブルに顎を付けて溶けていると、扉の開く音がして、アネッサが入って来た。ミリアムとは別に買い物に行っていたらしい。
「お、アンジェ来てたのか」
「うん……おかえりアーネ」
「あれー、マリーは?」
「エドさんと模擬戦だってさ。依頼に行けないから体を動かしたいみたい」
アネッサは買い物籠を下ろしながら言った。
「アンジェは相変わらず調子悪いのか」
「悪い……変な夢ばっか見て、疲れが取れない……」
「夢ねえ……でも内容は覚えてないんだろ?」
「覚えてない……でも、今度の夢はカシムさんが出てきたような気がする」
「カシムさん? なんで?」
とミリアムが首を傾げた。アンジェリンは嘆息した。
「わたしに分かるわけない……だから困ってるの」
「カシムさんに会いたいんじゃないのか?」
アネッサが言うと、アンジェリンは口を尖らした。
「カシムさんには別に会わなくていい。お父さんに会いたい。お母さんにも」
「まーたそんな事言っちゃってー」
「けど、それならベルさんかサティさんが夢に出て来てもよさそうなのにな」
「そう、わたしの御両親は出て来てくれない……さては愛を育むのに忙しい……? それはそれで大事。しかし娘も大事にして欲しい……」
「あ、いつものアンジェだ」
「でも、嫌な夢にベルさんたちが出てこないのはいいんじゃないかと思うぞ」
「うん……でもそもそも嫌な夢は見たくないけど」
「何か自分でも気づかない悩みでもあるのかな」
「アンジェってば、そんなに繊細になっちゃったのー?」
「うるさいぞミリィ、リーダーを敬いなさい……」
しかし、確かに自分らしくもないという風に思う。別段悩むような事はなかった筈だが、と考えると、やはりソロモン関係の色々が関係しているのだろうか、という所に行き着く。
サティの話からすると、アンジェリンは魔王である。それも多分シュバイツ達の言うところの成功作である可能性がある。
アンジェリン個人としてはそんな事はどうでもいいのだけれど、それで見す見す不都合を看過するのは面白くない。
「……近々、ばあちゃんにも会いに行こうかな」
「おばばに? 魔王の事?」
「うん。一応わたしも調べておかないとだし」
こちらでしか得られない情報だってある筈だ。トルネラに帰った時に共有できれば、何かしら話が進展するかも知れない。あまり心配しているわけではないが、やはりシュバイツの存在は小骨のように引っかかっている。目的に興味などないが、それに巻き込まれるのは迷惑千万だ。
アネッサが腕組みした。
「魔王か……結局まだ分からない事だらけだもんな」
「……ソロモンが人間の為に旧神と戦ったって話、本当だと思う?」
「うーん、何とも言えないなー。けどあのニーカなんとかっていう本によると、ソロモンとヴィエナは惹かれ合っていたけど、結ばれる事はなかった、って事だよね。そう考えると、もしかしたらあり得る話かもねー」
ミリアムは頬杖を突いて視線を泳がした。アンジェリンは残った薬を一息に飲み干す。
「ふう……ちょっとロマンチックだよね」
「アンジェもそう思う?」
惹かれ合いながらもついに結ばれる事はなかった二人。お芝居の脚本にでもなりそうだ。二人は顔を見合わせてくすくす笑った。アネッサが頬を掻いた。
「ヴィエナ教からしたらとんでもない話だけどな……シスターにも話せないぞ、そんな事」
「それはそれ、これはこれ」
「ソロモンって、どんな人だったんだろうね……」
「うーん、どうなんだろうね。悪の代名詞みたいに言われてるけど、そう単純でもなさそうだしね」
「かといって実は善人だったってのもなさそうだけどな」
「完全な善人も完全な悪人もいない、ってお父さんは言ってたよ」
「それはそうかもねー」
「ふーむ、しばらく仕事受けないなら、そっちを調べるのに本腰入れてもいいかもな」
とアネッサが言った。アンジェリンは頷く。
どちらにせよ、調子が悪ければ仕事に出ない方がいい。手持無沙汰なら、何かやっていた方が気が紛れる。魔獣との戦いで調子が悪ければ命にかかわるが、調べものをするのに死ぬ事はない。
ともかく近いうちにマリアに会いに行こうと思った。安眠の相談もできれば一石二鳥だ。タイミングによっては、先にイシュメールに会ってもいい。彼も知識は深そうだし、それに人と話していると変な夢を見たのを忘れられる。
それならば、思い立ったが吉日という気がして来た。今朝もイシュメールに会おうと思っていたのに、体がだるかったから諦めたのだ。少しでも元気がある時に動いた方がいい。
しかしふと瞼が重くなって来た。アンジェリンは顔をしかめて目をこする。お昼ご飯を食べ過ぎただろうか。
「……眠い。なんでだろ」
クッキーをかじりながらミリアムが「お」と言った。
「よく寝られる薬草を調合したんだけど、効いて来ましたかにゃー?」
「そういう事は……早く言いなさい……」
「大丈夫か? 寝床使っていいぞ」
とアネッサが言った。
しばらく瞼を持ち上げようと頑張ってみたが、駄目だ限界だ、とアンジェリンは立ち上がり、ふらふらした足取りで寝床に向かって倒れ込んだ。ふかふかした感触がたちまち体を緩ませる。思った以上に体が疲弊しているのかも知れない。
もそもそと枕に顔を擦りつけると、ミリアムの髪の毛の匂いがした。
ここはミリアムの寝床か、と思っているうちに体中の力が抜けて、アンジェリンは眠りの世界に沈んで行った。
○
雲一つない青空は、見上げると気が遠くなる程に高い。昼下がりの太陽は燦々と光を地上に投げかけてそこいらを照らした。明るい分、影は輪郭がはっきりしている。
ダンカンの戦斧が唸りを上げて振り下ろされた。体半分動かしてそれをかわしたパーシヴァルは、素早く前に出てダンカンのみぞおちに手を当てた。
「む、む、参った!」
「はは、もう少し頑張れ」
パーシヴァルは笑いながらひらひらと手を振った。ダンカンは苦笑しながら戦斧を引く。
「いやはや、パーシヴァル殿は流石のお手並みです。剣を抜かせる事もできぬとは」
「木こりやってて少し鈍ったんじゃねえか?」
「ははは、据え物ばかり切っているのは間違いありませんな!」
ダンカンは豪放に笑って、どっかりと腰を下ろした。パーシヴァルもその隣に腰を下ろして、高い空を見上げた。鳶が鳴きながら円を描いている。
若者たちの鍛錬に付き合った後、暇を持て余したパーシヴァルが村の外をぶらついていると、戦斧の素振りをしているダンカンと出くわし、どうせならと手合わせをしたのが今さっきだ。
村は冬支度で忙しいし、ベルグリフは最近、セレンやホフマン、ケリーらと色々な相談をしている事が多い。主にギルドの事だ。ギルド運営に積極的に関わるつもりのないパーシヴァルはそこに顔を出すつもりはないらしかった。
サティは家事や村の女たちの仕事に顔を出しているし、グラハムは子守をしている。
双子と遊ぶ事はあるが、最近はシャルロッテやミトが姉、兄として面倒をみているから、それほど出番がない。カシムとずっとつるんでいても仕方がないし、要するに暇なのだった。
ダンカンは戦斧を地面に置いた。
「しかし、ダンジョンができるという話になっては、某も勘を戻さねばなりませんからな。や、元々探索はそれほど得手としてはおらんのですが」
「ならベルと一緒に潜って鍛えてもらえ」
「それもいいですなあ。いや、某も以前森に異変が起きた際、ベル殿と一緒に赴いた事があるのです」
「ああ、ミトがここに来た時の話だったか」
「そうです。最初に入ったマリー殿とグラハム殿を追って行ったのですが、ダンジョン化しつつありまして方角が分からなくなりましてな。道に迷ったかと思いましたが、ベル殿の機転で方角が分かりまして無事に辿り着く事ができ申した」
「そういう奴だよ、あいつは。異常事態にこそ冷静でいられる。俺たちも何度も助けられた」
あの時もな、とパーシヴァルは自嘲気味に笑った。ダンカンは顎鬚を捻じる。
「某が言うのも筋違いかと存じますが……まだこだわっておいでなのですか」
「……負の感情ってのは中々消えてくれねえもんなんだ。上から色を塗り重ねても、ふとした瞬間に下の色が滲んで来る。俺は暗い気持ちで戦って暮らして来た。今がどれだけ明るくても、それ自体は消えそうもねえな」
「ふむう……」
難しい顔をして考え込んでいるダンカンを見て、パーシヴァルは吹き出した。
「そんな真面目な顔すんな。こりゃ俺の問題だ。お前が悩まなくたっていい」
「や、これは出過ぎた真似を」
「んん、いや、そういう意味じゃなくてな」
相変わらず真面目な奴だとパーシヴァルは苦笑した。ダンカンは困ったように頭を掻いた。
「どうにも某は無骨者でして……ハンナにもよく言われるのですが」
「おお、最近会わねえが嫁さんは元気か」
「某よりも元気ですぞ。どうにも頭が上がりません」
「そいつはいい。嫁が強い方が家庭は平和らしいぞ」
「ははあ、そういえばサティ殿もお強い」
ダンカンが言うと、パーシヴァルは笑い出した。
「ベルは誰に対しても弱いだろうよ」
「ははは、確かに。しかしその柔らかさがベル殿の強みでもありましょう。剣にもそれがよく表れているように某は思います」
「だろうな……俺の剣とは正反対だ」
「そういえば、パーシヴァル殿の剣は我流なのですか?」
「ああ。尤も、今みたいになったのは一人でうろつくようになってからだ。がむしゃらに魔獣と戦い続けて……気付いたらこうなってたな」
思い出すように言うパーシヴァルを見て、ダンカンはあんぐりと口を開けた。
「なんと……それで今日まで命が続くとは」
「……そう考えるとそうだな。いや、まあ、がむしゃらとはいっても、敵わないと思ったら逃げてはいたんだが。即座に目くらましをかまして……何だかんだいって命が惜しかったんだろうな。それに……」
「それに?」
「いや、そういう撤退戦はベルが得意でな、見様見真似でやってた。そうすると……まだあいつと一緒に戦っているような気がして、少し嬉しかったんだと思う。当時はそんな事を考える余裕もなかったんだが」
「ははあ」
「勝てない相手からは迷わず逃げる、ってな。皮肉なもんだ。パーティ組んでた時には無茶ばっかりしてた俺が、一人になった途端にそうだったんだからな」
「しかし、そのおかげでこのように再会が叶ったのではありませんか」
「ああ……熱に浮かされたような視界を明瞭にしてくれたのは、あいつらと一緒だった時の思い出さ。尤も、ベルと再会する直前は、それさえも苦しかったな」
「……苦労なされたのですな。それでいてここまで剣の腕を磨き上げられたのには驚嘆いたします」
ダンカンが感心したような顔をしていると、パーシヴァルは急に恥ずかしくなったように頬を掻いた。
「くそ、喋り過ぎた。おい、他の連中には内緒だぜ。こう、ベルたちにはこういう話は小っ恥ずかしくてできねえからよ。特にカシムには言うんじゃねえぞ。あいつはすぐ調子に乗りやがる」
「はっはっは、そうですか。某でよければいくらでも聞き役になりましょうぞ」
「いや、今日は……ええい、もう一勝負行くぞ」
「承った。胸をお借りしますぞ」
そうして再び二人は向かい合う。パーシヴァルは素手、ダンカンは戦斧を構えて、じりじりと距離と機会を計った。
先ほどは先手を打ったのを押さえられたダンカンはやや慎重になっていたが、その不意を突くようにパーシヴァルがあっという間に距離を詰めて来て、戦斧を振り下ろす前に腕を押さえられてしまった。
「ぐ、流石ですな……」
「これでもSランクだからな。そう簡単に負けやしねえよ」
パーシヴァルはからから笑った。ダンカンは苦笑しながら戦斧を担ぎ直す。
「某ももっと鍛えねばなりませんな……パーシヴァル殿はトルネラに腰を据えられるのですか?」
「いや、いずれ旅に出ようとは思ってる。まあ、ダンジョンやギルドが落ち着くまではいるつもりだがな」
「ふむ……貴殿は根っからの冒険者気質なのですなあ」
「まあ、それもあるが……どうしてもぶっ殺したい相手がいるからな」
ダンカンは怪訝な顔をした。
「それは……確かベル殿の足を奪ったという?」
「ああ。今の俺たちの日常はいいもんだが……この間にもあいつがのうのうと生きていると思うと俺は耐えられん。ベルは良い顔をしねえが、こればっかりは俺の意地だ。俺が原因だったんだから、俺が片を付けなきゃいけねえ」
パーシヴァルはそう言って拳を握り締めた。それからフッと力を抜いて、大きくため息をつく。
「……ま、それもまだ先の話だがな」
冬の貴婦人の忠告も気になるしな、とパーシヴァルは欠伸をした。
ダンカンは腕を組んで考え込んでいる。
「某には……想像しかねます。そこまで憎む相手がいるというのは……」
「はは、いない方がいいのさ。それが幸せってもんだ。さーて、もう帰るかな。ダンカン、お前ハンナに何か頼まれてたんじゃなかったか」
パーシヴァルが言うと、ダンカンは思い出したように目を見開いた。
「そうでした! 戻って荒削りの手伝いをせねば!」
失礼仕る! と言ってダンカンは駆けて行った。パーシヴァルはくつくつと笑った。
「忙しいな、嫁のいる男は……さて」
自分も帰ろうかと思う。薪割りくらいはしておかないと、またカシムがからかって来たり、サティに小言を言われたりするだろう。子供の相手をしてもいいかも知れない。
この時間は愛おしい。しかしその奥で復讐への暗い情念は消える事無く燃え続けていた。碌なものではないと分かっていても、目を逸らす事ができない。長年、それを拠り所にして戦い続けて来たのだ。
しかし、ともかく今は冬支度だ。復讐の前に凍え死んでは笑い話にもならない。
パーシヴァルはマントを翻して歩き出した。山から風が吹き下ろして来た。
○
熱かった。急に焼けるような熱風が吹いて来て、驚いて目を開けた。
ごつごつとした岩肌が、赤い光に照らされていた。空は暗い。夜らしい。光源は地面だ。ひび割れた大地から赤い光が漏れ出している。
奇妙な音が聞こえていた。地鳴りのようでもあり、何かが唸っているようでもあった。両側は斜面になっていて、そのあちこちから噴煙が吹き上がって闇の中を流れていた。それが赤い光に下から照らされて巨大な化け物のように見えた。下に垂れて来るものもあって、視界はあまり明瞭ではない。
ずしん、と地響きが足先から頭のてっぺんまで伝って来た。ハッとして前方に目を凝らす。赤黒い暗闇の向こうで、何かが動いていた。
咄嗟に腰に手をやるが、剣はない。心臓が高鳴るのを感じながら、そろそろと前へと進む。
岩肌にそっと手を触れて、驚いてひっこめた。岩だと思っていたものは、小さな龍の死骸であった。黒い鱗が光を照り返してぎらぎらと光っている。
見ると、そんな死骸がいくつも転がっていた。小さいが、どれも龍種だ。数多い魔獣の中でも上から数えた方が早い上位種族である。
どの龍も刀傷だった。
分厚い鎧にも匹敵する筈の鱗は無残に切り裂かれ、またある部分は力任せに貫かれたようにひしゃげている。魔法や弓矢などの遠距離での傷はない。
流石に、これだけの数の龍を一度に相手にした事はない。龍種相手に負ける気はしないが、それでも数の暴力というものはある。死骸の間を縫うようにして、慎重な足取りで進んだ。
死骸の数は次第に増え、また大きなものも目立つようになった。まだ生き残りがいるかと思っていたが、この分ではそれはなさそうに思える。
不意に咆哮が響いて来て、耳を押さえる。熱風が吹き荒れて、視界を遮っていた噴煙が吹き払われた。
巨大な龍が吼えていた。真黒な鱗に全身を覆われ、瞳は赤く光っている。
その足元に、男が一人立っていた。がっしりした体格に癖のある枯草色の髪の毛が揺れている。パーシヴァルだ。
その姿が目に入るや、胸のうちに強烈なやるせなさと怒り、悲しみや憎しみといった感情が掻き立てられて、思わず胸を押さえる。これは自分のものではない。すると、目の前のパーシヴァルの気持ちが流れ込んで来ているのだろうか。
パーシヴァルはぶつぶつと何か呟いていた。
「お前じゃない……お前でもない……」
よく見るとパーシヴァルはボロボロだった。頬や額から血が流れ、マントはやぶけて、鎧もでこぼこになっている。左腕は変な方向に捻じれて、指先からぼたぼたと血が滴っていた。
「殺せねえのか? おい、お前も……」
パーシヴァルは右手に持った剣を龍に向けた。
龍の方もあちこちに切り傷が走り、方々の鱗が剥げて血を流していた。目も片方潰れている。かなりの激闘だったようだ。なんであんなに傷ついてまで、と体がすくんだ。
「いい加減に……終わらせてくれよ。こんなのはもう……ああ、ちくしょう。こんな傷、この程度じゃ……」
パーシヴァルは苦々し気に舌を打った。
龍の方も困惑したように唸っている。絶対的強者には、ここまで追い込まれた経験はないのだろう。理解が追い付いていないようだが、残った目には怒りの炎が燃えていた。
龍が牙を剥いてパーシヴァルに襲い掛かった。
パーシヴァルは一歩も引かずに、逆に前に出てそれを迎え撃つ。牙と剣とがぶつかり合い、魔力が弾けて迸った。
パーシヴァルは自分を守るという事をしなかった。曲がった左腕すら怪我をしていないように扱い、縦横無尽に駆け回って黒龍を激しく攻め立てた。龍の方はこの怒涛の攻撃に次第に押されていた。自分が傷つく事をいとわぬパーシヴァル相手に、瞳に恐怖の色すら浮かんでいた。
龍にとっては小刀程度でしかない筈のパーシヴァルの剣は、易々と鱗を断ち、肉を割いて骨を穿った。
魔獣を相手に戦う事自体に、思う所はない。自分だってそうだからだ。
しかし、その戦う姿があまりに悲しく、やるせなかった。
一太刀一太刀が龍の体を斬り裂き、また龍の爪や牙、口から吐く炎がパーシヴァルの身を焦がす。その度に、胸の内が刺すように痛んだ。それがパーシヴァルの持つ苦しみだと理解できた。こんな辛さを抱えて戦っているのか、と心臓が激しく打っていた。
やがて黒龍が倒れた。ずん、と地面を揺らしてから、不気味な静寂が辺りを包んだ。地の底から響くどろどろという音と、パーシヴァルの荒い呼吸の音だけが嫌に大きく聞こえた。
龍と単身で戦い、勝つ。大金星の筈であるのに、パーシヴァルの表情には喜びの色は少しもなかった。むしろ落胆しているようだった。龍の死骸の傍らに腰を下ろして、大きく息をつく。疲労と絶望とが、パーシヴァルに影を作っていた。その姿はひどく孤独に見えた。
「どれだけ殺しても……」
不意に胸を押さえた。ごほごほと咳き込んで、懐から匂い袋を取り出して口元に当てる。しばらく呼吸を繰り返し、地面に唾を吐いた。血が混じっていた。
救いを求めていた。しかしそれを求める自分を否定する心もあった。それがぶつかり合って、ひどく苦しかった。そのパーシヴァルの苦しみが流れ込んで来て、ありありと分かった。自分の呼吸の荒くなるのが分かる。
何か言おうとした。しかし言葉は出ない。
歩み寄ろうとしても足も動こうとしない。ただ悲しみばかりが溢れて来て、胸が詰まった。
次第に闇が濃くなって来た。視界が塗りつぶされるように黒くなった。
最後に見えたのは、わずかに震えながらもきつく握り締められたパーシヴァルの拳だった。