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一一一.庭園から見上げる夜空には星が輝いて


 庭園から見上げる夜空には星が輝いていたが、断続的に流れて来る雲がひっきりなしにそれを覆い、また通り過ぎた。

 四方を石壁に遮られ、嫌に狭苦しい印象の庭園だが、庭木や花々は丁寧に整えられ、小ぢんまりとしながらも美しい彩りを持っていた。


 しんしんと空から冷気が降りて来る。

 まだ霜が降りるほどではないが、夜露は木々の葉を濡らし、壁で揺らめく黄輝石のランプの光を照り返してきらきら光った。


 中央の植え込みに隠れるようにして、テーブルと椅子が一セット置いてある。そこに端整な顔立ちの男が腰かけていた。白く質の良い服に身を包み、黄の濃い金髪はランプの灯を照り返して黄金のように光っている。ローデシア帝国皇太子ベンジャミンだ。

 ベンジャミンは少し面白くなさそうに顔をしかめ、指先でテーブルをこつこつと叩いた。


「また失敗ねえ……流石にこう失敗続きじゃ面白くないな」

「申し訳ありません、想定外の邪魔が入りまして」


 傍らに膝を突いていたエストガル大公の三男、フランソワがそう言って頭を垂れた。しかし目だけは落ち着かなげに揺れている。あちこちの暗がりから視線と気配を感じるようだ。

 ベンジャミンは乱暴に頭を掻き、嘆息して椅子の背にもたれた。


「いや、それはいいんだ。おかげでエルフをおびき出す事はできた。仕留め損なったのは完全に失敗だったけど」


 フィンデールでエルフを襲撃する作戦は、二度とも失敗していた。一度目はまだしも、二度目は邪魔が入ったという。


 だがその直後、エルフは直接ベンジャミンの首を狙って帝都に現れた。結界に干渉されるという事が焦りになったのは間違いあるまい。

 しかしシュバイツとヘクターによって阻まれ、そのままエルフは返り討ちに遭い命を落とす、筈だった。


「よもや“黒髪の戦乙女”が現れるとはなあ」


 フランソワの眉がぴくりと動き、顔を上げた。


「あれが現れたのですか?」

「そうさ、そのせいでシュバイツとヘクターが揃っていたのにエルフを取り逃がした」


 ベンジャミンは後ろを見返って言った。


「マイトレーヤはどうなったかな。殺されただろうかね?」

「相手が“覇王剣”だけならばそうだったろう。しかし“赤鬼”はそういう事はすまい。あれはそういう男だ」


 白いローブを着て、フードを目深にかぶった男、“災厄の蒼炎”シュバイツがそう言った。ベンジャミンがにやりと笑った。


「随分買ってるんだね。要するに甘ちゃんって事かい?」

「甘くはある。しかし弱くはない。奴に関しては甘さというのは強みだ。ルクレシア貴族の小娘も、失敗作の小僧もすっかりあれに懐いているようだ。あの小悪魔(インプ)も篭絡されている可能性もある」

「人たらしってわけか。ふふ、シュバイツ、君もしばらく一緒に行動して篭絡されたんじゃないだろうね?」

「疑似人格の方はな。だからこそ、奴らの内情もよく分かる」

「……君が裏切るのだけは勘弁だよ?」

「裏切るだと?」


 シュバイツはフードの下から、鋭い目をしてベンジャミンを見た。


「それはこちらの台詞だ。貴様、皇太子の座に愛着でもできたのではないだろうな」


 ベンジャミンは顔を逸らし、何食わぬ表情で空を見上げた。


「……心配するなよ。君の研究と好奇心を阻害するつもりはないさ」


 フランソワが怪訝な顔をして二人を交互に見た。シュバイツは腕を組み直し、不機嫌そうに嘆息した。


「まあ、いい。いずれにせよ、あの連中が障害になるのは間違いない」

「君がそこまで言うのは珍しいね。まあ、“黒髪の戦乙女”にはこちらの計画を何度も阻まれているからねえ……ぼつぼつ決着をつけないといけないかな?」

「……いずれにせよ気を抜くな。動きが派手になれば、教皇庁にも気取られる可能性がある」


 ベンジャミンは嘆息し、椅子の背にもたれた。


「ようやくエルフにけりが付きそうだと思ったら、また変なのが紛れて来るとはね。手ばかりかかって困っちゃうよ」


 それから横目でフランソワの方を見た。


「君には次の仕事を頼もうかな。次はしくじらないでよ? 行ってよし」

「はっ……」


 緊張した面持ちだったフランソワは一礼して立ち去った。ベンジャミンは頬杖を突いて呟いた。


「敵は増えた……となると、こっちももう少し手駒を増やさないといけないかな。やれやれ、その連中とエルフが合流する前になんとかけりを付けないとなあ」

「生半可な実力の者ばかりでは連中は止められんぞ」


 シュバイツが言った。ベンジャミンは立ち上がり、腰の短剣を引き抜いた。


「君が本気を出してくれればいいのに。ま、そういうタイプじゃないのは知ってるけどさ」

「……貴様の道楽にも付き合ってやるだけありがたいと思え。俺は政治ごっこには興味がない」

「はいはい、分かってるよ……」


 ベンジャミンは指先を短剣で傷つけた。横一文字の傷からぷくりと血の玉が膨れ上がった。そこに手の平をかざして小さく何か呟く。

 溢れて来た血はテーブルに滴った。ベンジャミンは何か唱えながら、血の出る指先でテーブルの上に何か描き始めた。魔法陣だ。


 陣が完成に近づくにつれ、赤い光がぼんやりと漂い出した。薄く透き通った死霊がベンジャミンを取り巻くように浮かび上がる。

 やがて魔法陣の中心から黒い渦が巻き上がり、それが空中で人の形を取り始めた。


 ベンジャミンは満足そうに頷き、そのまま詠唱を続けながら指を動かす。

 生ぬるい風が木の葉を巻き上げながら空に吹き上がって、中庭は次第に奇妙な気配に染まって行った。


 腕組みして眺めていたシュバイツがぽつりと呟いた。


「……この戦いで事象流のうねりを高められるか、否か」



  ○



 高い城壁のずっと上まで目をやると、何だかくらくらするような心持だった。思わずよろめきそうになるが、ハッとして足を踏み締める。

 帝都ローデシアの話は、トルネラにやって来る行商人や流浪の民、吟遊詩人たちからよく出た。長い歴史を誇るこの帝国の首都は絢爛かつ重厚で、異国の旅人たちもその大きさと建物の意匠の見事さに感心するという。


 田舎から上京したというのがぴったり当てはまるベルグリフなどは、イスタフやヨベムよりも大きな城壁にすでに威圧されていた。

 遠くから見れば、夜という事もあって、黒く平坦な影にしか見えなかったが、近くで種々の照明に照らされたそれを見れば、過去の戦いの傷跡があちこちに刻まれていて、相応の歴史の深さを感じさせた。

 こんな状況で来たのでなければ、ゆっくりと見て回れたのだがとベルグリフは苦笑し、それから軽く両頬を叩いて気を引き締めた。遊びで来たのではない。


 アンジェリンたちからの連絡を受けたベルグリフたちは、マイトレーヤの転移魔法で帝都の傍まで移動した。マイトレーヤは「実力を見せる時が来た」と張り切った。彼女の転移魔法は影を利用したものらしく、他に使う者はいないと豪語していたが、魔法に疎いベルグリフなどにはよく分からなかった。


 ともあれ転移魔法というのを初めて経験したが、水に沈むような感覚があったと思うや、しばらく目をいくら凝らしても見えない漆黒の闇の中を漂った。そうして不意に浮かび上がるような感じがして、気づくと暗がりに立っていた。


 あまり人の多い所に転移するのは避けたかったようで、転移したのは帝都から少し離れた辺りである。そこから小一時間歩いて帝都へと近づく間、いくつもの馬車とすれ違い、いくつもの馬車に追い抜かれた。

 旅の常識としては夜間移動というのは避けるべきなのだが、帝都からフィンデールの間は軍が駐留している事もあり、治安の良さは折り紙付きのようだった。だから乗合馬車や行商人の馬車まで走っている。時間を問わず人と品物が行き来して、その為に経済が活性化しているのだろう。


 それ一つとっても、献策して実現させた皇太子ベンジャミンの手腕というのは並大抵ではあるまいと思う。

 まだ都の外、もう陽が落ちて暗くなっているにもかかわらず目の前で賑やかに栄えている市の様子といい、為政者としては優秀である事に疑いの余地はない。


「……偽者とは、な」


 だからこそ、敵対するのが残念な気がした。事情を知らない人々からすれば、自分たちの生活の質を向上させてくれた恩人なのだ。成果を目の当たりにすると、ベルグリフの心境は複雑になった。自らの生活に一生懸命な人々からすれば、皇太子が偽者だろうが何だろうが関係ないだろう。


 サティに会ったアンジェリンの話によれば、裏では罪のない女性たちを使った非道な実験に手を染めているという。それは許される事ではないだろう。

 だが、目の前の繁栄もまた事実だ。感情的にベンジャミンを全否定できるほど、もう自分は若くなくなってしまったとベルグリフは嘆息した。


「何を考えてるの」


 すぐ傍に立っていたマイトレーヤが言った。小悪魔(インプ)の角を隠す為だろう、布帽子を目深にかぶり、その上からフードまでかけている。


「いや、何でもないよ。手ごわい相手だな、と思ってね」

「怖気づいた? 逃げるなら今のうち」

「怖いけどね」


 けど逃げるわけにはいかないさ、とベルグリフは笑ってマイトレーヤの頭をくしゃりと撫でた。マイトレーヤは不満そうに口を尖らした。


「子ども扱いしないで」

「ああ、ごめんごめん」


 マイトレーヤはふんと鼻を鳴らしたが、それでもどことなくびくびくした様子でベルグリフのマントを握った。

 転移してから帝都の前まで来るのに小一時間かかった。辺りはすっかり夜の帳が降りている。日中はまだ柔らかかった空気が急に刺すような冷たさを伴って来たように思われた。


 そこにパーシヴァルがやって来た。串焼きの肉と薄焼きのパンを差し出した。


「ほらよ」

「ありがとう」

「珍しいか、こういうのは」

「ああ。夜なのにこんなに賑やかなのはね。オルフェンでもこういう事はあまりなかったな」


 居酒屋周辺は夜も酔漢がうろうろしていた覚えはあるが、市場は日が暮れれば閉まって閑散としていた。ここはまるで眠りを知らないように見える。


「だが、『大地のヘソ』も夜まで賑やかだった気がするな」

「ありゃ大海嘯の時だけだ」


 パーシヴァルは肉をかじって「硬いな」と顔をしかめた。


「君は帝都は?」

「随分久しぶりだ。あの頃はこの辺りは貧乏人の溜まり場って感じだったが……賑やかになったもんだ」

「これも皇太子の手腕なんだろう? 正直、敵対するのが憚られるよ」

「ベル。悪人ってのはな、誰よりも善人面するもんなんだぜ」

「……だからこそ、やりにくい相手だな」

「そうさ。全部ぶった切って済む話じゃねえ。冒険者の手には余る」


 だから冒険者じゃないお前に頼るのさ、とパーシヴァルは笑ってベルグリフの背中を叩いた。ベルグリフは困ったように笑った。


「あまり過信されても困るんだが」

「丸投げするわけじゃねえよ、そう怖気づくな。俺もカシムも、それにアンジェがいるだろうが」

「……そうだな」


 頼もしい娘の姿を思い浮かべ、ベルグリフは微笑んだ。

 パーシヴァルは食べ終えた肉の串を口に咥え、「おい」とマイトレーヤの頭を小突いた。パンをかじっていたマイトレーヤは驚いたように顔を上げた。


「なに」

「変に怯えるんじゃねえよ、却って怪しまれるだろうが」

「だってここはベンジャミンの膝元。警戒し過ぎて無駄って事はない」

「これだけ人が多けりゃ、結界の術式でも識別はできねえよ。魔法専門の癖に、そんな事も分からねえのか」

「だってベンジャミンもシュバイツも用心深い。味方だったわたしにすら手の内は全部明かしてない。油断するのは命取り」

「ふん……シュバイツどもは数は少ないって言ってたが、お前みたいな雇われは別にいるのか? “処刑人”がいるってのは聞いているが」


 マイトレーヤは考えるように視線を泳がした。


「多分、他にもまだいる。シュバイツもベンジャミンもあまり表立って動く感じじゃないし、実働部隊もヘクターだけじゃ足りない筈。でもあまり無暗に人を増やそうともしていないから……腕利きが二、三人くらいが現実的な推測。ただ、ベンジャミンの周囲には見えない用心棒が何人かいる」

「仲間同士で顔を合わせる機会はなかった?」


 ベルグリフが言うと、マイトレーヤは首を横に振った。


「ヘクターにだけは会った。でも話をしたわけじゃない。ベンジャミンの傍に用心棒らしいのがいたのも知ってる。でもどういう人物だかは分からない」

「成る程、お前みたいな裏切り者が出ないか警戒していたわけだな」


 パーシヴァルが意地悪気に言うと、マイトレーヤは頬を膨らまし、白い息を吐いた。


「誰のせいだと思ってるの……」

「ベルのせいだろ。俺だけだったら今頃お前は死んでるぞ」


 パーシヴァルはそう言って、わざとらしく剣の柄に手をやった。マイトレーヤは青ざめてベルグリフの陰にそそくさと隠れた。ベルグリフは苦笑した。


「パーシー、今は味方なんだからそういじめるなって」

「はは、悪かったな」


 冷たい風が吹き下ろして来て髪の毛を揺らした。わずかに開いた首筋の隙間から冷気が入り込み背筋を震わせる。所々に雲がかかってこそいるが、頭上は満天の星だ。晴れている分だけ寒い。

 ベルグリフは辺りを見回し、大剣を背負い直して荷物を持った。


「アンジェたちと合流しなきゃいかんが……居場所が分からんな」

「ったく。あいつら、集合場所も言わずに通信切りやがって」


 通信魔法といい、アンジェリンとサティの突然の邂逅といい、予想外の出来事の連続だったから、具体的な行動についての打ち合わせがあまりできなかったのである。

 帝都まで来たのはいいけれど、アンジェリンたちがどこに泊まっているとか、サラザールの研究室の場所がどこだとか、そういう事がちっとも分からない。おまけに夜半近くで、辺りは賑やかとはいえ夜の闇が広がっており、不案内な土地をうろうろするにはとても向いているようには見えなかった。


「ひとまずリーゼロッテ殿に会えれば……アンジェたちとも合流できると思うんだが」

「そうだな。おいチビ小悪魔(インプ)、エストガル大公の帝都屋敷は王城の近くだったか?」

「そう。ここからだとかなり遠い」

「君の転移魔法で何とかならないかい?」


 マイトレーヤはもじもじして上目遣いでベルグリフを見た。


「……できるけど、あまりやりたくない」

「なんでだ」


 パーシヴァルに睨まれて、マイトレーヤは緊張した様子で続けた。


「こうやって人に紛れているうちは向こうからも分からないかも知れないけど、転移魔法の空間の揺らぎを向こうが見逃すとは思えない。移動は早まるけど、居場所が察知されるかも……わたしがあなたたちに付いた事も」

「しかしフィンデールから帝都までは」

「帝都の外までなら向こうも網は張ってない。でも王城近くはエルフを警戒して結界を張ってる筈。その近くに転移するのは自殺行為」


 成る程、確かにそれくらいの防衛策は張っているだろう。偽物とはいえ相手は帝国の皇太子と、大陸でも指折りの魔法使いなのだ。パーシヴァルが目を細めて顎を撫でた。


「ふむ……まあ確かに転移魔法なんぞ使える奴の方が少ねえからな、対策の術式もそう難しくはねえか……サティの奴もいつの間に習得したんだか」

「はは、あの子なら身に付けてもおかしくない気がするけどな」

「確かに。となると魔法方面に行ったのかあいつは……」


 パーシヴァルは少し不満そうに眉をひそめた。かつての剣のライバルが魔法に行った事が釈然としないらしい。

 ベルグリフは目を伏せた。サティも鍛錬を続けていたのだろう。カシムやパーシヴァルのように、力を付けて何かを成そうとしたのだろうか。例えば、ベルグリフの足を治そうと。

 その結果守るべきものをここで見つけた。そして傷つき苦しみながらも助けを拒んで一人で戦っている。それを想うとひどく心が痛んだ。尺度は違うにせよ、かつて逃げ出した自分は、仲間たちにこんな気持ちを抱かせていたのかと思う。


「……パーシー、ごめんな」


 ベルグリフはパーシヴァルに頭を下げた。パーシヴァルは面食らって目を白黒させた。


「なんだ突然」

「辛いと分かるのに、助けを求めてもらえないのは寂しい。よく分かったよ」

「……それはもう言いっこなしだぜ。それに、今の俺たちは拒まれても助けに行ける。それで十分じゃねえか」

「そうか……そうだな」


 ベルグリフはバツが悪そうに笑って顎鬚を捻じった。


「いや、すまん。どうも感傷的になるよ」

「気持ちは分かるけどな。だが今は前を向く時だぜ」

「ああ……ともかく転移魔法は控えた方がよさそうだね。流石に町馬車もこの時間じゃ動いてないだろうし……今夜は適当に宿を取って、明日朝から動いた方がいいかも知れないな」

「そうだな。暗い街をうろうろしても埒が明かねえだろ。いいな?」


 黙って聞いていたマイトレーヤもこくこくと頷いた。


 三人は連れ立って城壁の内側に入り込んだ。通り沿いは店や食堂が並んでいたが、半分はもう閉まって明かりも消え、静かに夜の眠りに就こうとしている。

 外の市が賑やかだった分、街の中は少し静かなように感じた。それでも、開いた酒場には人が賑やかに出入りして、往来を酔漢が歩き回ったり、巡回の兵士に小突かれていたり、やはり賑やかである事に変わりはない。


 入り口に近い場所には宿屋も多かった。大小の宿がまだ明かりを灯し、多くの建物は酒場も併設されていて、客室があるのであろう二階から上の静けさと、多くは一階にある酒場部分の喧騒とが妙にちぐはぐだった。

 適当な宿に入り、二階に上がって部屋に荷物を置いた。マイトレーヤの強固な主張で、ベッドが三つある大きめの部屋である。マントを壁にかけ、パーシヴァルが肩を回す。


「飲みに行くか」

「そうだな……一杯くらいなら付き合うよ。正直眠くてね」

「はは、俺もそこまで深酒はしねえよ。よし、行くか」

「マイトレーヤ、君はどうする?」


 とベルグリフが言い終わる前に、マイトレーヤはベルグリフの服の裾を掴んでいた。


「わたしを一人っきりにしないで」

「どんだけ怖がってんだ、お前は……」


 呆れたようにパーシヴァルが言った。マイトレーヤは聞こえないふりをしてそっぽを向いた。

 それでまた一階に降りる。一階部分は酒場になっていて、泊り客らしいのもいれば、そうでなさそうなのもいて、ともかく騒がしく酒を飲んでいた。

 リュートを持った旅の吟遊詩人が昔の叙事詩を歌っている。帝国開拓時代、英雄たちが跋扈していた時代の詩だ。子供の頃に聞いた英雄たちの名前がちらほらと耳に残り、消えて行った。


 人の間を縫って行って、空いた席に腰を下ろすと、何だかがっくりと力が抜けたように感じた。もう夜半近い。本来ならばベルグリフはとっくに眠っている時間である。


「……この程度でくたびれてどうする」


 呟いて目元を指で押さえた。まだ何も始まってすらいない。

 酒を注文したパーシヴァルが頬杖を突いた。


「明日っからは気が抜けないだろうからな。今日はしっかり息抜きだ」

「……あまり気を抜かないで欲しい」

「うるさい奴だな、そんなに怖いなら膝に乗せてやろうか?」


 パーシヴァルは少し椅子を引いて膝を手の平で叩いた。マイトレーヤは指先でテーブルをこつこつ叩いた。


「子ども扱いしないで」

「なんなんだよお前は」


 パーシヴァルは手を伸ばしてマイトレーヤの額を小突いた。

 そこにエールの入ったジョッキとつまみが運ばれて来る。縁から溢れる白い泡を見て、ベルグリフは困ったように髭を撫でた。


「エールか……飲み慣れないなあ……」

「なんだ苦手か」

「慣れないだけだと思うけど……いや、いいよ。いただくよ」

「妙なところで子供っぽいな、お前は」


 そう言って、パーシヴァルは一口でジョッキ半分を飲んでしまった。マイトレーヤは泡をすすって変な顔をしている。


「安っぽい味」

「安酒場だからな。こんなもんだ」

「もっとおいしいお酒が飲みたい。あなたSランク冒険者でしょ、もうちょっと良いお酒を頼んだらどうなの」

「うるせーな、高い酒は口に合わねえんだよ」

「……貧乏舌」

「んだと、小悪魔(インプ)の分際で偉そうに」

「ほらほら喧嘩しない」


 エールをちびちび飲みながら、揚げた芋や魚の酢漬けをつまんでいると、もう二杯目を頼んだパーシヴァルが身を乗り出した。


「で、どうなんだ。詳しい話は合流してからでいいが、考えの概要くらいはあるんだろう」


 マイトレーヤもベルグリフを見ている。ベルグリフはテーブルに両手を乗せて、声を少し落とした。


「……もし付け入る隙があるとすれば、それは皇太子が偽者だという事、それに尽きる」

「どうするつもりなの?」

「それはまだ分からない。だから情報が欲しいんだよ」

「成る程な……不自然な点があれば、そこから突き崩して行くってわけか」

「そう上手く行けばいいけどね」


 ベルグリフは苦笑してエールを少し飲み、少し遠い目をした。


「正直、今の所上手く行く方が奇跡だと思う。もし危なくなったら……いや、アンジェたちが危ないという事になったら……俺はサティを見捨てるかも知れない」

「……そうなっても、俺はお前を責めやしねえよ」


 パーシヴァルは笑ってベルグリフの肩を乱暴に叩いた。


「あんまし思い詰めるなよ! お前一人の問題じゃねえんだから」

「はは、ありがとう」

「……変なの」


 マイトレーヤは片付かない顔をしてジョッキを口に運んだ。

 ふと、酒場の入り口が騒がしくなった。目をやると、酔っぱらった者同士が喧嘩を始めたらしい、瓶やジョッキの割れる音がして、悲鳴や怒号、それと同じくらいの笑い声と煽る声がした。


「うるせえな」

「はは、酒場らしいな」


 最初は拳でやり合っていたのが、いよいよ熱が入ったのか、互いに短剣を抜いたらしく、場が嫌に緊張感を帯びて来た。

 これは止めに入った方がいいか、と思わずベルグリフが立ち上がりかけると、短剣を振りかざした男の前にするりと誰かが入り込んで、当て身を食らわした。男は白目を剥いて床にうつ伏せに倒れた。相対していた男の方も、別の誰かが締め上げて床に転がした。鮮やかな手並みに、周囲の野次馬たちが沸く。


 騒ぎを収めたのはヴィエナ教の紋章が入った揃いの服を着た二人連れだった。それだけならばヴィエナ教の聖職者かと思われるのだが、紋章は普通のものと違っており、さらに腰には剣を帯びていた。明らかにただの聖職者ではない。

 パーシヴァルが目を細める。


「聖堂騎士か。珍しいな」

「ヴィエナ教の?」

「ああ。ルクレシア教皇庁直属の連中だ。要するにエリート集団だな。帝都にも教皇庁の支部があった筈だが……そこの連中かな?」


 パーシヴァルは過去の遍歴でルクレシアにも出向いた事があり、そこで聖堂騎士も目にした事があるらしかった。


 聖堂騎士の二人は辺りをじろりと見回し、隅の方の席に腰を下ろした。

 ベルグリフは少し顔をしかめて横目で二人を見た。一人はがっしりした体格の男で、もう一人は獣人らしい、兎の耳が頭の上で揺れている少年だった。

 宿の主人らしいのが大慌てでやって来て、ぺこぺこと頭を下げている。男の方は偉そうにふんぞり返ってあれこれ注文しているが、少年の方は何となく無気力な様子でぼんやりと視線を宙に漂わせていた。


 ベルグリフ本人は主神ヴィエナに対する緩い信仰を持っているが、シャルロッテの話を聞く限り、教皇庁に対してはあまり良い印象を持っていない。

 浄罪機関というものとは何か違うのだろうかとつい目をやっていると、兎耳の少年と目が合って、慌てて目を逸らした。そうして何となく片付かない気持ちでジョッキを空にして息をついた。


 マイトレーヤが身を縮込めて、そっとベルグリフの服の裾を引っ張った。


「ヴィエナ教もまずい……小悪魔(インプ)ってばれたらやられてしまう」

「一々難儀な奴だな。おい、もう一杯くれ。ベル、お前は?」

「俺はもういいかな。マイトレーヤも居づらそうだし、先に部屋に戻ってるよ」

「そうか。まあゆっくり休めよ。本番はこれからだぜ」

「ん。君もあまり飲み過ぎるなよ?」

「ははっ、分かってるよ」


 ベルグリフはパーシヴァルの肩をぽんと叩き、マイトレーヤを連れて部屋に戻った。扉が閉まると、マイトレーヤはホッとした様子で寝床に腰かけた。


「今や帝都は敵だらけ……」

「聖堂騎士か……」


 確かに教皇庁とはシャルロッテという因縁こそあるが、ここでわざわざ敵対する意味はない。関わらないのが利口だろう。

 ベルグリフは上着を脱いで椅子の背にかけた。ひとまずは体を休めなくては。


「やっと休める……」

「ひとつ言っておくけど」

「ん?」


 マイトレーヤは真剣な顔をしてベルグリフを見据えた。


「いくらわたしが魅力的な女子だからって、変な事したら駄目だから。あなたたちに協力するからって、何もかも許したわけじゃないんだからね」

「ん…………? あ、ああ、分かった……が……んん?」


 なんだかよく分からない。何と答えていいものか、ベルグリフは困惑して曖昧に頷いた。

 マイトレーヤはふんと鼻を鳴らし、頭まで布団をひっかぶって丸くなった。



明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

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