一四〇.エルマー図書館はオルフェンの都から少し
エルマー図書館はオルフェンの都から少し離れた所にある大きな建物だ。
大魔導エルマーが建造した由緒ある館で、古今東西の様々な書物が集められており、一般的な物語や詩などもあるが、大魔導の図書館というだけあって、魔導書などもかなりの種類がある。
多くの書物は一般にも公開されているが、希少であったり、本そのものに強い力があるようなもの、或いは禁書扱いになっていて、公には存在できなかったりするようなものは、特別に許可を得た人間でなければ閲覧する事は出来ず、その許可を得るのも非常に難しい。
大魔導エルマーは、自ら集めたそれらの本を管理する為の特別な術式を建物に施していて、本泥棒などもこの図書館には歯が立たなかった。
その性質から、マリアの庵の周辺と同じく魔法使いたちの集う場所にもなっており、図書館付近には魔法使いの庵や研究所、実験室などがいくつも建ち並んでいた。
そんな図書館にアンジェリンたちは来ていた。
大きな建物で人もたくさんいるのに、皆真面目な顔をして本を読んだり、書きものをしたりしていて、お喋りに興じているようなのは誰もない。
だから緊張感のある静寂が満ちていて、何となく落ち着かない。しかも一般閲覧室はホールのように天井が高く、音がよく響く。咳払いすら耳障りな気がする。
それでも、読書は好きなアンジェリンは書架から適当な本を取り出してぱらぱらとめくっていた。オルフェン近郊にある昔話を集めた本だった。まだ小さかった時、寝しなにベルグリフに聞かせてもらった話もある。
アネッサとミリアムも銘々に本を手に取って読んでいた。
しかしこういう場所に馴染みのないマルグリットなどは本を読もうにも落ち着かないようで、椅子に座ったまま手を揉み合わせたり膝を手のひらでさすったりして、ひっきりなしにもじもじしていた。
「……落ち着かねえ。なんだここ」
マルグリットがアンジェリンにそっと耳打ちした。アンジェリンは肩をすくめた。
「調べものがあるんだから、仕方がない……」
「でもよー……ちぇ、こんなんだったら待ってりゃよかった」
「じゃあ先戻ってるか? 鍵渡そうか?」
アネッサがそう言ってポケットに手を突っ込むと、マルグリットは頬を膨らました。
「おれだけ仲間外れはやめろ!」
少し声が大きかったらしい、周りの人たちの視線が一斉に集まったので、マルグリットは口を真一文字に結んで、膝の上でぎゅうと手を握った。
「うー、居心地悪りぃ……マリアばーさんまだかよー」
「いいから深呼吸……マリーは落ち着きがないから駄目……」
アンジェリンはそう言って欠伸をし、また本に目を落とした。ベルグリフが絡まない事に関しては、彼女は基本的に静かなのである。
そんな風にしばらく四人で座っていると、静寂をぶち破るような盛大な咳が聞こえて、高い天井にこだました。本を読んでいた人たちが何事だというように顔を上げて辺りを見回す。
足音が鳴り響くのに構う様子もなく、マリアが乱暴な足取りでやって来た。
「げほっ、げほっ……くそ、相変わらず埃っぽい所だ、胸糞悪りぃ。おい小娘ども、何をぼーっとしてやがる。さっさと行くぞ」
「そっちが遅れて来たんじゃん、馬鹿オババ」
「黙れクソ猫。口よりも足を動かせ。チッ、本当はここに来るのは嫌だったんだが……」
周囲の人々の非難めいた視線を全く意に介さず、マリアは図書館の奥へずんずんと歩いて行く。アンジェリンたちは笑いを堪えながら本を書架にしまい、それからすぐにマリアの後を追った。
一般閲覧室を通り抜け、さらに奥まった所に事務室のような所があった。魔法使いらしい出で立ちの職員たちが、これまた静かに机に向かって目録などを整理しているらしかった。
そこにマリアがずかずかと入って行くと、職員たちは目を丸くした。
「は、“灰色”のマリア殿……?」
「禁書室に用事がある。入室許可の手続きをしろ。ごほっ……」
職員たちは目を白黒させて、マリアと、その後ろのアンジェリンたちを交互に見やった。
「ええと……」
「五人だ。こいつらはあたしの連れだ」
「え、でもしかし……」
「ああん? あたしの言う事が聞けねえってのか?」
そのネームバリューの上、目つきは悪く、背も高いマリアに睨まれて、職員は縮み上がった。
「そ、そういうわけでは」
「はい、これ」
アンジェリンが歩み出て、Sランク冒険者のプレートを見せた。
「え、あ……もしかして“黒髪の戦乙女”のアンジェリン殿?」
「うん……身元ははっきりしてるよ。こっちの三人はパーティメンバーなの」
「こ、これは失礼しました。マリア殿も含めてすぐ手続きいたします」
「禁書室に来客は久しぶりですね」
「誰かロックしてた術式、解除して来て」
「じゃあちょっと行って来ます」
「えっと、こちらにサインを……ひゃああ、エルフさんだ……初めて見た」
職員たちが銘々にあっちに行ったりこっちに行ったり、静かだった事務室がにわかに騒がしくなり、アンジェリンたちは五、六枚の用紙にサインした。
動き回る職員たちを見ながら、マルグリットが感心したように言った。
「すげえな。見た目なよなよだったけど、あいつら皆強いじゃん」
「ふん、気づいたか。ここはエルマーの組んだ複雑な術式が理解できねえといけねえからな。それに希少な魔導書は狙う奴も多い。ごほっ、ごほっ……そんなのを撃退する為にも、生半可な実力じゃここの職員は務まらねえんだよ」
この図書館に集まる本は資料としても貴重なものが多く、エルマー亡き後は周囲に集う魔法使いたちが共同出資して管理しているらしい。実際、優秀な魔法使いの就職先としても、高い倍率を誇っているようだ。
「ミリィはここで働かないの……?」
アンジェリンが言うと、ミリアムは首を横に振った。
「わたしはこういうのは性に合わないんだよねー」
「魔法使いとしてそれでいいのか、お前は……」
アネッサが呆れたように言った。
諸々の手続きが終わり、アンジェリンたちは事務室の奥の部屋に通された。何の変哲もない小部屋だったが、職員が幾つもの術式紋を壁に手早く描き詠唱を始めると、壁が震え出して下りの階段が現れた。
「どうぞ、こちらへ」
それで職員の女の子に案内されて階段を降りる。
降りながら、アンジェリンは奇妙な違和感を覚えて、それとなく周囲に目をやった。何の変哲もない石の壁に、黄輝石の照明が等間隔に並んでいる。それでも、誰かに見られているような感覚があった。
「……ばーちゃん、ここも何か魔法があるの?」
「げほっ……当たり前だろ。いざ職員どもを突破できても、エルマーの施した泥棒避けの術式が何重にも仕掛けられてるんだよ。あたしでも完璧に対策するのは難しいような奴がな」
「ふぅん……」
しかし別に泥棒に来たわけではない。アンジェリンはふうと息をついて、また前を見た。
しばらく下って行くと、木でできた扉があった。先導していた職員が、さっきアンジェリンたちがサインした書類を扉に押し当てる。すると扉がぎいぎいと音を立てて軋み、不意に幼い子供のような声が聞こえて来た。
『ふぅん、マリアか。久しぶりじゃあないか』
マリアはしかめっ面のままふんと鼻を鳴らした。
「あたしに面倒な手続きを踏ませんじゃねえよ、エルマー」
『悪いね。ま、何事にも手続きってのは必要なものだよ。さあ、どうぞ』
扉はひとりでに開いた。職員が脇にどいて、どうぞと促す。
「お帰りの際はここに戻って来ていただければ大丈夫ですので」
アンジェリンは首を傾げた。
「あなたは入らないの?」
「ええ、あの……ちょっと苦手で」
職員の女の子は苦笑いを浮かべた。マリアだけは理解している様子で、やれやれと首を振っている。
嫌な予感がしつつも、アンジェリンたちは連れ立って中に入った。そうして一歩入って面食らった。
まず整然と並んだ本棚が目につく。それらは木のように背が高く、どの本棚も分厚い本がぎっしり詰まっていた。
さらに本棚の間を縫うようにして、沢山の立体魔法陣がふわふわと飛び回っており、それらは消えたり、突然現れたりした。
部屋の中は本を読むのに何の支障もないくらいに明るかったが、何処にも光源はなかった。ただ明るいという状態が保たれている、という具合である。
おかしいなと思いながら上を見ると、天井はなく、壁はある部分から霞に入ったようにぼやけて消え、その上にはきらめく星空があった。近い所には、模型のような小さな天体が銀河を作るように寄り集まって浮いており、それらは規則正しい速度を保ちながら緩やかに公転していた。
「うわー、うわー、すげえ! 何だここ!」
マルグリットが興奮したように足踏みした。
「ごほっ、ごほっ……半分魔力で形作られてんだよ。ま、人造のダンジョンみたいなもんだ。規模はかなり小さいがな」
『人間の魔力じゃこれくらいが限界だね』
先ほどの声が聞こえたと思ったら、本棚の陰から十歳くらいの少年がひょっこりと現れた。薄茶色の髪の毛を後ろで束ね、分厚い眼鏡をかけている。丈の長いローブは裾を引きずっていた。
少年はアンジェリンたちを見てふむふむと頷いた。
『今回のお客さんは随分華やかだな。嬉しいね』
「……誰、あなた?」
アンジェリンが言うと、少年はくすりと笑ったと思うと、次の瞬間にはアンジェリンのすぐ前に立っていた。そうしてアンジェリンの腰をついと指先で撫でた。アンジェリンは面食らって一歩下がった。
「んにゃ……」
『私はこの図書館の主さ。エルマーっていうんだ。よろしく、お嬢さんたち』
「え? エルマーって……」
ここの図書館の主はとうに死んだと聞いている。アンジェリンたちが首を傾げると、マリアが口を開いた。
「正確にはエルマーの残留思念だ。本体はとっくにくたばってる。ごっほ、ごほっ……尤も、魔法で本物と同じ人格を与えられているから、まあ、エルマー本人と言っても間違いじゃねえが……」
「マリアばあちゃん、エルマーさんと知り合いなの……?」
「年齢詐称疑惑が浮上して来たぞー」
「黙れ馬鹿弟子、あたしはピチピチの七十歳だ。コイツの事は思念体でしか知らん」
「エルマーさんはおいくつなんですか?」アネッサが言った。
『百五十歳くらいにはなったかなあ。もう数えるの面倒だし、私はここから出られないから、時間の流れに鈍感になっちゃってね』
「ともかく中身はジジイなんだよ。それなのに何を好きこのんでそんなガキの姿にしたんだか……」
『君こそいい歳こいてそんな若い体を維持してるじゃないか。脱いだら意外に良いこの体で、どれだけ若い男をたぶらかしたんだい? 七十にもなって、まったく破廉恥なババアだね』
そう言う間に、エルマーは瞬間移動してマリアの尻をぺしっと叩いた。マリアは「ぐ」と言ってローブの裾を振ったが、それに叩かれる前に、もうエルマーは元の位置に移動していた。マリアはエルマーを睨み付けた。
「このスケベジジイが、病人には優しくしやがれ……おい、小娘ども、コイツの見た目に騙されるんじゃねえぞ。生前から無類の女好きで通ってるんだからな。げほっ、げほっ!」
『人聞きが悪いな。甲斐性のある紳士と言って欲しいのだけどね』
マルグリットが朱に染まった頬に両手を当てた。
「お前ら……互いの体つき知ってる仲なの?」
「何を邪推してやがる、抜け作。さっきみたいに触られただけだ」
『まあ、マリアは昔からここにはよく来てくれてるからねえ。何度も触らせてもらってるよ。おかげで胸の大きさも腰の具合も私はよく知ってる』
エルマーは涼し気な笑みを浮かべている。マリアは諦めたように額に手をやって嘆息している。もう抵抗するのも面倒という様子である。
アンジェリンは口を尖らして、さっき撫でられた辺りに手をやった。
職員の女の子が部屋に入りたがらなかったのはこのせいだなと思う。子供の姿をしているのは、女の人にいたずらがしやすいからじゃないかしら、と思ったが口には出さなかった。
ミリアムとアネッサがおどおどしながら身を寄せ合っている。マルグリットがそっとアンジェリンに耳打ちした。
「やっぱ大魔導って碌なのがいねえな」
「そだね……」
そんなに多くはないが、今までに会った大魔導たちの顔を思い浮かべてみると、成る程確かに碌なのがいないような気がする。大魔導とは変人の集団なのだろうか、とアンジェリンは思った。
マリアが目を細めてアンジェリンを見た。
「アンジェ……お前何か失礼な事考えてねえか?」
「……ううん、別に」
『さあさあ、お嬢さんたち、こっちにどうぞ。好きなお茶の種類とかあるかい?』
エルマーはあくまでにこやかに来客をテーブルに促した。少女たちはやや警戒しながらもテーブルに着く。立体魔法陣がふわりとテーブルに降りて来たと思ったら、ちかちかと光って、次の瞬間にはお茶のセットが置かれていた。
『ささ、どうぞ。何、心配要らない。事務室から転送して来たから、茶葉が古いとか変なものが入っているとかそんな事はないよ』
「……いただきます」
アンジェリンは湯気の立つお茶に口を付けた。香草茶だ。甘く爽やかな香りがして、何となく落ち着く。アネッサとミリアムもホッとした表情をしている。一般閲覧室と違って、静寂に気を遣う必要もない。マルグリットなどは嬉しそうである。
『それで』エルマーが言った。『今日の用件は何かな? ここの本は私のコレクションの中でも指折りのものばかりだ。何なりと相談に乗るよ。私は女の子には優しいんだ』
しかしエルマーのペースに飲まれて、アンジェリン始め女の子たちは何と切り出していいか分からない。互いに顔を見合わせて、何から話そうかともじもじしている。
椅子の上で背中を丸めていたマリアが、大きく息をついてテーブルに肘を突いた。
「ソロモンの事だ。特に魔王関連の事が知りたい」
それを聞くと、軽薄だったエルマーの表情が一気に真面目になった。
『おいおいマリア、そっちに行くのかい? 私はソロモンに深入りして破滅した魔法使いを何人も知っているよ。あまりお勧めしないな』
「今更お前に言われるまでもねえよ。あたしだって意図的にソロモンの事は避けて来た。だがシュバイツが絡んでんだ。あたしが見て見ぬふりするわけにいかねえだろ」
『ほほう、あいつは碌な事をしないね……で、何が知りたいの?』
ミリアムが不思議そうな顔をした。
「エルマーさんはソロモンに詳しいんですか?」
『私が詳しいわけではないよ。しかしこの部屋には魔導書だけではなく、ヴィエナ教によって禁じられた本もある。つまり彼らにとって都合の悪い事が書かれているものがね』
エルマー曰く、ヴィエナ教にとってソロモンは悪である。彼の生み出した魔王を、主神ヴィエナの加護を受けた勇者が討伐した事がヴィエナ教の起こりとなった。
それ故に、ソロモンが自ら滅ぼしたとはいえ、彼の恐らくは多大であった魔法の功績などを書かれ、再評価されるような事があっては、彼らの信仰の土台が緩んでしまうという。悪人はどこまでも悪人で、否定される存在でなければ都合が悪いという事だ。
それを聞いて、アンジェリンは帝都で偽皇太子から聞かされた話を思い出した。ソロモン以前に大陸を支配していた旧神たちを、ソロモンと女神ヴィエナが協力して倒したという話だ。
その事をエルマーに言うと、エルマーはおやおやという顔をした。
『その話は一般にはタブーなんだが、まあ絶対に秘密に出来る事柄などないという事か』
「本当なんですか? 眉唾だと思ってましたけど」
アネッサが言うと、エルマーはふっと姿を消した。一同がおやと思っているうちに再び姿を現したエルマーの手には、一冊の本があった。古い本で、表紙の装丁も年季が入ってボロボロだ。しかし丁寧に修復されたのか、崩れるという事はまるでなさそうだった。
『これはかなり昔の歴史書だ。ヴィエナ教による焚書を逃れたものだね』
「え、それじゃあそこに真実が……?」
『私には真実かどうかは分からないね。歴史なんて人の目を通してしか見る事ができない。同じ事柄でも書く人間によって変わるなんてざらだよ』
「じゃあ出鱈目なのか?」
とマルグリットが言った。エルマーはマルグリットの傍らに現れたと思うや、首筋を指でなぞった。マルグリットは椅子から跳ね上がった。
「ひゃああ! 何すんだ!」
『出鱈目か真実かは、読んだ者が決める事なのだよエルフのお嬢さん。しかし流石エルフの肌はきめがこまやかだね。すべすべで実に良い。お腹、撫でてもいい? 太ももでもいいが』
「駄目に決まってんだろ、このエロガキ!」
「中身はジジイだぞ、騙されんな」
マリアがうんざりしたように言った。
アンジェリンはエルマーから本を受け取って、ぱらぱらとめくってみた。古めかしい文字で書かれていて読みづらいが、読めない事はない。
これが達筆なのか下手なのかその辺りは分からないけれど、これが達筆ならわたしの字だって上手だとアンジェリンは思った。
エルマーは椅子に座るような格好のまま宙に浮かび上がった。
『魔王か。あれはソロモンの遺産の中でも禁忌中の禁忌なのだがね。まあ、シュバイツならそんなものは意に介さんだろうが』
「そういう奴だ。げほっ……エルマー、魔王を人間にする実験について、何か聞いた事はねえか? 関連の魔導書でも構わねえが」
『なんだいそれは。シュバイツはそんな実験をしているのかい?』
マリアが頷くと、エルマーは面白そうな顔をして眼鏡に手をやった。
『死霊術だけじゃなく、そういう事に手を出し始めたのか。さて、何を企んでいるのやら』
「ばあちゃん、別にわたしは話してもいいんだけど」
アンジェリンが言った。マリアは少し悩んでいたが、やがてエルマーを見た。
「んんっ……他言無用を守れるか?」
『ははは、私が噂話をまき散らすと思うのかい? そもそもこの部屋から出られないのに』
「……テメエは変態だが、その点は信用してやる。まあ、あたしもまだ話半分なんだが、このアンジェは魔王の魂を持っているらしい。だがこいつは人間で、しかもこいつを産んだのはエルフなんだ」
マリアが言うと、エルマーはおやおやという顔をした。
『そいつは荒唐無稽な話だな。しかし面白い。聞かせてもらおうか』
それでアンジェリンはエルマーに説明した。尤も、アンジェリン本人も詳細を知っているわけではない。だからイマイチ要領を得ない説明ではあったが、エルマーは終始面白そうに耳を傾けていた。
「だから、わたしはお母さんの娘なの。でもなんで人間なのかは分かんない……」
『成る程、しかし美人なのはエルフ譲りだと思えば納得がいくじゃないか。そっちのエルフのお嬢さんと並んでも遜色ないと私は思うよ、アンジェリンさん』
さらりと歯の浮くような事を言うから油断がならない。アンジェリンはちょっともじもじしたが、すぐに居住まいを正した。
「だからね、その事が分かるかなって思って、ばあちゃんに頼んでここに連れて来てもらったんだけど……」
『成る程成る程。しかしここにはその実験の資料はないね。明らかに外道の魔法だし、そんなものは秘蔵したがるだろう。シュバイツならば尚更だ』
魔王を人間にする、というのがシュバイツ達の実験の目的だったらしい、というのはビャクも言っていた。成功と言われる者は魔王の気配が消えて完全に人間になるらしい。だからアンジェリンは成功作なのだろう。ビャクや双子のような失敗作も大勢いたようだが。
「なーんだ、無駄足か」
マルグリットが頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれをぎいぎい言わした。立体魔法陣が一つ、目の前をすうと横切って行った。
「いや、でも何かきっかけになるような魔法とかある筈だし、そういう本ならあるんじゃないか? そうですよね、エルマーさん」
アネッサがフォローするように言うと、エルマーはひょいとアネッサの傍に現れて、その肩を抱いた。そうして耳元に顔を近づけて囁く。
『ふふ、気遣いの出来る子は好きだよ、私は。良い子良い子』
「ど、どうも……」
アネッサは引きつった笑みを浮かべた。エルマーはにやりと笑ってアネッサから離れ、適当な椅子に腰を下ろした。
『ジナエメリ著、ニーカユチシマ第四章より。“かくして、ヴィエナの愛され子たちは北の地へ去った。雪と氷に彩られた深き森は清浄の証であった”』
「北の地に去ったヴィエナの愛され子って……もしかしてエルフの事?」
ミリアムが言った。マルグリットが目をぱちくりさせる。
「え、そうなのか?」
「だってそんな感じするじゃん。エルフの魔力は清浄だっていうし、ヴィエナ教でもエルフは高貴な種族として敬われてるんだよ?」
「嘘だあ、だって、おれは敬われてねえじゃんよ」
「だってまあ、マリーだし……」
「マリーだからね……」
「なんだよ」
不満そうなマルグリットを見て、なぜかエルマーは満足げに頷いた。
『その不満げな表情も実にいいね。さて、話を続けよう。同じくニーカユチシマ第五章より。“彼らの力は魂の白と黒とをそれぞれに宿していた。その力は相反したものであった。故に彼らは互いに惹かれ合った。しかしついに結ばれる事はなかった”』
「彼らって……?」
アンジェリンが言うと、エルマーはにやりと笑った。
『ソロモンとヴィエナ、だそうだ。ニーカユチシマはジナエメリによる一大叙事詩で、現在は禁書扱いだ。まあ、創作による部分も多分に入っているが、ヴィエナ教の圧力がそれほど強くない時代の書物だから、ある程度の信ぴょう性はあるだろうね』
「魂の白と黒……」
「難しくて分かんねえ。どういう事だよ。それが何か関係あるのか?」
何か考えていたらしいマリアが小さく咳き込みながら言った。
「げほっ……アンジェ、お前がエルフの腹から産まれたってのは確かなんだな?」
「え、うん。どうやったかは聞いてないけど……」
「……前にオルフェンに出た溶けた魔王を調べたが、魔王ってのは凝縮された魔力の塊みたいなもんだ。しかもソロモンが作ったものだから魔力の質はエルフのそれとは正反対だ」
「つまり……どういう事?」
アンジェリンはちっとも分からずに小首を傾げた。しかしマリアはマフラーに口元をうずめ、すっかり沈思黙考という具合になってしまった。こういう辺りは実に魔法使いらしい。
エルマーは肩をすくめて、ぽんと手を打った。
『何か掴んだみたいだね。けど、そんな事知ってどうするの? ああ、アンジェリンさんは自分の出生だから気になるわけかね?』
「いや、わたしは別にどうでもいいんだけど……」
『んん? そうなの? だって自分が魔王なんだよ? 不安になったりしないのかい』
「うん。魔王でも何でも、わたしは悪い事してないし、お父さんの娘だし」
『ほほう、君はお父さん似なのかい?』
「ううん、わたしは拾われっ子。だからお母さん似なのかな」
『美人母娘。いやあいいねえ。是非並んだところをお目にかかりたいものだ』
「いや、アンジェとサティさんは似てないですよ」
「似てないねー」
「外見も中身もな」
アンジェリンは頬を膨らましてテーブルに手を突いた。
「三人とも、もっとリーダーを敬いなさい……」
「おいエルマー、ソロモンとヴィエナに関して書かれた本、いくつか見繕え。あとエルフと人間の魔力の比較に関する本もあったら寄越せ」
マリアが突然思考から浮かび上がって来た。エルマーはふんと鼻を鳴らしたと思うや、ふいと姿を消してマリアの後ろに移動し、両手でその脇腹を引っ掴んだ。マリアは「ぐお」と言って跳ね上がったが、喉に何か引っかかったのか体を曲げて咳き込んだ。
「げほっ! げーっほ、げっほ! ごほっ、ごほっ!」
『人にものを頼む態度じゃないねえ、マリア。そういう時はもっといじらしく、頬なんか染めて、どうかお願いしますご主人さま、と――』
「かっは……二度目の死がお望みらしいな」
マリアは憤然と立ち上がった。魔力が渦を巻いて風を起こし、服や髪の毛を揺らす。アンジェリンは慌てて立ち上がった。
「わたしたちは先に戻るね。じゃあね、エルマーさん」
『ああ、また会おう。私が無事だったらね!』
エルマーは軽口を叩きながらも、マーシャルアーツでもするような格好をしてマリアに向かい合っていた。
アンジェリンたちは四人連れ立ってそそくさと部屋を抜け出した。来る時に下った長い階段を上がって行く。
「なんか……くたびれたな」
アネッサの言葉に、他の三人も頷いた。
「ホント、大魔導ってどうしようもねーな。なんであいつらあんなに尊敬されてんの?」
「まあ、役立つ術式とか魔道具とか色々開発してるし……でもオババ、何か気付いたのかな? もしかしたら一歩前進できるかも」
「そだね……マリアばあちゃんに任せるのがよさそう」
ミリアムはともかく、自分たちは魔法の専門家というわけではない。取っ掛かりさえあれば、マリアの方が遥かに適任だろう。
尤も、本当ならサティに聞くのが一番早いのだろう。しかし、何となく彼女の古傷をえぐるようで、それはしたくない。
どちらにせよ、アンジェリンとしては自分の出生にはそれほど興味がないのだ。父親がベルグリフで、サティが母親で、トルネラが故郷ならば、それ以外は些末な事のように思えた。
アネッサが腕組みした。
「……でも、シュバイツは魔王を人間にして何がしたいんだろう?」
「それだよねー。慈善事業じゃないだろうし……兵器として使うってのも何か変だし」
「何だろうね……まあ、あんな奴の目的に興味なんかないけど」
考えながら歩いていると、何となくお腹が空いたような気がした。アンジェリンはお腹に手をやった。
「……来る時、周りに何か食堂があったよね」
「あー、あったね。行こうか」
「行こうぜ。おれ、図書館みたいな所は性に合わねえや。飯食って元気出そうっと」
マルグリットがそう言って欠伸をした。それがうつって、アンジェリンも大口を開ける。またやってる、とアネッサとミリアムが可笑し気に笑った。
遅くなってすみません。
書籍六巻が本日(10月17日)発売になってます。
よかったら買ってみて下さいな。