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一四一.トルネラに雨が降る事は少ない


 トルネラに雨が降る事は少ない。まったくないわけではないが、それでも珍しいと言える。冬の雪は珍しくも何ともないのだが、春や夏場に雨粒が落ちて来ると、外仕事の邪魔をされる大人たちはともかく、子供たちは嬉しくてはしゃぎ出す。


 その日は霧雨であった。雨粒、と言えるほど大きなものではないが、それでも外にいれば体は濡れ、軒先にいつの間にか溜まった水が滴となって垂れた。


「お水がふってくるね」

「へんだね。おもしろい」


 ハルとマルの双子が庭先で歩き回っている。黒い髪の毛がしっとり濡れて、前髪は額に張り付いている。双子はそれが面白いらしく、濡れた髪の毛を撫でたり、霧雨の降って来る空を見上げたりして、飽きる様子はなかった。

 軒先の椅子に腰を下ろして、ベルグリフはその様子を眺めていた。昔、アンジェリンもああやって雨の中を歩き回っていたっけなと思った。濡れる事をいとわないので、夏なのに暖炉の火を大きくした覚えがある。


 遠い景色は白くけぶって、微かなシルエットだけが見えていた。滴が地面や、出したままの木桶などを打つ音が歯切れよく耳に残る。それを切り裂くように、遠くから斧が木を叩く音が木霊のように響いて来た。


「ほら、あんまり濡れると風邪を引くよ」


 ベルグリフが呼びかけると、双子はくすくす笑い、却っていたずらげに雨の中を駆け回る。大人が困った顔をするのが楽しいというようだ。

 子供というのはそんな所がある。それが分かっているから、ベルグリフも苦笑いを浮かべながらもそのままにしておいた。春先の雨ならばともかく、今は夏場だ。後できちんと拭いて、体を温めてさえやれば大丈夫だろう。


 冬の貴婦人との邂逅から少し経った。あれからグラハムも交えて相談もしたけれど、敵の姿自体が明確でない為、早急に結論を出すのが憚られた。

 大いなる精霊の言う事だから出鱈目というわけでもないのだろうけれど、ああいった存在は時間の捉え方が人間とは違う。彼女の言う出来事が起こるのはすぐかも知れないし、或いは百年先という事も考えられた。


 いずれにしても、そういった不安にばかり拘泥しているわけにもいきかねる。判断の情報が少ないといったところで、トルネラでは情報を得る事すらできない。そうなると、無用の悩みを抱えているだけ無駄だ。

 もどかしさはあるが、結局のところ日々の仕事に邁進する他仕様がなかった。


 今日はベルグリフは留守番だ。しばらくは家でギルド関連の書類を読んだり、実際の運営の事を考えたりしていたけれど、今はこうして外で遊ぶ双子を見ている。

 グラハム、パーシヴァル、カシムの三人は、ダンジョンの場所の当たりを付ける、と装備を調えて出かけて行った。トルネラ周辺を探索するには豪華すぎる面子にベルグリフは思わず笑ってしまった。


 サティは先日区切りの付いた羊の毛刈りの後始末の手伝いの為に、ケリーの家に行っている。

 刈った羊毛は一度大鍋で煮て、何度も洗って綺麗にするのである。それをカーダーで梳いて、スピンドルで紡いで、羊毛糸を作る。その頃にはもう冬の気配がし始めるだろう。

 シャルロッテとミトもそれに付いて行った。

 ベルグリフは自分も行こうかと言ったが、シャルロッテに大丈夫だと言い張られて残った。少し前には何をするにもベルグリフを頼っていたのが、今は自分たちだけで何かできるのを見て欲しい、という風になって来たらしい。


 シャルロッテはすっかり羊の世話にはまり込み、いずれは自分の羊を飼うんだと張り切っている。元ルクレシアの枢機卿の娘が、北の辺境で羊飼いになるというのは何だか不思議だ。


「……皆、成長していくものだからな」


 呟いた。アンジェリンもそうだったし、今はシャルロッテもミトもそうだ。目の前で遊んでいる双子も、いずれは大きくなって自分の道を模索して行くのだろうか。


 濡れた地面を踏む音がして、ビャクが来るのが見えた。畑にいたらしく、フードを被って籠を持ち、服の裾に泥汚れが跳ねている。籠には間引き菜らしいのと小さな根菜、大粒の莢豆などが入っていた。


「なんだ、雨が止んでからでもよかったのに」

「俺の勝手だろ」


 ビャクは素っ気なく言って、軒先で服の水滴を払った。ベルグリフはくつくつと笑って立ち上がった。


「洗わなきゃな。桶に水汲んで来ようか」

「ん……」


 それで井戸の所に行って木桶に水を汲んでいると、泥水を跳ねさせながら双子が駆けて来た。


「おとーさん、何してるの?」

「お水のむの?」

「ああ、違うよ。これは野菜を洗うんだ。ハルとマルも手伝ってくれるか?」

「うん」

「やる」


 木桶に満たした水に野菜を沈めて、一つ一つ丁寧に洗う。泥汚れもそうだし、虫が付いている事もあるので、溜め水で洗う方が確実なのだ。

 ビャクと双子がそうしている間、ベルグリフは家の中からタオルを持って来て、双子の頭を拭いた。双子は野菜を洗いながら身をよじらせてきゃあきゃあ言った。


「やーん」

「じゃましないで、おとーさん」

「駄目だよ、風邪を引くから……ほら、暴れないの」

「やだー」

「ビャッくん、たすけてー」


 双子は木桶を乗り越えて、向かいにいたビャクにすがり付いた。


「おい馬鹿、濡れてんのに来るんじゃねえ。素直に言う事聞いとけ」


 どたどた暴れる双子に四苦八苦しながらも、ビャクは二人を両腕に抱えて抑え込んだ。その様子にベルグリフは笑みを漏らす。


「お兄ちゃんは大変だなあ」

「何言ってやがる、大体あんたが……だから暴れるな! もうお前ら家に入ってろ!」


 ビャクは双子を抱えたまま乱暴な足取りで家の中に入って行った。双子はそれで楽しくなったらしく、はしゃいだような声を上げた。すっかり馴染んだトルネラ暮らしで、ビャクも随分体力が付いて来たらしい。


 軒先からはまだ雨水がぼたぼた垂れて来る。

 霧雨だから風に乗って吹き込んで来て、軒の下なのに髪の毛や髭が湿るようだ。ベルグリフは手早く野菜を洗ってしまうと、籠に引き上げて抱え上げた。


 雨のせいか家の中は薄暗い。しかし明かりをつけるほどでもない。

 ビャクが暖炉に薪を足したらしく、熾だった筈の火が赤々と燃え上がっていた。その前で裸ん坊の双子が身を寄せ合って毛布にくるまっていた。濡れた服はきちんと暖炉の傍に干されている。

 ベルグリフはくつくつと笑いながら、籠を鍋の横に置いた。


「ほら、寒くなっただろう?」

「ちがうもん」

「ビャッくんがこうしろって」

「カゼなんかひかないもんねー」

「ねー」


 そう言いながらも暖炉の前で寄り添っているが、双子はあくまで意地を張り通す心づもりらしい。こういう小さな子供の可愛らしい反抗心は、思わず頬が緩んでしまう。

 それにしてもビャクがなあ、とベルグリフは顎鬚を撫でた。ぶっきらぼうで悪態ばかりついているけれど、ビャクは面倒見がいい。年頃の難しさはあっても、やはり彼も色々なものを見て、吸収して、成長しているのだろう。あるいは、そういった部分の方が彼の本質なのかも知れない。


 そのビャクは双子の着替えを探しているのか、上げ床の所でごそごそと衣装箱を漁っている。それをベルグリフが眺めていると、振り返ったビャクと目が合った。


「……なんだよ」

「いや、ありがたいなあと思って」

「チッ……」


 ビャクはそっぽを向き、着替えを双子に持って来た。


「おら、着とけ」

「おきがえ?」

「そしたらあそびに行っていい?」

「また濡れたら意味がねえだろう。大人しくしてろ」

「えー」

「じゃあ、きない」


 ハルとマルは口を尖らしてもそもそと身を寄せ合った。一度湧いた反抗心は中々収まらない。ビャクは不機嫌そうに眉をひそめてそれを見降ろす。


「じゃあ勝手にしろ……俺はもう知らん」


 それで服を持ったままくるりと背を向ける。すると双子はたちまち不安そうな顔になって、ビャクの背中とベルグリフとを交互に見た。反抗するものの、それで突っぱねられてはどうしていいか分からなくなるらしい。そういう事全部含めて、ベルグリフには微笑ましくて仕様がなかった。


「さ、お昼の支度をしようかね。二人とも、ちゃんと着替えなさい。そしたらビャク兄さんのお手伝いだよ」

「……うん」

「おてつだい」


 もじもじしていた双子は立ち上がった。ビャクは相変わらずの仏頂面だが、服を放って寄越す。ハルとマルは銘々にそれを着ると、ビャクの方に駆け寄った。


「ビャッくん」

「おてつだいするね」

「……ったく」


 ビャクは呆れたように嘆息したが、それでも籠の中から莢豆を出して、筋を取り始めた。双子もそれを真似して豆を手に取る。ビャクは手元を見せるようにして、わざとゆっくり手を動かしているように見えた。

 こういう光景を見ると、ベルグリフは何とも言えない幸福な気持ちになった。子供たちの成長というのは見ていて嬉しいものだ。アンジェリンの時に散々経験したのに、今もこうやって気分が高揚してしまう。

 思い起こすと、アンジェリンも意地っ張りで、出来ない事を出来ないと言わずに突っ走って失敗する事が何度かあった。そうして失敗を失敗と認めない事も多かった。

 鍋の煤を落とすのに顔まで真っ黒になってわざとやったのだと何食わぬ顔をしていた事もあるし、目に見えて失敗した料理を失敗していないと渋い顔をしながら食べていた事もあった。子供のああいう意地の張り方は可愛い。


 色々な出来事が起こる度に、つい昔の思い出がそれに重なって来る。自分が生きているのは今という時間なのだが、いつも思い出すのはアンジェリンの事ばかりだ。

 親馬鹿も極まれりだな、とベルグリフは頭を掻いた。


 豆を笊にあげたビャクが言った。


「おい親父、他の連中は昼飯は要らねえんだよな」

「あ、そうだな。今日は四人だけだ」


 グラハムたちは弁当を持って行ったし、サティたちはケリーの家だ。昼餉くらいは振る舞ってくれるだろう。そうなると、ベルグリフにビャク、それと双子の四人だけという事になる。何だか珍しい面子だなと思う。


 根菜と間引き菜を干し肉と脂で炒め、莢豆は茹でて塩と林檎酢をかけた。朝の残りの麦粥に刻んだ菜っ葉を入れて温めれば、昼食の完成である。

 夏野菜が本格的になるのは少し先だが、もう花が付き、早いものは親指くらいの実が付いているものもある。今はまだ彩りに乏しい食卓も、じきに華やかになるだろう。


 いつも話の火付け役になるパーシヴァルやカシム、シャルロッテがいないのもあって、四人は口数少なく昼餉を終えた。食器を片付ける頃には、腹の出来た双子はとろんと瞼を重くさせて、上げ床のクッションに頭を乗せてまどろんでいた。


 雨は止んだらしく、ずっと聞こえていた雨音がなくなり、窓の向こうには陽も出始めたようだ。

 濡れた木々や草が太陽の光できらめいて、湯気もうっすらと揺れている。少し蒸すかも知れないな、と思いながら、ベルグリフは双子に薄手の毛布を掛けてやり、それからレントのお茶を淹れた。


 ビャクが向かいの椅子に腰かけ、背もたれに体を預けて大きく息をついた。


「くたびれたか?」


 ベルグリフはそう言ってお茶のカップを押しやった。 ビャクは欠伸をして、目元の涙を指先で拭った。


「……腹がいっぱいなだけだ」

「ああ、そうか」


 双子はすうすうと寝息を立てている。暖炉で薪がぱちんと音を立ててはぜた。

 ビャクはカップを持ったまま何となくぼんやりしている。そういえばビャクとこうやって二人きりで差し向いになるのは久しぶりだ。大勢で賑やかな時は、ビャクはいつも一歩引いて黙っている。子供たちの相手をしていると、ゆっくり話をする機会も中々ない。


「ビャク、トルネラの暮らしはどうだい」

「どうもこうもねえだろ……否応なしだ」


 相変わらずつっけんどんである。ベルグリフは苦笑してお茶のカップに口を付けた。


「毎日忙しいからな……楽しくはない、かな?」

「んな事は言ってねえ。まあ……飯はうまい」


 ビャクは少し遠い目をした。そうしてうんざりしたように小さく頭を振る。思い出した事を忘れようとしているかのようだ。


「どうした」

「……何でもねえ」

「……無理に聞き出そうとは思わないが、あんまり一人で抱え込むなよ?」


 ビャクは眉をひそめていたが、やがて嘆息した。


「昔は……食いモンの味なんかしなかった。何食っても苦かったし、まずかった。何で生きてんのかも分かんなかったけど……今はそうでもねえ」

「そうか……うん、そうか」


 ベルグリフは手を伸ばしてビャクの頭をぽんぽんと優しく叩いた。ビャクは顔をしかめてその手を払った。


「やめろ馬鹿」

「ああ、すまん……」


 ベルグリフはハッとして手を引っ込めた。つい子供にするようにしてしまう。

 小さな子たちは撫でられるのが好きだが、ビャクは露骨に嫌がる。性格もあるだろうし、年のせいもあるだろう。

 こういう所が自分は無神経でいかん、とベルグリフは頭を掻いた。


 少し互いに黙って、静かになった。双子の寝息と、まだわずかに軒から垂れるらしい水音がする。その向こうで斧が木を叩く音が木霊して来る。

 ビャクが窓の向こうを見ながら口を開いた。


「シュバイツは碌な奴じゃねえ。実際に会う事は少なかったが……サティも大変だったんだろ」


 ベルグリフはおやと思った。何となく避けているような節があったが、ビャクはビャクなりにサティの事を気遣っているのかも知れない。


「多分な。俺もあまり詳しい事は聞いてないんだ。古傷をえぐるような気がしちゃってね」

「……もしかしたら、俺とサティは会ってたのかも知れねえ。あいつはシュバイツとずっと戦ってたんだろ?」

「ああ……そうか。シュバイツの元にいたんだものな」


 ビャクは頬杖をついて目を閉じた。


「敵対する連中と何度も戦った。ソロモンを研究する別の組織の奴らもいたし、ルクレシアの浄罪機関もいた。随分殺したもんだ。色んな事を諦めて、口の中はいつも苦くて、飯の味なんかした事がなかったな……」

「……辛かったな」

「今思えばな。その当時はそんなもんだと諦めてた。今の暮らしは……悪くねえ。そういう点じゃ……馬鹿アンジェにも感謝はしてる」


 ベルグリフは笑みを浮かべた。


「それはアンジェに直接言ってあげると喜ぶと思うけどな」

「冗談じゃねえ」


 ビャクは言った事を後悔したように、頭を乱暴に掻いた。ベルグリフは笑って、空になったカップにお茶を継ぎ足した。

 双子がもそもそと寝返りを打つ音が聞こえた。午後は畑に出なくてはなるまい。



  ○



 快晴だ。燦々と陽光が降り注ぎ、道からは土埃が舞っている。背の高い建物のレンガや白亜の壁が初夏の陽に照らされて光っている。その中を荷車に乗っかって、アンジェリンたちはギルドの建物に向かっていた。

 マルグリットが埃を払うように顔の前でぱたぱたと手を振った。


「うー、埃っぽいなあ。暑いし」

「今日は乾燥気味だからな。でもイスタフとかよりマシじゃないか?」


 手綱を握るアネッサが前を向いたままそう言った。確かに、南部のイスタフの乾燥具合と来たら肌を撫でると土埃が目に見えて付くくらいで、オルフェンの比ではなかった。そう考えればまだマシと言えなくもないが、マルグリットは顔をしかめたままだ。


「わたしは慣れてるけど……マリーはまだ慣れない?」


 アンジェリンが言うと、マルグリットは頷いた。


「だって森は埃とか舞わないし、トルネラだって草の所の方が多いし、こういうのはなあ。冬の間は雪とかあるからまだいいけどさ」

「この辺は舗装されてないから……」

「でもぱさぱさするよね。汗もいっぱいかいたし、早く納品を済ましてお風呂にでも行きたいですにゃー」


 ミリアムがそう言って伸びをした。


 一昨日から近場のダンジョンまで出かけていて、依頼された素材を集めていた。高位ランクのダンジョンだったが、マルグリットという前衛が加わったアンジェリンのパーティは前にも増して強く、何の問題もなく素材は集まって、朝から荷馬車を駆ってオルフェンに帰って来たところである。


 もう夏が来た。しばらくは暑い日と涼しい日が交互に来ていたが、次第に暑い日が増え、気が付くと毎日暑かった。

 ソロモンの事に関しては、何か取っ掛かりが掴めたらしいマリアにひとまずは任せ、アンジェリンたちは再び日々の仕事に邁進している。


 秋の帰郷が近づくにつれてアンジェリンはそわそわしていたが、仕事はさらに勢いを増してこなしていた。自分たちが不在の間の前借をしておく、という具合だが、忙しさにやや辟易してもいた。

 一応トルネラの秋祭りに帰って、それから東に旅に出ようという予定だが、何だかまただらだらと実家で冬越えをしてしまいそうな感じがするくらいだ。お父さんに呆れられるかなあ、とアンジェリンは思う。


 ともかくそれでギルドの裏手まで行った。素材を渡し、確認書類を貰って受付に回る。いつもと同じだ。しかし、受付の前が珍しく混んでいる。どうやら合同の護衛依頼に行っていた幾つかのパーティの間で、契約の時点での齟齬があったらしく揉めているようなのである。

 ユーリが困ったような、それでも笑顔で応対しつつ、その後ろではギルメーニャが行ったり来たりしてあれこれと書類をカウンターに並べていた。


「……時間かかりそうだね」

「だな。急ぎじゃないし、後回しにするか」

「そんなら風呂行こうぜ、風呂ー」

「お腹も空いたしね。お風呂行って、いつもの酒場行こっかー」


 そういうわけで依頼完遂の手続きは後回しにして、アンジェリンは一度三人と分かれて家に戻り、着替えなどを持って風呂屋に出かけた。


 アンジェリンが行った時にはまだ他の三人は来ていなかった。

 高い位置の窓から昼間の陽光が湯気で棒のようになって差し込み、大きな焔石に注がれる水音がしている。客は多くはあったが、暑い季節になったせいか、湯船に浸かっている者は少なかった。


 アンジェリンは髪の毛をまとめ上げ、かけ湯をしてから湯船に浸かってふうと息をついた。二日ばかりのダンジョンでの戦いでかいた汗と、帰って来た時のオルフェンの土埃が全部洗われるようだった。


「ふぁ……はー……トルネラにもこういうお風呂、欲しい」


 両手足をお湯の中で伸ばしながらアンジェリンは独り言ちた。アンジェリンにとってオルフェンはほぼすべての点でトルネラに劣っているが、入浴という一点に関してはオルフェンに軍配が上がるようである。

 こっそりと胸周りのマッサージなどをしていると、アネッサたち三人がやって来た。


「割と空いてるな」

「ゆっくりできそうですにゃー」


 アンジェリンの横に腰を下ろしたマルグリットが「ぬあー」と声を上げた。


「あー、疲れが取れる……」

「……マリー、おじさん臭い」

「なんだとう」


 マルグリットは口を尖らしてアンジェリンの肩を小突いた。アネッサとミリアムもくすくす笑いながら湯に浸かり、思う存分に体を緩ましている。

 それで温まって、汚れを落として、さっぱりした気分で風呂屋を出た。出るとまた埃っぽい空気が四人を取り巻いたが、風呂に入る前程気にならない。ダンジョンでの汚れのせいもあったのだろう。

 雑踏に紛れて、その足でいつもの酒場に向かった。酒場に近づくにつれて妙に騒がしい歌声が聞こえて来る。


「えびばではばぐったい」

「この声……」

「ああ」


 予想しながら酒場に入ると、思った通りルシールがいて、テーブルの上に立って六弦をかき鳴らしながらわんわん歌っていた。

 昼間から飲んでいる酔漢たちは南部の陽気な音楽に当てられて、銘々に調子っ外れな歌をがなり立てている。熱気が籠って、汗をかくようで、この酒場にしては珍しい雰囲気である。


 隅の方の席で呆れた顔をして座っているヤクモを見つけて、そこまで行くと、ヤクモはおやという顔をした。少しホッとしたように見えた。


「おう、久しいの」

「だね。ヤクモさん、元気……?」

「見ての通りじゃ。犬っころはあの調子じゃし、参るわい。儂は静かに飲むのが好きなんじゃが……ま、久々に一献行こうではないか」


 ヤクモはそう言って杯を掲げた。

 ヤクモとルシールの二人はしばらくオルフェンで日銭を稼ぐという方針であり、つまりオルフェンに滞在していたのだが、同じパーティでもないし、活動場所が被らない事もあって、ここひと月以上は顔を合わせていなかった。長い無沙汰、というほどでもないけれど、久しぶりに会うともちろん嬉しい。


 アンジェリンたちもワインと料理を注文して、乾杯した。一杯目を瞬く間に飲み干したマルグリットが唇を舐めながら言った。


「はー、一仕事終えた後の一杯は格別だぜ……けど、完遂手続きどうすんだ?」

「わたしが後で行って来る……書類渡して終わりだし」

「まあ、みんなで行く必要もないしな。任せちゃっていいのか?」


 アネッサが取り分けた煮込みの小皿を差し出しながら言った。アンジェリンは頷く。


「うん。ちょっと飲んだ後の散歩に丁度いいし」

「じゃあ飲み過ぎる前に行かないとねー」


 ミリアムがけらけら笑った。


「なんじゃ、まだ仕事中だったんか」

「受付が混んでて、依頼完遂の書類、出せてないの」

「ああ、そういう事か……ま、仕事自体が済んでおるなら焦る事もなかろうて」

「お前らは金は溜まったのか?」


 マルグリットが言うと、ヤクモは考えるように宙を見た。


「まあ、元々困ってはおらんかったがの……旅に出るタイミングを逃したという感じじゃわい」

「二人もまた旅に出る予定なんですか?」

「まあの。元々どっちも一か所にとどまり続けるのが得意ではないんじゃ」


 追加の酒瓶が運ばれて来た。ルシールは酔漢たちを巻き込んでずっと歌っている。アンジェリンはワインのおかわりを注ぎながら口を開いた。


「ヤクモさんはブリョウの出身だよね……?」

「そうじゃが。それがどうかしたか?」

「わたしたちね、秋に一度トルネラに戻って、それから東に行こうと思ってるの。一緒に行かない? 道案内とかしてくれると嬉しい……」

「ほー、そりゃ面白い。おんしらといると退屈せんしの。まあ、考えておくわい」


 ヤクモはからから笑って杯を干した。

 しばらく酒宴を続けていたが、窓から射し込む陽が朱色を増したのに気付いて、アンジェリンは立ち上がった。


「ちょっとギルドに行ってくるね……」

「あ、そっか。すっかり忘れてた」

「ごめんねアンジェー。よろしくー」


 少しふにゃふにゃになっているミリアムがそう言って杯を掲げた。


 アンジェリンは酒場を出た。西日があちこちを照らして、街並みはまた違った雰囲気に包まれていた。相変わらず人は多く埃っぽいが、酒が入っているのもあって不快な感じはしない。人生の四分の一を過ごしたいつもの都だ。


 人ごみを抜けてギルドの建物に入る。もうこの時間になると人の数は減っているが、それでも好景気ゆえか静けさとは無縁である。

 高位ランク専用の受付に行くと、もう揉め事は解決したらしく、ユーリがカウンターの向こうで書類に何か書いていた。アンジェリンが行くと、ユーリは手を止めてにっこりと笑った。


「アンジェちゃん、お帰りなさい」

「ただいま、ユーリさん。昼間一度来たんだけど……」

「ええ、わたしもちらと姿が見えたから……ごめんなさいね、バタバタしてて」

「ううん、いいよ。別に急いでなかったし……はい」


 アンジェリンは懐から四つ折りにした書類を出してユーリに手渡した。ユーリはそれに目を通し頷いた。


「うん、大丈夫。じゃあここに署名をよろしくね」


 アンジェリンは一番下にサインをした。


「暑くなって来たよね……」

「そうねえ、もうすっかり夏になるわね……あ、そういえば広場近くのお菓子屋さんに冷たいお菓子があるらしいの。今度食べに行ってみない?」

「わ、いいね。行こう行こう」


 そんな事で盛り上がっていると、カウンターの向こうからギルメーニャが現れた。


「やあ、賑やかだね」

「あ、ギルさん。昼間、大変だったね」

「なに、あんなのは問題のうちに入らないよ。ビスケットの最後の一つをどっちが食べるかで揉めてただけだからね」

「え?」

「嘘。ま、金の取り分の話だね、ふふふ」


 ギルメーニャはそう言って笑うと、アンジェリンの肩を指でつついた。


「そうそう、アンジェにお客さんが来てたよ。ロビーにいると思うけどね」

「え、そうなの? ありがと」


 アンジェリンは踵を返してロビーに行ってみた。人が沢山いて、誰がどうだか分からない。

 はてと思って視線を巡らしていると、ふと見た事のある男が立ち上がって手を上げた。向こうもこちらに気付いたらしい。もじゃもじゃしたまき毛の茶髪に、瓶底眼鏡をかけている。

 アンジェリンはパッと顔を輝かせた。


「わ、イシュメールさん!」




更新が遅くてすみません。

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