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一二一.夜半近く、すっかり濃い夜の闇


 夜半近く、すっかり濃い夜の闇が頭からかぶさっている。降り続けていた雨はやや勢いを弱めたが、みぞれが多く混じって重苦しく地面に積み重なった。

 部屋の中の黄輝石のシャンデリアが明るく、窓には姿が映るばかりで外は見えない。フランソワが頭を下げた。


「夜分遅く申し訳ございません、殿下」

「なに、いいさ」


 ベンジャミンはフランソワに連れられて来た聖堂騎士二人に目をやって笑った。


「どうなされたのかな、お二人とも」

「実は折り入ってご相談が」


 ドノヴァンはやや恐縮した様子で、ファルカによる狼藉の事を説明した。ベンジャミンは特別驚く様子もなく、ふむふむと頷きながら聞いていた。


「なるほどねえ、そいつは災難だったね……もしかしたら剣の方がファルカ君に侵食して来ているのかも知れないよ」

「なんですと?」

「あの剣は成長する。つまり、ある種の意思を持っているのさ。だから他者の血や魔力を吸いたくてたまらない。その剣の意思が、段々とファルカ君の意識に強い影響を与え始めているのかも。剣自体も随分強くなったようだしねえ」


 ドノヴァンは怪訝な顔をしてファルカを見た。ファルカは無表情で後ろに控えている。


「……魔獣ばかり斬って来たのも関係が?」

「そうかもね。斬った対象の魔力を吸収するわけだから。もっと別の種類の魔力を吸収すれば、その衝動も治まるんじゃないかな?」

「ふむ……」


 すると、尚更あの大剣を手に入れねばなるまい、とドノヴァンは顎を撫でた。あれを魔剣で打ち壊せば、その魔力は魔剣のものになる。そうなれば力を増すだけではなく、他者を斬りたがる衝動も抑えられるだろう。そうでなければ、高位の聖職者、あるいはエルフでも斬らねばならぬ状況になっていたかも知れない。ベンジャミンは面白そうな顔をしている。


「ドノヴァン君、何か当てがありそうだね?」

「はは、殿下は何でもお見通しでいらっしゃいますな」


 赤毛の剣士の持つ大剣、それを手に入れたいという話を聞いて、ベンジャミンは驚いたような顔をして、それからにやりと笑った。


「それは好都合だな」

「ふふ、実はフランソワ殿から彼奴らは殿下に仇なす者たちとお聞きいたしましてな。僭越ながらご加勢をと思いまして」

「なるほど……うん、それは助かる。相手方の強力なのは一人捕らえてあるんだが、まだ油断できない状況でね」


 より詳しい話を、というところで不意に部屋の中に別の気配が現れた。


「……!」

「ファルカ!!」


 即座に反応して剣を抜きかけたファルカは、ドノヴァンに怒鳴られて、びくりと体を凍らせた。ドノヴァンはファルカを睨み付けた。


「先ほどの失態を忘れたか、この愚か者が!」

「……」


 ファルカはしゅんとうなだれて、現れた相手の方を見た。白いローブを着た男が立っていた。ベンジャミンがからからと笑う。


「やあ、シュバイツ。何処に行ってたんだい」


 シュバイツは目深にかぶったフードの向こうから、冷たい眼光を投げかけた。


「……なぜ聖堂騎士がいる」

「はは、ちょいとお互いの利害が一致してね、敵の敵は味方っていうだろう? なあ、ドノヴァン君?」

「は……」


 ドノヴァンは小さく頭を下げた。確かに利害は一致する。この際、シュバイツの事は後回しでも構わない。剣が制御できなければ彼を相手取っても勝負にならないだろう。ドノヴァンとて聖堂騎士である。浄罪機関の襲撃を単身で何度も退けている相手を見くびりはしない。

 シュバイツは聖堂騎士たちを見ていたが、やがてふんと鼻を鳴らしてベンジャミンの方を見た。


「まあいい。俺には関係のない事だ」


 そうしてローブの懐からぐったりしたカラスを二羽、テーブルの上に無造作に放り出した。カラスたちは動かないが、死んだわけではないらしい。ベンジャミンが「おお」と言って立ち上がった。


「流石だね、君は。それじゃああのエルフの結界を突破したわけか」

「多少手間取ったが、魔力不足で旧神との契約が弱まっていたのだろう」

「エルフは? 殺したの?」

「あれはまだ利用価値がある。『島』の牢に放り込んでおいた」

「ははは、なるほどね。今日は時空牢は大賑わいだな」

「なに?」


 シュバイツは目を細めた。


「どういう事だ?」

「いや、僕の方もあの“黒髪の戦乙女”を閉じ込めておいた。“覇王剣”と並ぶあちら側の最大戦力だろう? けど中身は小娘だね、他愛のない」

「この大間抜けが!!」


 滅多に声を荒らげないシュバイツの怒号に、流石のベンジャミンも面食らったらしい、驚いたように目を見開いてしばたかせた。


「な、なに怒ってるのさ。平気だよ、『個室』に入れたんだぜ?」

「お前はあの娘の実力を過小評価している。なぜ俺が戻るまで待たなかった」

「いや、向こうが態勢を整えるとまずいと思ったんだけど」


 シュバイツはイライラした様子で腕を組み、頭を振った。


「あの娘を取り巻く事象の流れに飲まれまいと……俺は細心の注意を払って来たと言うのに、お前のせいで台無しだ、この役立たずが」


 これにはベンジャミンもカチンと来たらしい、テーブルに音を立てて乱暴に手を置いた。


「あのねえ、君がいつも自己完結して何も言わないのも悪いだろう? あんなお人好しの娘に何ができるっていうんだい? 『個室』を突破して『島』まで辿り着く可能性があるとでも?」


 シュバイツは失望したように嘆息し、侮蔑の視線をベンジャミンに投げた。


「……お前はとうに流れに飲まれていたわけか」

「なんだって? おい、シュバイツ。君がそうなら僕にだって考えが」

「もういい。自分の尻くらい自分で拭いて来い」


 シュバイツはそう言って腕を振った。すると部屋の中の風景がぐにゃりと蜃気楼のように歪み、次の瞬間には、部屋の中にいた者たちは一人残らず姿を消していた。



  ○



「……応急処置だけど」

「うん、ありがとう。ふふ、やっぱり手際がいいね」


 服を着直したサティはにっこりと微笑んだ。アンジェリンは腰のポーチの簡易救急道具で、まだ血のにじんでいるサティの傷を手当てした。昨日の戦いで負った刀傷などの他に、打撲の内出血などもあり、見るだけで痛々しかった。


「昨日も手当てしてもらって、今日もなんてね」

「無茶し過ぎ……」

「そうだね、我ながら情けないや」


 サティは苦笑して頭を掻いた。アンジェリンは頬を膨らましてサティの頬を両手で挟んだ。


「うにゅ……」


 すべすべして、むにむにと柔らかくて、ずっと触っていたいくらいだ。出会ってから、サティはずっと傷だらけだ。もっと綺麗な筈なのにな、とアンジェリンは頬を膨らました。


「綺麗なんだから、傷だらけなんてもったいない」

「そりゃあなたも一緒だよ。ほら、ここなんか痕になっちゃいそう」


 サティは手を伸ばしてアンジェリンの頬をつまんだ。こちらも負けず劣らず柔らかいらしい。二人して互いの頬をつねり合っていると、後ろの方からベンジャミンの声がした。


「あの……もうそっち向いてもいいかい?」

「あ、ごめん。いいよ」


 忘れてた、とアンジェリンは頭を掻いた。治療で服を脱がすから向こうを向いていろとの厳命をベンジャミンは律儀に守っていたらしい。美女を侍らしていたという噂のエロ皇太子にしては素直でよろしい、とアンジェリンは一人で頷いた。

 サティがくすくす笑った。


「ごめんなさいね殿下。でもまさか生きていらしたとは驚きです。ご無事で何より」

「あ、ああ。ありがとう。僕もこんな所でエルフに会えるなんて驚きだよ。サティっていったっけ。君はアンジェリンの知り合いらしいが……」

「わたしの友人の娘なんですよ。でもこの子には昨日会ったばっかりで」


 サティはそう言って笑った。

 そうだ。そういえば話にはずっと聞いていたのに、会ったのは昨日が初めてだったのである。それなのに何だか懐かしさすら感じるのは、ベルグリフの昔の仲間だからというのが大きいのだろうか。

 ベンジャミンは伸び放題の髭を捻じって苦笑した。


「まったく、できればもっと落ち着いた所で会いたかったものだよ」

「本当ですねえ。しかしまずはここから出る事を考えないと」


 サティは真面目な顔になって周囲を見回した。


「サティさん、転移魔法は……?」

「ここは駄目みたい。さっき牢屋の中で試したけど弾かれたよ」


 まあ、シュバイツが私を放り込んだんだから、それくらいの対策はあるだろうね、とサティは嘆息し、目を細めた。


「アンジェリンちゃん、何か取っ掛かりはありそうかな?」

「あのね」

「うん」

「アンジェでいいよ……」

「んん?」

「……アンジェリンちゃん、だとなんか距離感じるから」


 サティは一瞬呆けたが、やにわに噴き出して笑い出した。そうして手を伸ばしてアンジェリンの頭をわしわし撫でる。


「あははは、もー、あなたはマイペースだねえ。分かった、アンジェ。それで何か気付いた事はある?」

「この空間に来る前に三つ空間を通った。そのどれも何かしら変わった所があって、そこを突いた。この空間だと、あの月が怪しい」


 アンジェリンはそう言って、横顔の三日月を指さした。サティはふむふむと頷いた。


「確かに、監禁用の空間は干渉できる鍵がないといけないからね。それが謎解きになるか、それとも守護者(ガーディアン)か……調べてみないとね」

「謎解きは分かるけど……守護者?」

「そう。要するに牢屋番だね。そいつを倒せば鍵が開く」


 成る程、最初の部屋の赤い球体みたいなものだろうか、とアンジェリンは思った。


「分かりやすくていいけど、大抵は一筋縄じゃいかない。Sランク魔獣並みの相手だね」

「それくらいなら楽勝。任せて」


 ビシッと親指を立てたアンジェリンを見て、サティはまた笑った。


「もう、さっきから面白いなあ、アンジェは! ……ベル君は本当にいいお父さんなんだね」

「うん! 世界一の自慢のお父さん!」


 アンジェリンはそう言って胸を張った。サティはにっこり笑い、大きく息をすった。


「よし、行こうか。殿下、歩けますか?」

「ああ。戦うのは流石に勘弁してほしいけど」

「あなたが役に立つなんて思ってないから大丈夫」

「……そりゃ事実だけど、中々辛辣だね、アンジェリンは」


 ベンジャミンは苦笑して頭を掻いた。

 三人は連れ立って歩き出した。壁を背にパセリの森へ向かっていく。近づくほどに鼻に抜ける匂いが強くなった。

 月の光が影を長く伸ばす。アンジェリンは時折顔を上げて空の月を見上げたが、月は次第に高くなるばかりで、近づいても手が届きそうになかった。ベンジャミンが呟いた。


「……高いなあ。あれを壊すのか?」

「分からないけど……調べてみない事には」


 仮にあの月と戦う事になっても、剣士であるアンジェリンには少し荷が重いように思われた。

 『大地のヘソ』でバハムートと戦った時は、眷属の飛ぶ魚たちを足場にして跳び上がれたけれど、そういうものは見当たらない。流れ星あたりを眷属にして飛ばしてくれれば、それを足場にできそうなものを、とアンジェリンは歯噛みした。


「サティさんは、魔法が専門なの?」


 ふと尋ねてみる。ベルグリフたちの昔話では、サティは若い頃のパーシヴァルと同格の剣士だった筈だ。サティは「そうだねえ」と視線を泳がした。


「今は魔法も多いけど、基本的には剣士だよ」

「剣は? 隠しているのか?」


 ベンジャミンが言った。サティは笑って肩をすくめた。


「隠していると言えばそうでしょうね。要するに、魔力で見えない剣を作ってそれを使う事が増えたの。本物は持ち歩かなくなって久しいけど……こういう空間だと本物がないと駄目だね。反省だよ」

「さっき牢屋が斬れなかったのも……?」

「うん。言い訳みたいになっちゃうけど、今のわたしは別の所でかなり魔力を消費しているから、魔力の剣もちょっと質が落ちてるみたい。ただでさえこういう空間は魔法に対しては抵抗力があるから……アンジェが来てくれてよかったよ、本当に」


 また頭を撫でられて、アンジェリンはちょっと頬を染めた。なんだかサティにこうされるのは嬉しい気がした。


 いずれにせよ、サティも魔弾程度は扱えるものの、遠距離はそれほど得意ではないようだ。まだ月が鍵だと決まったわけではないが、やはりあれが怪しいように思う。

 そういえば子供の頃、アンジェリンはベルグリフに月を取ってくれと言ったらしい。そういえばそんな覚えもある。そんな時、ベルグリフはどうしてくれたのだったか。


 大きなパセリの葉から月光が漏れて、地面をまだらに照らしている。チェック模様の地面と相まって、なんだか取り留めがない。見ていると目が回るようだ。少し腹が減ったような気もする。

 ざあ、と葉が揺れた。サティが足を止め、怪訝な顔をして目を細めた。


「空間が……何か来た、かな?」


 アンジェリンは背筋に冷たいものを感じ、剣を引き抜いた。


「寄って!」


 サティはベンジャミンを抱き寄せてアンジェリンの方に寄った。


 突如として何か黒い塊がぎゃあぎゃあと鳴き声を上げて木の間を縫って来た。

 二羽のカラスだ。それが羽をはばたかせて襲い掛かって来る。爪もくちばしも鋭く、目を突かれては大変だ。ベンジャミンは何が起こったのか分からず、引きつった悲鳴を上げて目を白黒させた。


「くっ、この!」


 アンジェリンはカラスを叩き切ろうとしたが、青ざめたサティがそれを制した。


「待って!」

「え、でも」

「この子たちはハルとマルなんだ! どうして……」

「ええ!?」


 このカラスがあの双子? アンジェリンは困惑してカラスをよく見ようとしたが、暗がりではあり、動き回っているから分からない。ひとまず斬らないように剣の横腹を使うようにして何とか追い払った。カラスたちは舞い上がり、パセリの枝にとまってぎゃあぎゃあと鳴いた。


 息つく暇もなく、今度は別の影が滑るようにして近づいて来た。アンジェリンはハッとして体勢を整え、その影を迎え撃った。剣士らしい。


「ぐう……!」


 相手は恐ろしく俊敏な動きで縦横無尽に跳び回り、アンジェリンを翻弄した。何とかそれをいなしながら、アンジェリンは怒鳴った。


「サティさん! 大丈夫!?」

「わたしの事は気にしないで!」


 ちらと見ると、サティは見えない剣で襲撃者の攻撃を防御し、ベンジャミンの事も守っているようだった。やっぱりこの人もただ者じゃないな、とアンジェリンはちょっと嬉しくなり、すぐにそんな場合ではないと気を引き締めた。


「こン――のッ!」


 上から急直下して来た影の攻撃を受け止め、力任せに押し返した。

 襲撃者はひょいと飛び退って、何だか嬉しそうに剣をくるくる回した。少年だ。兎の耳が頭で揺れている。


「なんなんだ、いったい……」

「それはこっちの台詞だよ」


 別の声がした。見ると、小奇麗な服に身を包んだ皇太子ベンジャミン、の偽者が立っていた。

 隣にはフランソワと、兎耳の少年と同じ服を着たがっしりした男が立っている。ベンジャミンはそれを見て息を呑んだ。


「お前は……それになぜ聖堂騎士が」

「はは、ご紹介しようか。こちらは聖堂騎士のドノヴァン卿、そちらはファルカ殿だ」


 ベンジャミンはうなだれた。偽物は肩をすくめた。


「しかし参ったな。これじゃシュバイツに怒られるのも仕方がない……アンジェリン、君は大したもんだ。つくづく敵にしておくのが惜しいよ」

「……いい加減に諦めたら? あなたたちじゃわたしには絶対に勝てない」

「どうかな? 君一人ならばともかく、足手まといを二人も連れてちゃ却って不利じゃないかな?」


 後ろにまた別の気配がした。アンジェリンはそっと後ろを見返った。白いローブを着た男が腕組みして立っていた。シュバイツだ。その隣には虚ろな目をしたメイドが控えていた。


 挟まれた。あまり良い状況とは言えない。

 ベンジャミンは言うまでもなく、サティも本調子ではない。この連中を相手にするには少し心許ないような気がする。

 その時ベンジャミンがよろよろと立ち上がって口を開いた。


「待て、ドノヴァン卿、その男は皇太子ではない……」

「なに?」


 自らも剣の柄に手を置いていたドノヴァンは怪訝な顔をしてベンジャミンを見た。ベンジャミンは喋り辛そうにしながらも続ける。


「僕が……本物のベンジャミンだ。その男に幽閉され成り代わられていたんだ……その男に帝室の血は流れていない。騙されるな」


 ドノヴァンは横目で偽者の方を見やった。偽物はちっともうろたえる事無く薄笑いを浮かべて立っている。ドノヴァンはベンジャミンに目を移した。


「……証拠は?」

「いや……しかし、確かにそうなんだ。昔の僕とまるきり変わった事は、卿もご存じの筈」

「それで? 偽者たる僕はわざわざ善政を布く為に無能者の皇太子を幽閉した、とそう言いたいのかな?」


 割り込んだ偽者に言われ、ベンジャミンは唇を噛んだ。偽物はくつくつと笑う。


「偽者を用意するならもっとマシな男を用意するべきだったね、アンジェリン。さてドノヴァン卿、貴殿はどちらが本物だと思われるかな?」


 ドノヴァンは肩をすくめ、じろりとベンジャミンを睨み付けた。


「殿下の名を騙るとは不届きな男だ。偽者を担ごうという連中ともども、主神に代わって成敗してくれよう」

「ぐ……」


 ベンジャミンは落胆したように力なく膝を突いた。サティが慰めるようにその肩を撫でた。


「殿下、誰が何と言おうが本物はあなたですよ」


 ベンジャミンはそれには答えずに俯いたままだった。

 アンジェリンは油断なく周囲を見回して剣の柄を握り直した。

 シュバイツは強敵だし、ファルカも相当の手練れだ。ドノヴァンも弱くはなさそうである。

 あのメイドも油断できそうにない。偽ベンジャミンはそれほど強くはなさそうだが得体が知れない。カラスのハルとマルもこちらを威嚇するように鳴いている。


 相手の手札が分からないのが一番まずいな、とアンジェリンは舌を打った。

 自分だけならば切り抜けられる自信はあるが、ベンジャミンとサティを無事に、と考えると中々難しい。アンジェリンが斬り込むと見るや、手の空いた相手が即座に二人を狙うだろう。たとえ偽ベンジャミンとシュバイツを仕留める事ができても、サティとベンジャミンが殺されてしまっては何の意味もない。


 偽ベンジャミンがけらけら笑いながら両腕を広げた。


「さてさて、弱い者いじめのようで気が引けるが……覚悟はいいかい?」

「ふん……ぐだぐだお喋りして、勝ったつもり?」

「へえ、まだ勝てるつもりでいるのかい?」

「当然。あなたはわたしたちを甘く見過ぎ……あの黒いコートの人はどうしたの?」

「ヘクター? さあね。別の仕事を頼んであるだけだよ」

「……ふん」


 アンジェリンはそっとサティの方を見て、小さく頷いた。サティは微笑んだ。アンジェリンは前を向き、剣の切っ先を偽ベンジャミンに向けた。


「もう謝っても遅いぞ」

「はは、怖い怖い」


 じゃり、と靴底が地面を擦る音がしたと思うや、ファルカが矢のように跳んで、アンジェリンに斬りかかる。

 アンジェリンは受けるかと思われたが、軽く身をかわしてファルカの腕を掴むと、その勢いのまま後ろに投げ飛ばした。


 サティはファルカを避けるようにして、ベンジャミンを抱えて無理矢理横に跳ぶ。アンジェリンはそれを見とめると、ものすごい勢いで前に跳んだ。偽ベンジャミンたちは思わず目を剥いた。

 アンジェリンはそのまま剣を振り抜こうとしたが、ドノヴァンが前に出て受け止めた。


「ぐぬっ! なんという……!」


 アンジェリンの剣撃の重みに、ドノヴァンは思わずたたらを踏んで顔をしかめた。


「殿下、お下がりを!」


 フランソワも剣を抜いて前に出た。偽ベンジャミンは後ろに下がる。

 アンジェリンは咄嗟にフランソワの首を飛ばそうとしたが、リーゼロッテの顔が頭によぎって手を止めた。そのまま即座に跳び退り、サティとベンジャミンの傍らに戻った。

 向こうまで投げ飛ばされたファルカが剣を振り上げて戻って来ている。

 サティが怒鳴った。


「アンジェ! あの兎を相手して!」

「ん!」


 アンジェリンはファルカの剣を受け止めて押し返した。サティはかかって来た虚ろな目のメイドの一撃を受け止めた。

 ファルカは全身から愉悦をみなぎらせて剣を振るう。切り結ぶ度に妙な疲労感が襲って来るから、アンジェリンは顔をしかめた。

 そこで強引に剣を打ち払い、前に押してファルカの腹を蹴り飛ばした。ファルカは背中から倒れると思われたが、両手を突いて後転すると不思議そうな顔をして蹴られた腹を撫でた。


「不気味な奴……」


 アンジェリンは口を尖らしたまま剣を構え直した。サティの方もメイドを押し返して、荒い息を整えていた。


「くそ、この程度で……」

「サティさん、無理しないで」

「無理しなきゃ勝てないよ、アンジェ。特にシュバイツを何とかしないと……」


 アンジェリンは後ろの方に立つ白いローブの男を見る。動きらしい動きはないが、油断なくこちらを見据えているのが分かる。

 不意に上空から羽音がした。アンジェリンはハッとして剣で防御する。鋭い爪が刀身を打ち据え、柄を握る手まで震えた。


「くっ……!」

「ハル! マル! わたしだよ! 分からないの!?」


 サティが悲痛な声で叫ぶ。しかし二羽のカラスはぎゃあぎゃあと喚きながら襲い掛かって来るばかりだ。ファルカとメイドも挟撃するかのように前後から迫って来た。


「サティさん! 後ろ!」


 アンジェリンはファルカの剣を受け止めた。サティもメイドを迎え撃つ。

 さっきの一当てが効いたのか、ドノヴァンとフランソワは警戒して偽ベンジャミンを守っている。しかしこのままで攻めきれないのではジリ貧だ。


「アンジェ!」


 不意にサティが反転してアンジェリンを押しのけ、見えない剣でファルカを弾き飛ばした。

 上空から急降下して来たカラスがその後を通り抜けて行った。


 アンジェリンはサティと入れ替わるようにして、今度は後ろのメイドの攻撃を受け止めた。そのままカウンターで真二つにしようとしたが、メイドはすぐに後ろに引いてしまった。


 アンジェリンとサティは再びベンジャミンを挟んで背中合わせになった。

 まずいな、と舌を打った。

 相手はこちらが消耗するのを待っている。だからこちらも攻めきれない。こちらからも攻めたいが、攻勢に出れば守るべきサティたちが危ない。


 ファルカはとんとんと踵で地面を蹴って、再び肉薄して来た。アンジェリンも踏み出して剣を交える。

 数合打ち合ったのち、アンジェリンは身を低くした。


「……! そこっ!」


 ファルカの大ぶりの一撃を掻い潜って、剣を逆手に持ち替えて脇腹を斬り裂く。鮮血が噴き出し、聖堂騎士の白い服を赤く染めた。


 ――浅い!


 手応えの浅さを感じると同時に、ファルカは動きを緩める事なく上から剣の柄でアンジェリンの肩を思い切り殴った。鎧越しにも凄い衝撃で、アンジェリンは思わず膝を突く。

 ファルカも後ろに下がり、脇腹の傷を撫でている。戦いで興奮状態なのか、ちっとも堪えた様子がない。


 メイドの攻撃をからくも退けたらしいサティも、今までの疲労や傷も相まって辛そうだ。

 自分ではそんなつもりはなくとも後ろが気になって気が散ってしまう。このままでは、と思った時、巨大な魔力の奔流を感じた。


『鋭く砥がれた病の風に 赤く染まったその床に 愚者の夢は舞い散り落ちる』


 シュバイツの方から重く冷たい魔力が北風のように流れてアンジェリンたちを取り巻いた。

 しまった、ここで大魔法か、とアンジェリンは舌を打った。みすみす相手に準備の時間を与えてしまった。魔力はまるで細かな針のようにちくちくと肌を刺した。


 こうなってはせめてサティだけでも守らねば、とアンジェリンは身を翻してサティの肩を抱いた。そうして地面に押し倒すように倒れ込む。

 魔力は塊になって、嫌な気配を充満させながら覆いかぶさって来た。


 その時であった。


『指の先に力連なり 糸はよりて紐となり 遠き頸木の顎を砕かん』


 不意にらせん状に渦を巻く魔力を感じたと思ったら、それが弩で放たれた矢のような勢いで飛んで来た。

 それはアンジェリンたちにかぶさろうとしていた魔力とぶつかり、強烈な音を立てて炸裂する。何だか知っている大魔法だ。


「……ハルト・ランガの槍?」

「オラァ! どきやがれ兎野郎!」


 知っている声がした。

 剣と剣がぶつかる音がする。

 矢が空気を切り裂く音、稲妻がとどろく音がする。


 アンジェリンは顔を上げた。その下で仰向けになっているサティは何が起こったのか分からずに呆気に取られている。ベンジャミンは両手で頭を押さえてうずくまっているが、怪我をしたわけではないようだ。


「アンジェ! 大丈夫か!」


 また別の声がした。それを聞くや、アンジェリンの体の底から喜びと元気が湧き上がって来る。迷わず跳ね起きた。


「お父さん! みんな!」


 周囲では戦いが起こっていた。

 マルグリットがファルカと切り結び、アネッサとミリアムが虚ろな目のメイドを相手取っている。

 カシムはシュバイツの前に立ちふさがり、自分たちと偽皇太子の間には、アンジェリンの大好きな背中があった。

 アンジェリンはサティを助け起こした。サティはぽかんとしたまま前に立つ赤髪の男の背中を眺めていた。男は振り向いた。


「すまん、遅くなった……よかった。無事で」

「え、あ……」


 サティは口をぱくぱくさせたが、やにわに大粒の涙を両目から溢れさせた。


「あは、あはは……おじさんに、なったねえ、ベル君……」

「……君はちっとも変わってないな、サティ」


 ベルグリフはちょっと照れ臭そうに笑い、手に持った大剣を握り直した。


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