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一四四.代官屋敷の壁は白亜で美しく


 代官屋敷の壁は白亜で美しく塗られていた。晩夏の昼下がりの陽射しを照り返して目に眩しいくらいだ。仕上げを行った大工の親方は得意顔であった。

 尤も、内装は貴族屋敷のそれには及ばない。大工たちは自分たちの技術と、ボルドーに視察に行った時の経験を注ぎ込んだものの、田舎の家しか建てた事がないから、意匠や細かい点などはやはり同じようには行かない。

 しかしセレンは民に近いボルドー家の令嬢という事もあって、ちっとも気にしていない様子だった。連れて来られたメイドや使用人の方が、あれが足りないだの、これが使いづらいだのと言っていた。


 そのセレンは何度もトルネラとボルドーを行き来して、その度に種々の書類や道具などを屋敷に揃えていた。

 もう村長補佐としてトルネラに腰を据える準備は着々と整っている。補佐とはいっても、現村長のホフマンは早々に譲るつもり満々の様子である。


 書類の束を棚に収めて、セレンが振り返った。


「ふう……これで概ね揃いましたね」

「荷物などは大丈夫そうですか」


 ベルグリフが尋ねると、セレンはにっこり笑った。


「ええ、おかげさまで……何分、持って来るものの取捨選択が多かったもので」

「ボルドーのお屋敷よりも狭いでしょうからな……」

「いえいえ、こちらでお仕事をするのに有用そうな書類をまとめていましたから……前の騒動の時に資料室は無事だったのが幸いでした」


 ベルグリフはおやおやと顎鬚を捻じった。セレンが行き来していたのは、トルネラの現状を確認しつつ、ボルドーで資料や書類をまとめる為だったのだ。過去の書類に片っ端から目を通していたらしいから、時間も労力もかかっただろう。セレンが内務の才を持つと言われるゆえんは、こういう真面目な部分から来るのかも知れない。


 ここは執務室だ。油の塗られた木の床に、羊毛の分厚い絨毯が敷かれていて、書類棚に執務机、来客用のテーブルと椅子とが置かれている。飾り気はないが、十分に使えるだろう。

 セレンは椅子に腰を下ろしながら口を開いた。


「将来的に村長、という話になっていたと思いますが」

「ええ、そう聞いておりますが」

「しかし、わたしもこの先ずっとトルネラにいるとは限りません。申し訳ない話ですが」


 それは当然だろう、とベルグリフも頷いた。セレンほどの器量と才能をトルネラに押し込めておくのは得策ではない。ダンジョンも含めて、ここの形が出来上がって来た頃には、もっと大きな町に行くか、有力な貴族の元に嫁ぐ事になるだろう。

 セレンはテーブルの上で手を組んだ。


「それに、村長というのはやはり村の人間がなるべきだと思うのです。わたしは領主の家の人間ですが、やはり外様、ホフマン様のようにトルネラの伝統や季節の仕事が頭に入っているわけではありません」

「ふむ」

「ですから、あくまでボルドー派遣の代官という形の方が波風が立たないかと思いまして。もちろん、村長としての仕事もある程度兼務する事になるとは思いますが」

「……確かに、それがいいかも知れませんな。その方がセレン殿も身動きが取りやすいでしょう。恐らくボルドーとトルネラを行き来する事も多いでしょうし」

「はい。よかった……」


 セレンはホッとしたように目を閉じた。才能豊かと言っても、まだ姉の庇護下でしか動いて来なかった娘だ。何かしら頼りにできる存在を無意識に求めているのだろう。

 メイドが運んで来たお茶をすすって、セレンは微笑んだ。


「ふふ、やはりベルグリフ様に相談してよかったです」

「はは、わたしなどでよければいつでも相談相手になりましょう」

「ありがとうございます。本領ではアッシュに相談する事が多いのですが、ここではそうもいきませんから……」

「アシュクロフト殿もお元気ですか」

「ええ。最近はちい姉さまに連れられて魔獣討伐にも行ったのですよ。アッシュも成長しているみたいです」


 少し雑談をして、ベルグリフは代官屋敷を辞した。

 セレンとは折に触れて色々な打ち合わせをしている。ヘルベチカはトルネラに兵士団も駐留させるつもりらしく、兵舎などの建設も視野に入れようという事になった。人の流入が始まった時には当然治安の問題が起こる。ある程度の抑止力は必要だろうという考えだ。


 家路を辿りながら、ベルグリフは腕組みした。

 色々な事が進んでいる。勢いに押し流されるような心持だ。物事が具体化して来る程に、楽しみにもなるし、言いようのない不安も膨らんで来る。しかし今更どうこう言っている場合ではない。考え続けなくてはならないが、歩みを止めるわけにもいかないだろう。


 広場まで行くとカシムがいた。数人の若者相手に魔法を教えているらしかった。


「ほら、焦るんじゃないよ。集中しないと魔力が散らばるぜ」


 若者たちは目を閉じたり一点を見つめたりして、それぞれに集中していた。筋の良い者は魔力が風のように体の周りを舞って、服の裾が揺れた。

 ベルグリフが近づくと、カシムが振り向いた。


「お、セレンちゃんの手伝いは終わり?」

「ああ。こっちも順調そうだな」

「へっへっへ、中々熱心でいいよ。まあ、でもぼつぼつ終わりかな。あんまし練習にばっかり時間取ってると、こいつらの親がいい顔しないからね」


 ベルグリフは笑って頷いた。

 もう夏も盛りを過ぎて秋が近い。森の木々は次第に色づき始め、冬支度に忙しくなりつつある時期だ。ダンジョンができる以上鍛錬して悪い事はないが、それにかまけて冬の生活が厳しくなっては全くの無意味である。

 カシムはぱんと手を叩いた。


「よし、今日は終わり。コツは教えてやったんだから、後は自主練しな。きちんと魔力が練れるようになったら、もう少し難しい魔法を教えてやるよ」


 若者たちはわあと沸き立って、それぞれの家に仕事をしに戻って行った。

 ベルグリフは顎鬚を撫でる。


「ものになりそうかな?」

「全員ってわけにはいかないけどね。ま、場数を踏めば高位ランクに手が届きそうな奴はちらほらいるよ。赤鬼塾のおかげかな、こりゃ」


 カシムはそう言ってからから笑った。ベルグリフは苦笑した。


「俺は魔法なんか教えた覚えはないが……まあ、ちゃんと力が付きそうならよかった」

「基本は十分さ。でもやっぱ現場を知らないとね。難しい魔法が使えても、実戦でまごついてちゃ話になんないし……まあ、ここの連中は何度か魔獣とも戦ってるし、心配ないと思うけどさ」

「はは。色んな事が進んで行くな……」


 ベルグリフは言った。カシムは頷いた。


「だね。今は未来を作ってるって感じがする。もう一々過去に捉われる必要もないし」

「……君は、もう吹っ切れたかい? パーシーは、まだ」

「んー……まあね。パーシー程思い詰めちゃいないけど、オイラだってあの黒い魔獣の事は憎いさ。できるなら殺してやりたいと思ってる」

「そうか……」


 ベルグリフが頬を掻くと、カシムはにやにやと笑った。


「そんな顔すんなって。オイラはその為にわざわざ旅に出ようなんて考えちゃいないよ」

「ん、それなら……パーシーもそうなってくれれば俺は嬉しいんだがな」

「そればっかりはあいつの問題だからねえ……ま、ここで若い連中に教えてる間に丸くなってくれりゃいいよね」


 カシムは大きく伸びをした。


「しっかし、いいよなあ。オイラたちは教えてくれる奴なんか全然いなかったもんね。失敗しまくりだったような気がする」

「そうだな。でもそうやって試行錯誤した事の方が身に付くものさ」

「かもね……けどたまに思うんだよな。もし今のベルみたいな大人があの頃のオイラたちの近くにいてくれたらってさ。オイラ、随分悪い事いっぱいしたからなあ」

「……やっぱり色々と辛かったんだな、君たちは」


 ベルグリフが済まなそうに言うと、カシムは笑ってベルグリフの背中を叩いた。


「一番辛かったのは君さ。オイラたちは投げやりになり過ぎたんだよ。それを指摘して何か言ってくれる大人がいたらな、って今になって思うだけさ。ガキの頭じゃ良くも悪くも一途過ぎたんだよね」

「うん……俺もあの時そうだったら、って思う事もあるが」

「でも、結局これでよかったんだって思うよ。ある意味、オイラたちがばらばらにならなけりゃアンジェはいなかったんだ。アンジェがいなけりゃ出会えてなかった奴も沢山いる」

「そうだな……」


 ベルグリフは目を伏せた。カシムはにやにやしながら顎鬚を捻じった。


「相変わらず真面目だなあ」

「や、すまん。どうも深刻になり過ぎるのが困るな」

「へっへっへ、そこが良い所でもあるよ、ベルは」


 風が吹いて、千切れ雲が流れて来た。陽は傾き出して、村の西側にはもう山の影が伸び始めている。


「もう秋になるな……」

「早いもんだね。去年はもうティルディス辺りにいたっけ?」

「そうだったと思うが……そうか、もう一年経つのか」


 時間が経つのは随分早いと思う。アンジェリンは岩コケモモが食べたいとずっと言っているから、今度こそ帰って来る筈だ。

 最近は忙しいのだろう、手紙の類も来ていない。またトルネラで冬越えをするのか、それとも秋祭りにはオルフェンに出るのか。その辺りはベルグリフには分からない。


 二人は連れ立って家に戻った。冬支度をしなくてはいけない。

 庭先の干し野菜をいじくっている双子をビャクが捕まえているのを見て、ベルグリフは小さく笑みを浮かべた。



  ○



 ここのところ妙な夢ばかり見る。嫌に鮮明で、まるで現実のような夢だ。指先がじんじんと痺れている。起きた時に鼻の奥に臭いが残っている事もある。

 しかし寝起きのまどろみを覚醒させようとしているうちに、それらは文字通り夢のように消え失せて、服を着替えて顔を洗う頃には、どんな夢であったかすっかり忘れてしまう。ただ、あまり気持ちのいい夢でない事だけは確かで、覚えていなくても何だか気分が悪かった。


 やがて夜中に何度も目が覚めるようになった。

 体がじっとりと汗を掻いていて、喉が渇く。悪い夢を見たと分かっているのに、内容が分からない。再び寝床に横になってもしばらくは眠れず、眠ってもまた悪夢だ。そうして寝た気がしないまま空が白んでいる。


 そんな事が続くものだから、アンジェリンはくたびれていた。寝不足の頭は覚醒するのにも時間がかかって、朝が辛くなった。

 しかし実際に体が疲れているわけではない。一応眠ってはいる筈なのだ。しかし眠れば眠るほど却って疲労が溜まるような気分だった。気が滅入って、何をするにも何となく力が入らないようだった。


 突き出した剣を巻き取られて、アンジェリンはたたらを踏む。相対するマルグリットは変な顔をしてアンジェリンに剣を突き付けた。


「何してんだ、お前よー。最近ちっとも歯応えねーぞ」

「……分かってるんだけど」


 アンジェリンは顔をしかめて頭を掻いた。

 身が入らないから、模擬戦でこうやってマルグリットに負ける。

 しかしマルグリットの方も釈然としていないようで、勝った筈なのにちっとも嬉しそうではない。

 マルグリットは細剣を鞘に戻して肩をすくめた。


「そんなんじゃ魔獣にやられちまうぞ」

「むう」


 アンジェリンは口を尖らして、転がっている剣を拾い上げた。


「マリー如きに負けるとは……屈辱」

「はん、よく言うぜ。ま、減らず口叩く余裕があるならいいか」


 マルグリットはそう言って欠伸をした。

 アンジェリンはふんと鼻を鳴らす。しかし心のどこかでは強がりだと分かっている。何となく心細く、何かしていないと落ち着かないようでもあるが、何をするにもくたびれている気がした。


 もう夏も終わりに近づいていた。秋の気配を感じる度に、早くベルグリフに会いたいと思った。

 アンジェリンたち一行は、オルフェンに戻ってからは忙しくあちこちに出向いて仕事をしていた。魔王騒ぎの時に比べれば魔獣の数も減っている。しかしSランク冒険者にしか出来ない仕事も当然あって、頼まれれば断らずに東奔西走して剣を振るった。

 これだけ働いたのだから、少し早めに帰郷してもいいかも知れないと思う。だが自分の弱さに負けるような気もして、どうにも踏ん切りが付かなかった。


 そういう風にアンジェリンが不調だから、ここ数日は仕事を受けずにいる。今日も一度はギルドに集まったものの、アンジェリンがこの状態だから結局仕事は受けなかった。

 それでも体を動かせば少しは調子が出るかと、マルグリットに付き合ってもらって模擬戦をしていたのだが、精神的に不調なのは如何ともしがたい。それが体にも出て来て、やはり不調は不調なのだと再確認する事になってしまった。


 ともかく、それで教練場を出た。

 夏の終わりの陽射しは重かった。昼前で、オルフェンの街並みに埃が舞っている。いつものように沢山の人々が行き交って、歩く音や話し声、その他諸々の雑多な音でたいへんざわざわしている。

 何ともない筈のいつもの光景が、何だか嫌に気に障る。強い陽射しに目の奥がつんと痛む気がした。

 マルグリットが頭の後ろで手を組んだ。


「トルネラに戻る前にもうちょっと依頼を受けると思ったんだけどなー」

「別に受けてもいいんだけど……」

「馬ぁ鹿、今のお前が前張れるわけねーだろ」


 マルグリットに当を得た事を言われるとムッとするけれど、言い返す元気もない。アンジェリンは肩を落として嘆息した。マルグリットは口を尖らせてアンジェリンの背中を叩いた。アンジェリンはバランスを崩してふら付いた。


「あう」

「ちぇ、お前がそんなだと張り合いがねえや。来いよ。景気づけに酒飲み行こうぜ」

「むー……」


 そういう気分でもないが、家に帰って眠るような気にもなれない。

 そもそもここ最近は眠るのが嫌になっている。寝る程に疲れるのでは睡眠の意味がない。夢も見ないくらいでろでろに酔ってしまえばぐっすり眠れるだろうか。


「……分かった。行こ」

「おっしゃ。アーネとミリィはどうしてっかな」


 今日は二人とは別行動だ。ギルドで別れてからの予定は聞いていない。孤児院に出かけているか、二人だけで簡単な仕事を受けているか、ともかく事前の打ち合わせもなしに今から合流するのは難しいだろう。


 それでアンジェリンとマルグリットは、連れ立っていつもの酒場に行った。

 昼前だからまだ人はまばらだった。しかし昼飯時になると混んで来るだろう。

 二人はカウンター席に並んで座った。マスターは相変わらずの無表情で二人を見た。


「テーブルの方がよかないかね。後でお仲間が来るんだろう」

「ううん、今日は二人……ワイン頂戴」

「おれは蒸留酒。あと腸詰と蒸かし芋。煮込みも。アンジェは?」

「……わたしはいいや。食欲ない」

「何言ってんだ、食うもの食わなきゃ元気も出ねえぞ。ええと、鴨肉のソテー」


 マルグリットが元気であるのを見る度に、アンジェリンは何となく負けたような気分になった。それで発奮しようとするのだけれど、穴の開いた袋に空気を入れようとするように、快活な気持ちは膨らむ前にしぼんでしまう。

 それでもワインを立て続けに三杯飲み干すと、多少落ち着いた心持になった。マルグリットの方も蒸留酒を同じペースで干して平然としている。


「で、結局夢の事は思い出せないんだろ?」

「うん……でも夢を見た時の嫌な感じはずっと残るの。だから嫌なの」

「はー、面倒臭えなあ」


 マルグリットはそう言って腸詰をかじり、蒸留酒をまた追加した。

 夢の内容が思い出せないのが、アンジェリンを余計に苛立たせていた。内容が分かっていれば、せめてそれを仲間に愚痴としてこぼす事ができる。そうすれば、例えばマルグリットに、そんなのはただの夢だ馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしてもらえる。アネッサやミリアムは笑いながらも慰めてくれるだろう。そうなれば自分だって気が軽くなるに違いない。しかし思い出せないのではそれもできない。

 アンジェリンはカウンターに頬杖をついた。


「マリーはそういう経験ない……?」

「そういうって、どういう?」

「嫌な夢を見たけど、内容を忘れちゃう事……」

「忘れたんなら覚えてねえもん」


 そうなんだけど、とアンジェリンは嘆息した。


「やっぱりマリーは駄目……」

「なんだと、コンニャロー。お前の方がダメダメじゃねーか」


 そう言われると言い返せない。ぐたっとして、ワインを一口飲んだ。いつものように喧嘩がしたいらしいマルグリットは詰まらなそうである。


「ったく、いつまでもうじうじすんなよな。気にするから駄目なんだよ。別の事考えろって」

「……例えば?」

「トルネラ帰ったらまず何するかとかさ。岩コケモモ、採りに行くんだろ?」

「……うん」


 アンジェリンは椅子の背にもたれた。

 目をつむって、故郷の秋を思い浮かべる。

 平原の草の色はもう褪せ始めていて、しかし山麓の森は赤や黄に美しく染まっている。山の頂上には雲がかかっているが、空は青くて高く、そこに村から立ち上る煙が溶けて行く。森に分け入れば、湿った土と枯葉の匂いがする。緩やかに傾斜した森の獣道を辿って行くと、次第に背の低い木が増えて、日当たりのいい、岩の多い場所に辿り着く。深緑の小さな葉の中に、真っ赤に熟した岩コケモモが実っていて……。


 アンジェリンはほうと息をついた。


「帰りたいなあ……」

「もうちょいだろ。だから悪い夢くらいに負けるなって」


 マルグリットはそう言って笑い、また蒸留酒を杯に満たした。


「岩コケモモ、うまかったなあ。甘酸っぱくて、いくつでも食べられるもんな」

「え……食べたの? いつ?」

「おう。ほら、お前がエストガルに行って入れ違いになった時、オルフェンに来たんだけど、丁度秋祭り後だったじゃん。子供らとベルと一緒に山に行って食べたぜ。いやあ、エルフ領にはあんまりなくてさ、群生地見たらおれ興奮しちゃって」


 アンジェリンはムスッとして頬杖を突いた。


「……わたしは一向に食べられてないのに」

「へー、そうか。どれくらい?」

「もう……十二歳の頃から」


 冒険者になるとオルフェンに旅立つ時の晩餐にたっぷり食べたのが最後だ。乾燥品やジャムなどは食べたけれど、やはりアンジェリンの思い出の味は取り立ての新鮮なものだ。いつも時期になる頃にトルネラにいないので、結局今の今まで口に入っていない。

 マルグリットは鴨肉を頬張りながら言った。


「随分なげえなあ、そりゃ。でもそういう方が食べた時の感動もひとしおじゃねえ?」

「ふんだ……もう食べた人に言われたくない」

「なんだー、拗ねたのかー? へっへー、うりうりー」


 マルグリットはにやにや笑いながらアンジェリンの頬をつついた。アンジェリンはむうと唇を尖らして、やにわにマルグリットの肩に手を回した。そうして両頬をむにむにとつまんで引っ張った。


「マリーの癖に調子に乗るな……すべすべしやがってー」

「にゃにしゅんだ、このぉ」


 マルグリットの方もアンジェリンの頬をつまんでやり返す。二人でぐたぐたもみ合っていると、マスターがワインの瓶をカウンターにでんと置いた。


「カウンターで暴れるのはやめてくれんかね」

「……ごめん」

「悪い悪い」


 二人はパッと手を放して、互いに見合ってあっかんべえと舌を出した。


 くだらない事をやったおかげで、少し気が紛れた。アンジェリンは何となくホッとした気分でワインをすすり、マルグリットはまた蒸留酒をおかわりした。アンジェリンの調子が戻って来たらしいのにご満悦な表情をしている。


「ふふん、お前はこうじゃなくちゃ面白くねえや」

「……もぐもぐ」


 アンジェリンはもう冷めてしまった鴨肉を一切れ頬張った。マルグリットにこうやって気遣われるのは何だか照れ臭い。アネッサやミリアム相手ならそんな風に思う事はないのだけれど。


 段々と人が増えて、がやがやした喋り声や、食器の触れ合う音があちこちから重なって聞こえるようになって来た。

 吹き込んで来る風は、夏の盛りほどの熱さはない。少し前までは、人が多くなるとそれだけで汗を掻くような心持だったのだが、もうそういう感じではなかった。


 アンジェリンは欠伸をした。ワインがいい感じに回って来たらしい。


「マスター、おれ薄焼きパン。削ったチーズ乗っけて」

「マリー、そんだけ飲んで食べれるの……?」

「は? 酒で腹は膨れねえだろ。お前こそもっと食えよ、元気出ねーぞ」

「もが」


 マルグリットは鴨肉を一切れ取ってアンジェリンの口に押し込んだ。アンジェリンは口をもがもがさせた。


「ま、結局仕事で疲れたって事なんじゃねーの? トルネラに帰ったら治ると思うぜ」

「うん……」


 鴨肉をワインで流し込み、アンジェリンはふうと息をついた。

 マルグリットの言う通り、どのみちもう少しで帰るのだ。それまでは頑張るしかない。仕事の事もそうだし、ソロモンの事もあるけれど、ひとまず郷愁の念に身を任せた方が、今はよさそうだ。トルネラの事やベルグリフの事は、何よりもアンジェリンの心を落ち着かせる。


 しかし、眠りに就くとまたおかしな夢を見そうな予感はずっと付きまとう。良い夢を、とまでは言わないけれど、せめて何も見ないでぐっすり眠れないだろうか。


「……イシュメールさんに相談しようかな」


 何か安眠できる魔法や薬があると嬉しい。ミリアムは冒険者になる為に魔法を覚えたタイプだから、そういった魔法には少し疎いのだ。マリアはソロモンの事で忙しそうであるし、イシュメールに相談するのがいいかも知れない。


 入り口から風が吹き込んで来た。落ち葉が何枚か舞い込んで来てかさかさ音を立てた。



  ○



 急に目の前がはっきりした。目を瞬かせて小さく頭を振る。これは夢だろうか。それとも現実だろうか。

 暗い場所だった。しかし外だ。

 どうやら夜らしい。崩れかかった石造りの建物や、ぼろぼろの木造りの小屋が通り沿いに並んでいる。スラム街という風である。

 見覚えのある風景ではない。あちこちに黒い泥汚れが跳ね散らかっている。分厚い雲が垂れ下がって、霧のような雨が降っていた。重く、陰鬱な雰囲気が漂って、気が滅入る。


 両手を見てみた。いつもの両手だ。手の平は剣だこがあって、指はほっそりとしているのにごつごつと硬い。

 地面はぬかるんで、あちこちに水たまりができている。折れた枝や、犬のものらしい死骸が片付けられずに転がっている。生ぬるい風の感触や、何かの腐ったような鼻を突く臭いがする。

 さっきまで寝床の中でまどろんでいたような気がしたのに、今はこうして見知らぬ景色の中に立っている。奇妙な気分だ。


 霧雨はもうもうと立ち込めていて、暗いのも手伝って見通しは悪い。風は生ぬるいのにひどく寒く、思わず両手で体を抱いた。

 こんな所にいたくない、と思うのだが、どうしてだか足が動こうとしない。動かせない、というよりは動かそうという意思が働かないのである。


 そのまま突っ立っていると、不意に大きな音がした。少し離れた路地裏の辺りの建物が崩れたらしい。地響きのように瓦礫の落ちる音が霧雨の間を縫って来た。

 背筋が震える。何か嫌な予感がひしひしとした。


 ぱしゃぱしゃと音をさせて、誰かが走って来た。

 霧雨の向こうに影が見えたと思ったら、背後から閃光が走り、「うぐっ!」と悲鳴を上げて地面に転がった。

 中年の男だった。骨ばった顔に、白髪交じりの茶髪を撫でつけている。


「く……」


 男は苦しそうに顔をゆがめて、肩の辺りを押さえた。後ろから魔法か何かに肩を貫かれたらしい。麻のローブは血と泥で汚れていた。

 男の後ろからまた誰かが現れた。


「逃げられると思ってんの?」


 山高帽子をかぶった髭の男だった。

 思わず目を見開いた。カシムだ。しかし知っている姿よりも少し若いように見えた。


「ま、待ってくれ……頼む、見逃してくれ! 妻も子供もいるんだ……私の帰りを待っているんだ!」


 必死の響きを帯びた男の言葉に、カシムはへらへらと笑った。


「へっへっへ、今更都合のいい事言うなよぉ。あんただって散々好き勝手して来たでしょうが」

「しかし……しかし、もう足は洗う。お前たちにも迷惑はかけない!」

「あのさあ、そう言って命乞いした相手を見逃してやった事あんの? 自分だけ特別って虫が良過ぎるんじゃない?」


 男は絶望的な表情を浮かべてカシムを見た。カシムは相変わらずへらへらしている。しかし目だけは笑っていない。ひどく冷たく、鋭い。


 駄目だよ、カシムさん!


 そう言おうと思った。しかし口は動くのに声にならない。駆け寄ろうと思っているのに足は動こうとしない。


「おっと、止めときな」


 男が小さく身じろぎした瞬間、カシムは指先から閃光を放った。男の足が貫かれ、悲痛な声が響く。


「ぐ、う……」

「あんたじゃオイラの相手にゃならないよ。さて、大人しく来てくれりゃオイラも殺しなんかしないで済むんだけどね」

「ふ……ッざけるな! 戻れば、ただでは済まない事くらいお前にも分かっているだろう!」


 カシムは肩をすくめる。


「あんたがどうなろうと知ったこっちゃないね。ああ、あと多分嫁さんと子供のとこにも誰か行ってるよ。あの連中が裏切り者を許す筈ないからね。それくらいあんたにも分かってるでしょ?」

「お前に……人の心はないのか……?」


 男が顔を絶望に染めて言った。カシムは大きく息をついて帽子をかぶり直した。


「……あると辛いんだよ。心って」


 カシムはそう言ってゆっくりと指先を男に向けた。


 駄目だよ!


 声は出なかった。閃光が走った。男の体が崩れ落ちた。泥水が跳ねた。


 叫びたかった。しかし喉ばかりがぎゅうと締まった。

 ぼろぼろと涙がこぼれた。がくんと突いた膝に、ぐしゃぐしゃした泥の感触がした。


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