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一四三.丘を駆け上がるようにして風が


 丘を駆け上がるようにして風が吹いて来た。緑色の褪せて来た野の草が銘々に揺れて擦れ、さらさらと音を立てる。風はそのまま少年の赤髪を撫でて通り過ぎた。


 少年は腰の剣に手をやった。本当に冒険者になるしかない、と決めてから必死に畑仕事をして金を溜め、行商人から手に入れた剣だ。

 安物だが、山に持って入る山刀と違って、きちんと武器として作られた代物だ。木の枝を切るのとはまた違う重みがある。相手を傷つけ、命を奪う為の道具としての重みだ。

 そのずしりとした重量を感じると、少年は高揚感と寂寥感を同時に覚えた。これで旅立てる、という思いと、旅立つことができてしまう、という思いがあった。もう自分に言い訳の仕様がない。都に出るしかなくなってしまった。


 丘から見える村では朝の煙が立ち上っていた。

 煙突から伸びる白い煙は、一定の高さから次第に薄れて散らばり、やがて空中に溶けて行ってしまう。昨日あった秋祭りの余韻がまだ残っているようにも思われた。


 長く暮らしたここから去る事に不安も寂しさもある。だが、それ以上に自分はこうしなくてはならない、という使命感にも似た情念が胸の内を焦がしていた。

 父親が死に、それから母親が死んで一人ぼっちになってから、少年は一人きりの家の中がひどく居心地悪く感じた。そこから逃げ出したいと思ったし、もしそうだとしたら、村を飛び出すだろうという妙な確信があった。どこか遠くの景色を見てみたいと思った。


 大きく息を吸い、吐き出す。

 秋の空は高く、村の周囲の山々は紅葉して赤や黄に染まっている。少年はここからの景色が好きだった。村とその周りがすべて見えた。産まれた時からずっと暮らして、見慣れた風景だ。その中で友達と駆け回って遊んだ思い出も鮮明に残っている。


 旅立つとなれば、そんな懐かしい風景の中にも易々とは戻っては来られないだろう。村を出るという少年に難色を示す大人も多く、それを押し切る形になるのは否めない。自分自身の意地もあって、せめて錦を飾る事ができるまでは帰らないと決めていた。

 それがいつになるかは想像もつかない。二度と帰って来られないかも知れない。それでも、今の自分にはこれしかない。少年は改めて腰の剣の位置を正し、もう一度深呼吸した。


 後ろから風が吹いて来た。

 背中を押されるようだ、と少年は小さく笑い、ゆっくりした足取りで丘を下って行った。隊商の馬たちのいななく声が聞こえて来た。



  ○



 双子はミトを挟んで眠っている。ハルがミトの頬に頭を押し付けて、マルの方はむにゃむにゃ言って両腕をミトの腹に、両足を足に巻き付けてもそもそ身じろぎする。ミトはくぐもった声を上げて寝返ろうとするけれど、両側から抱き付かれているから動けない。それで変な格好になったままわずかに体を動かすから、毛布がずり落ちる。

 もう夏だけれど、公国最北の地であるトルネラは、夜に何もかけずに眠れる程ではない。油断して風邪を引いてはいけないと、ベルグリフは毛布をかけ直してやった。


「……この時期は体を壊しやすいからな」


 日中暑いからと薄着で寝て、それで風邪を引く子供もいる。

 アンジェリンも小さい頃、眠ったまま無意識に毛布を蹴飛ばし、腹を出して、それで翌朝鼻水を垂らしていた事があった。それでも隙あらば養生せずに外で遊ぼうとするのだから、ベルグリフは寝床のアンジェリンに本を読み聞かせたり、冒険者時代の話をしてやったりした覚えがある。それで気を引いているうちに、いつの間にか小さな娘は寝息を立てていたものだ。


「ぐっすりだね」


 暖炉の火をいじっていたサティが言った。


「うん。昼間沢山遊んだからな」


 ベルグリフは暖炉の前に腰を下ろした。カシムが茶のポットに湯を足した。


「それで、シュバイツは旧神の力をかなり利用してるっぽい感じなわけ?」

「そうだね。尤も、情報をすべて共有していたわけではないから、わたしにも全貌は分からないのだけど……」


 サティは困ったように顔をしかめて大きく息をついた。


 長らく穏やかな日常に身を投じていたトルネラの面々であったが、サティの決意が固まったらしく、いよいよシュバイツ達の実験などに関する話し合いの場が持たれたのである。

 ベルグリフ、サティ、パーシヴァル、カシムの四人に加え、グラハムと、さらにかつてシュバイツに与していたビャクとシャルロッテも同席している。

 サティが目を細めながらお茶のカップを手に取った。


「ただ、敵対していた同士だった事もあって、ソロモンの魔法は旧神とは相性が悪いらしくてね。少なくとも、わたしの転移魔法と空間構築、それと疑似人格の魔法以外に有用なものはなかったと思う」

「転移魔法は……確かビャクも」


 ベルグリフが言うと、椅子に腰かけて腕組みしていたビャクが、考えるように視線を泳がした。


「……俺も旧神だのなんだのは初耳だ。だが、あの魔法はシュバイツからの借り物だったからな」

「魔法の貸し借りねえ……オイラもあんまり聞いた事ないやな」

「それに旧神の力なら、その意識の残滓が残った場所から離れると消えてしまうから……多分転移魔法はシュバイツ自身の力だったんだろうね」

「疑似人格ってのはどういう魔法なんだ? あんまり聞き覚えがねえが」


 パーシヴァルが言うと、サティは目を伏せた。


「名の通り、別の人格を作り出すんだ。記憶も性格も作りもので、元に戻るトリガーをセットしておく。そうなると、元々の人格の記憶は一切が失われたまま、別の人間になる事ができる」

「なーる。だから怪しまれないし、その人格はそれが元々だという風にプログラムされるから、不自然さもないってわけだ。便利な魔法もあったもんだね……悪さし放題ってわけだ」


 カシムがそう言って帽子を指先でくるくる回した。


「……しかし、あいつの拠点も帝国っつー後ろ盾もぶっ潰した筈だ。今更何か仕掛けて来るか? どちらにせよ時間がかかるんじゃねえのか?」


 パーシヴァルがそう言いながら、椅子の背にもたれて眉をひそめた。サティは深く息をついて目を伏せた。


「それは分からないよ。元々表立って何かをしようとする相手じゃないんだから」

「……彼奴等の当座の目的は魔王を人間にする事、でよいか?」


 グラハムが言うと、サティは少し考えて頷いた。


「ええ。色んな要素はありましたが、すべてそれが目的だったと思います。尤も、それをした上での目的、というものは分かりませんでしたが……」


 サティはそう言いながら、息が詰まったように肩を震わせた。ぎゅうと閉じられた目から涙が零れ落ちる。その肩にベルグリフがそっと手を回した。グラハムが申し訳なさそうに目を伏せた。


「すまぬ。辛い事を思い出させたな」

「いえ、いいんです……」


 サティは手の甲で涙を拭って、大きく息をついた。


「でも……正直、辛い部分は大きいです。今も鮮明に思い出す光景があるから」

「無理すんな。俺たちは実験の詳細を暴きたいわけじゃねえ。それがシュバイツの目的を推し量る材料になるなら、まあ話は別だが……それだって無理にとは言わん」


 パーシヴァルが言いづらそうに言った。サティは少しだけ微笑む。


「ふふ、パーシー君がそういう気遣いをしてくれるなんてなあ」

「うるせえ」


 パーシヴァルは口を尖らしてそっぽを向いた。少し雰囲気が和らいで、湯気立つお茶のお代わりがカップに注がれる。サティはそれを一口すすってから、口を開いた。


「いずれにせよ、シュバイツは魔王を完全な人間にしたがっていた……多分、アンジェがその成功作なのは間違いない。シュバイツがそれを知らない事が救いだけど……」


 アンジェリンがサティの娘だと判明したのは、帝都での戦いの後だ。それもベルグリフとサティしか分からない要素で判明したのだから、シュバイツの知る筈はない。


「……だが、アンジェは皆知っての通り良い子に育った。その時点であいつの計画は失敗してるだろう。それに後になって何かしようったってアンジェは強い。そうそう負けはしねえだろうよ」


 パーシヴァルの言葉に、一同は頷いた。

 しかしビャクだけが怪訝そうな表情を崩さずに口を開く。


「……そう楽観できるもんか? 俺の中の魔王(カイム)はあいつが同類だとずっと分かってた。シュバイツが自分でその結論に辿り着いてもおかしくねえと思うが」


 そういえば、ビャクはずっとその事を指摘し続けていた。あまりに荒唐無稽な話であったからあまり掘り下げてはいなかったが、今になってその信ぴょう性は増している。

 カシムが困ったように頭を掻いた。


「でもさ、お前だってそれ以上の事は分かんないんでしょ? あんまし魔王の意識に接続すると侵食されちゃうんだし」

「……確かに、あいつがどういう理屈で完全に人間になっているかは分からねえ。ただ、俺の中の魔王はあいつを羨ましがってる」

「ソロモンの魔王は……人間になりたがっている節がありそうなのか?」


 ベルグリフが言うと、ビャクは眉をひそめた。


「そこまでは分からねえよ。魔王の意識は完全に狂気に陥ってる。対話を試みても一方的に侵食して来て体を乗っ取ろうとする以外しねえ。ちっとも情報が得られねえんだ」


 グラハムやカシムの手助けがあっても、そこは改善されないらしい。英雄的な実力を持つ二人が協力しても、流石に大陸を支配した大魔導の生み出したものにおいそれと手を加える事はできないようだ。

 シャルロッテは両手をぎゅうと握りしめた。


「サミジナの指輪も……そうやってわたしを飲み込もうとしたわ」

「……結局、魔王ってのはソロモンへの思慕が行動原理になってる。大陸支配時の戦いの記憶が濃いから、敵を倒す事に対する執着がでかいんじゃねえかと思う」


 ビャクはそう言ってお茶をすすった。ベルグリフは顎鬚を捻じった。


「どう思う、グラハム?」

「……おそらくはそうだろう。私が幾度も戦ったあれらは、敵を倒す事が主への忠節と心得ていた節がある。ゆえに周囲の森を枯らしたり、魔獣を呼び寄せたりしていた。ソロモンの時代の事は私にも分からぬが……おそらくは反抗を一切許さぬ苛烈な支配を旨としていたのだろう」

「そうでしょうね。実験に使われる前の魔王は曖昧な影法師のような姿でしたが、そこからは強烈な殺意を感じました。でも悪意とは違っていて……それをする事が自分の役目だと思っているような」

「人間にする事で、それを抑え込もうってわけか?」

「多分、そういう意図もあったとは思うんだけど……」

「それをしてどうする、っていうのが分からねえわけか」


 パーシヴァルがそう言って腕を組み直した。この部分だけは、考えを凝らしてもちっとも分からない。

 ランプの灯がちりちりと音を立てた。サティはお茶を一口飲んで、ふうと息をついた。


「魔王、つまりソロモンのホムンクルスは色々に形を変える。皆もそれは知ってるよね?」

「ああ。俺も何回か形を変えた魔王に出会った事があるよ」


 ベルグリフが言った。パーシヴァルやグラハムも頷いている。サティは鼻先をこすって続けた。


「人や獣の形になる事が多いけど……例えばシャルが言ったように指輪の宝石の形にもなるし、液体状にもなる。帝都のあの兎耳の聖堂騎士の魔剣もそうだったろうし」

「その、形を変えた場合は魔王自体の意識はどうなる?」

「どうなんだろう。少なくとも、魔王たちは本能としてソロモンの元に帰りたがっているから……おそらく形を変えた場合も、眠ってはいるけれど深層意識としてそれは残っているんだと思う。人間にした場合の成功作は、その深層意識まで全部なくなった状態、って事になるのかな……だから魔王の気配が消えるんだと思う」

「それが、人間に産ませるって事になるのか」


 パーシヴァルが言うと、サティは頷いた。


「そうだろうね。人に孕ませる方法は……色々あったみたい。ただ、魔王は魔法生物だから、術式である程度の制御が効くの。つまり、被験者の体内に入った時、赤ん坊として腹に宿るよう術式を書き換えておけばいい。わたしは気付けなかった。液体化した魔王が、何か食べ物に混ぜられていたりしたのかな……」

「……すると、シュバイツ達はある程度魔王を制御する術を発見していた、という事か」

「だろうね。だから普段は宝石みたいな形にして眠らせた魔王をいくつも持ってた。多分、そういう風に魔王を利用しようとしている連中は他にもあったんだろうね。カシム君は別のそういう組織にいた事があるんだよね?」

「ああ、そうだね。でもやっぱりいつもシュバイツが一歩先に行ってた感じだよ」


 カシムがそう言った。ベルグリフは考えるように視線を泳がせながら、顎鬚を捻じった。


「それで……シュバイツ達は実際に成功したという事になるのかな」

「うん。だからアンジェは成功って事になるんだろうね。あの子からは魔王の気配は微塵も感じないもの」

「……君がエルフだからというのが、何か関係があるんだろうか?」

「どうなんだろう……でも、確かに成功と言えるのはアンジェだけだから……その可能性は十分にあると思う。人間とは違うエルフの魔力が何か関係していそうだけど……」


 サティはそう言ってグラハムの方をちらりと見た。グラハムは何か考えている様子だったが、やがて口を開いた。


「我らエルフの魔力は、人間のものとは少し質が違う。魔王の魔力との相性は悪い筈だが……」

「確かに、じいさんの聖剣は魔王やそれに類するものが嫌いなようだからな」


 パーシヴァルがそう言って、壁の方を見た。壁に立てかけられたグラハムの大剣は黙っている。あの剣にはエルフの清浄な魔力が溢れていると聞いた。それが魔王を嫌うのだから、確かにエルフと魔王は相性が悪いように思える。

 ベルグリフは眉をひそめて髭を捻じった。


「そのエルフの魔力が……逆に魔王の持つ悪い部分に何らかの作用を与えたって事になるのか?」

「推測に過ぎぬ。だが、エルフから産まれた子のみが人間になったのだとすれば、そこに何らか関連性を見出す事は出来るだろう」


 グラハムにも推測する以上の事は出来ないようだ。サティはふうと息をついて膝を抱いた。


「でも、もしエルフの持つ何らかの力が魔王の力を抑えられるのなら……きっと子供たちを守る事ができる。そうなったら……いいな」


 言いながら、サティは膝に顔をうずめて肩を震わせた。


「ひどい光景だった……皆やつれて、血を流して……ホムンクルスは普通の子供よりもお腹の中での成長が早いんだ。ひと月でみるみる大きくなって、体がそれに付いて行けなくて死んじゃった女の子もいた」


 すんすんと鼻をすする音がした。ベルグリフはそっとその肩を抱いて、優しくさすってやった。


「……わたしがもっと強かったらよかったのになあ。そうしたら……もっとたくさん助けられたのに」

「自分を責めちゃ駄目だよ。君は一人きりだったのに十分に頑張った」

「……ごめんね。気持ちに整理が付いたと思ったのに、思い出したら感情が溢れちゃう」


 カシムがぼりぼりと頭を掻いた。


「んー、でもなあ、なーんかガバガバなんだよなあ……もしそれで魔王を自由に動かそうって魂胆なら、サティを逃がす筈ないし、逃げられても本気で探すと思うんだけど……シュバイツってそういう事に手抜かりをしそうな感じしなくない?」

「俺も人となりはよく知らんが……まあ、歴史に名を遺す大魔導にしては、迂闊ではあるな」

「その程度の相手、って事なら楽なんだが」

「いや、一時とはいえローデシア帝国の中枢を乗っ取っていたくらいだから、油断できる相手ではないだろう」

「だからこそさ、一番力入れてる筈の魔王関連の研究がガバガバなのが気になるんだよね。かなり凄惨な事やってる癖に、妙な所で適当で、変だよなあ」

「そりゃそうだが……」


 どうにも思考が堂々巡りして埒が明かない。ビャクとシャルロッテも魔王の実験をしている以上の情報は持っていないようだし、サティも実験の内容は把握していても、その先の目的を共有していたわけではない。どれだけ話し合っても、結局想像の域を出ないから、何だか無駄な事をしているような気になって来た。

 ふと、カシムが思い出したように口を開いた。


「そういえばさ、サティはソロモンの鍵を破壊したって言ってたけど」

「ん、そうだね……カシム君もそれを探せって言われた時があったんだっけ」

「そだね。ま、やる気なかったからまともにやってないけどさ」


 カシム曰く、シュバイツとは別に魔王の事を研究しているグループとつるんでいた頃、彼らはソロモンの鍵という魔道具を探し続けていたらしい。しかし結局見つかってはいないようだ。

 パーシヴァルが眉をひそめて首を傾げた。


「どういう代物だ、それは」

「見た目は……林檎の枝。でも強力な魔力の塊でね、わたしも何重にも魔法と力を加えて、ようやく壊す事ができた」

「残骸はどうした」

「構築した空間に埋めたよ。尤も、その空間もわたしが帝都を離れたからもう崩壊しているだろうけどね」

「そっか。ならそれは心配ないな。今んとこ、シュバイツが何か仕掛けるとしたらそれだと思ったからさ」

「その可能性はあったね。まあ、鍵があればの話だけど」


 サティ曰く、ソロモンの鍵は魔王の研究をしている者ならば、誰しもが手に入れたがっている代物だったらしい。ソロモンはそれを使って魔王たちを統括していたと古い文献では伝えられているそうだ。

 シュバイツ達の動向にずっと張り付いていたサティは、彼らが鍵を手に入れようという直前に、決死の覚悟で割り込んで強奪したらしい。結果、鍵はシュバイツ達の手には渡らなかった。


 しかし、そう考えると、今現在シュバイツに打つ手はないように思われる。彼の目的が何だかは分からないが、ソロモンの鍵は重要なファクターであるようだ。それが失われ、帝都の拠点もなくなった今、大した動きはできそうもない。


 ぱちん、と音を立てて、くべたばかりの薪がはぜた。パーシヴァルが火掻き棒でそれを集めながら言った。


「つまり、現状では特に心配し過ぎる事はなさそう、ってわけか」

「……だが、あいつは得体が知れねえ。油断は禁物だ」


 ビャクが言うと、カシムが嘆息した。


「一番嫌な相手だなあ。あーあ、あの時少し無茶しても仕留めときゃよかった」

「……世界を手に入れたいわけではあるまい」


 グラハムが静かに言った。皆がそちらを見る。


「もしそうであれば、絶好の道具であるローデシア帝国を手放す筈がない。魔法使いゆえのけた外れの好奇心と探求心が行動原理だろうと私は思う。そういった相手は、単純な損得勘定で推し量る事はできぬ」

「……そんな事の為に、どれだけの人が……」


 サティは膝を抱えて顔をうずめた。肩が震えて、小さな嗚咽が聞こえた。いよいよ話すのが辛くなってきたような様子だ。話しているうちに、色々な事を思い出して来てしまったらしい。

 ベルグリフはそっとサティを抱き寄せた。サティにも問題を解決したいという気持ちはある。しかしシュバイツ達との戦いの日々と、それに付随する血みどろで凄惨な光景はトラウマになってしまって、面と向かい合う事ができないらしかった。


「……今日はこの辺でやめとくか。夜も更けて来た事だしな」


 パーシヴァルがそう言って薪を手に取った。


「そうだね。ま、焦らず行こうよ」


 とカシムが頭の後ろで手を組む。ベルグリフはサティの背中をさすった。


「サティ、少し散歩にでも行こうか。その方が気が紛れるだろう」

「……うん」


 二人は連れ立って家の外に出た。昼間の暑気が払われて、涼し気な空気が漂っていた。

 辺りの草の葉には夜露が降り始めていて、それが半月に照らされてきらきら光っている。月明かりだけで、ランプなしでも歩けるくらいに明るい。


 サティは深く息を吐きながら、月を見ていた。滑らかな銀髪が月明かりに光っていた。それをベルグリフが眺めていると、ふと目が合った。


「どうしたの?」

「ん、いや、アンジェの髪の質は君譲りだったんだなと思って」


 そう言うと、サティはふふっと笑った。


「そうかもね……色は違うけど、アンジェの髪も綺麗だものね」

「寝癖になっても、手櫛で梳けるくらいだからな」


 三つ編みにするようになって、少しは癖が付くようになるだろうかと思われた黒髪は、三つ編みをほどけば自然に真っ直ぐになるくらいに柔らかい。エルフの髪の毛と同じだ。


 村を出て、外の平原まで歩いて行った。

 白々した月明かりの下で、夏草がすっかり伸びている。微かに風が吹いているが、葉が音を立てて揺れるほどではない。千切れ雲がいくつもたなびいて、それが月に照らされて濃い陰影を作っている。


 清涼な空気を胸いっぱいに満たし、サティは落ち着いた様子だった。


「……ごめんねベル君。本当に……わたしがもっと強ければ」

「そんな事ないさ。君はやれる事を精一杯やっただけだ」

「……そう、なのかな」


 サティはそう言って遠くを見やった。


「今の時間は愛おしいよ、とっても。このままずっと続けばいいと思う。でも、それで目を背けていちゃ……きっと手痛いしっぺ返しが来る」

「……子供たちの事かな」

「うん。シュバイツの事は心配ではあるけど、それ以上に子供たちの事が心配。ハルとマルもそうだし、ビャッくんだってまだ魔王の意識とせめぎ合ってる。何か起こるんじゃないかって、それが気になっちゃうんだ」


 ミトはともかく、双子もビャクも実験で産まれた子供たちだ。彼らの誕生の秘密に向き合わねば、ミトが古森を呼び込んでしまったように、いずれ問題が起きる。ビャクの中にも魔王の意識は残っているし、ハルとマルもいつ安定が崩れるか分からないのだ。

 シュバイツが再び襲って来るのも脅威ではあるが、子供たちが自ら問題を起こして傷ついてしまう事の方が、ベルグリフとサティにとっては重大事に思えた。

 サティは両手を口の前に持って行ってふうと息を吹きかけた。


「……正直、辛いけどね。悲しみと苦しみの思い出ばっかり。でも、それに向き合わないと、子供たちの為にならない」

「多分、パーシーもカシムもそうなんだろうな……俺だけが安穏と暮らしていたみたいで、何だか悪い気がするよ」


 ベルグリフが言うと、サティはふふっと笑ってベルグリフの肩を叩いた。


「何言ってるの。そのおかげでアンジェがわたしを助けに来てくれたんだよ? ベル君がトルネラにいなかったら……きっと、こうやってまた会う事もなかったよ」

「うん……」


 ベルグリフは微笑んで、そっとサティの肩を抱いた。


「……ねえベル君。たとえどんな風にしてこの世に来たとしても、生まれて来る命そのものに罪はないと思うんだ。色んな実験や残酷な仕打ちの結果生まれて来たとしても……」

「そうだな。その通りだ」

「だからね、沢山の苦しみはあったけど、わたしはアンジェがこの世界に来てくれて良かったって思ってるんだ。そのおかげで、こうやってまた会えたんだし……わたしもあと少し頑張らないとなって」

「うん……」


 たとえサティがアンジェリンを孕んだ事が苦しみの一端であったとしても、そうして生まれて来たアンジェリンには何の罪もあるまい。まして、彼女の運んで来た数々の縁や運命を考えれば、祝福されて然るべきだろう。

 ベルグリフはぽんとサティの背中を叩いた。


「でも、無理しちゃ駄目だぞ? それで君が倒れちゃ元も子もないんだから」


 そう言うと、サティはぷふっと吹き出した。


「ふふっ、そうだね……もう、ベル君たら、昔パーシー君とかわたしに言ってたのと同じ!」

「え、そ、そう?」

「そうだよぉ、ふふ、もう、ベル君は本当に変わらないね、いい意味でさ」


 サティはくすくす笑いながら、ベルグリフの肩を叩いた。ベルグリフは困ったように頭を掻いた。


「参るなあ……」


 サティは笑みを浮かべたまま、うんと両手を上げて伸びをした。


「……よし、帰ろっか。もう二、三日の間にセレンちゃんが来るんでしょう?」

「ああ、今度は長い滞在になるらしいよ。屋敷も細かな部分以外できたようだし」

「そっちも忙しくなるね……頑張らないとねえ、ギルドマスターさん」


 サティはいたずら気にそう言って、ベルグリフの頬をつついた。ベルグリフは苦笑して、サティの頭をぽんぽんと撫でた。


「元気が出たならよかった」

「もう、アンジェにするような事しないでよう。わたしはあなたの妻だぞう」


 サティは頬を膨らました。その顔が可笑しくて、ベルグリフは思わず吹き出した。そうして二人して声をひそめて笑った。

 少し風が吹き始めた。葉のさらさらと擦れる音がする。



すみません、諸事情につき11月中は休載させてください。この後の話はあまり更新の間隔をあけたくないので、ちょっと書き溜めがしたいのもあるんですが、書籍の事やら、小説関係ないリアルの仕事やらが次から次へとやって来て、中々頭の中が整理されないという。おーのー。

この小説ばっかじゃなくて、他の小説も読むといいと思いますよ。多分そっちの方が面白いと思います。

12月頭くらいには再開したいと思っていますが、大丈夫かなあ……まあ、気長に待っていてください。

ではでは。

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