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一〇八.胎動するかの如く空間が揺れた


 胎動するかの如く空間が揺れた事に、エルフの女は驚愕を隠せなかった。旧神の力を利用して作り上げた結界に干渉する者が現れるとは。

 だが、いずれそのような時が来る事は分かり切っていた。いつまでも安穏とはしていられないのだ。戦わねばならない時が来るだろう。

 自分がここで子供たちを匿っているうちに、敵は少しずつ力を付けて来たに違いない。フィンデールで正体を見破られた時、ずっと心のどこかにあったその不安がいよいよ持ち上がって来た。


「……転移した時の魔力の痕跡を辿られたかな」


 咄嗟の事だったから、あまり丁寧に魔法を使えたとは思わない。それでも痕跡はあまりに微弱だった筈だ。

 シュバイツには絶対に破れない。“災厄の蒼炎”はローデシア帝国で、いや、大陸の中でも五指に入るほどの魔法使いだが、この結界は彼への徹底した対抗術式で整えてある。そうなると、彼以外の優れた魔法使いが現れたという事だ。

 向こうも手駒を揃えて来たと言う事か、とエルフは嘆息した。


「あんまりぐずぐずしてもいられないか」


 何故相手が途中で干渉を止めたのか、それは分からなかったが、ともかくエルフの女にとっては僥倖であったと言える。空けられかけた穴を塞ぎ、結界を強化し直さなくては。

 庭の真ん中に立ち、両手を広げ、静かに魔力を巡らせる。ほんのわずかに開いた唇の間から、吐息のように微かに漏れる詠唱が魔力の渦を作り、エルフの女を中心に渦巻いたそれが段々と広がった。


「……ひとまずはこれで」


 息をつく。疲労感が背中から這い上がった。息をしない赤ん坊のように、それは重苦しくのしかかる。まだ治り切っていない肩の怪我が痛んだ。

 エルフの女はふらふらとした足取りで家の裏手に回った。

 燐光が蝶のように飛んでいた。それが幾つも留まってちかちかしている所に、小さな墓石があった。墓石の前には木の台が置かれ、その上に水を入れたコップとしおれた花が供えてある。

 墓石の前で地面にどっかり腰を下ろした。


「戦わなきゃ、駄目かな。ねえ」


 語り掛けるように言った。

 遠くから子供のはしゃぐ声が聞こえた。エルフの女は目を閉じて深呼吸した。


 守って来た。この結界の中は安全だった。

 しかし、小さな畑だけでは食べ物は賄えない。姿を変え、記憶も人格も変え、誰にも気づかれずに何度も町に出て食料などを調達した。

 いつか見つかるのではないかという緊張感を別にすれば、穏やかな日々が続いていたように思う。それが仮初の平和だと分かっていても、永遠に続けばいいと思えるほどに。


 だが、状況は変わって来た。敵も黙って手をこまねいているだけではなかったのだ。

 彼女を囲む網の目はより細かくなり、少しずつ範囲を狭めて来ていた。

 向こうは諦めるとは思えない。まして、一度掴んだ尻尾を易々と手放すような間抜けはするまい。逃げ続けるのもいよいよ限界だろうか。

 ふと、ぱたぱたと軽い足音が近づいて来た。


「すごかったね!」

「ゆれたね!」


 双子が駆けて来て、エルフの女に抱き付いた。エルフは笑って二人を抱き返した。


「あはは、ビックリしたね……でも大丈夫だから」

「はじめてだった。どうしてゆれたのかな?」

「お外で何かあったのかな? お外ってどんなところかなあ?」

「行ってみたいね!」

「ね!」


 黒髪の双子は顔を見合わせて無邪気にはしゃいだ。

 エルフの女は無理して微笑んでいたが、いよいよこらえきれなくなって双眸から溢れる涙を手の甲で拭った。嗚咽して、二人をぎゅうと抱きしめた。


「ごめん……ごめんね、こんな所にずっと……」


 双子は驚いてエルフの女の背中をさすったり頭を撫でたりした。


「泣かないで」

「わがまま言わないから」

「ううん、いいの……いいんだよ」


 エルフの女は涙を拭いて、双子の頭をぽんぽんと撫でた。


「さ、お母さんにお供えするお花を摘んでおいで」

「うん」

「しおれちゃったもんね」


 双子は墓の前のしおれた花を手に取ると、また連れ立って駆けて行った。

 エルフはそれを見送ると、ゆっくりと立ち上がった。手の平を見、握って顔を上げる。


「……戦わなきゃ。ここに攻め込まれる前に」


 そうして、静かに何か詠唱を始めた。



  ○



 宿に戻る頃にはまた雨脚が強くなっていた。もう通りに人通りはなく、雨にけぶる中を時折急ぎ足で通り抜けて行く人影があるくらいだ。


 部屋に入ると、パーシヴァルは真っ先に鞄から何か取り出してマイトレーヤの背中にくっつけた。魔法陣の描かれた小さな紙である。

 紙は貼り付けられるやボッと燃えて、描かれた魔法陣だけがマイトレーヤの背中に赤く残った。


「カシムの置いて行ったやつか」

「ああ、金縛りの術式だ。そう強いもんじゃないが、少なくとも転移みたいな魔力消費の多い術は使えねえさ」


 そう言ってパーシヴァルはマイトレーヤの懐から小さな水晶玉を探り出した。


「こいつは預かっとくぜ。物騒なもん持ちやがって」


 そうしてベッドの上にマイトレーヤを放り出した。マイトレーヤは「きゅう」と悲鳴を上げた。


「お、おのれ……この“つづれ織りの黒”マイトレーヤをこんな目に……」

「聞いた事ある二つ名だな。お前みたいなチビだったとは」


 そう言って、パーシヴァルはマイトレーヤの顔にかかったヴェールごと被り物をはぎ取った。

 その下から覗いた顔は見た目相応の幼い少女のものであったが、顔色は青白く、瞳の色が血のように赤い。アルビノという風でもないようだ。そうして群青色の髪の毛の中から二本、小さな角がちょこんと覗いている。パーシヴァルが合点が入ったように笑った。


「ははあ、小悪魔(インプ)か。道理で嫌な気配がすると思ったぜ」

「小悪魔? 魔獣の?」

「ああ、吸血鬼なんかと同じ、高い知能と魔力を持つ奴だ。人間に紛れて暮らしているのもいる。そういううちの一匹だろうよ」


 成る程、とベルグリフは頷いた。小悪魔は子鬼(ゴブリン)と同じく体があまり大きく成長しない。それならば、見た目だけ子供のようなのも納得できる。

 吸血鬼や悪魔族、鬼族など、ある意味亜人種といってもいいこれらの魔獣は、人間に劣らぬ知能を持つだけ、危険度も桁違いとされる。その分存在も希少で、あまりお目にかかる事はない。

 しかし、マイトレーヤのように人間に扮してその社会の中で生きながらえている者もいるようだ。

 それにしても、よもや二つ名を持つ冒険者になっているとは、とベルグリフは少し驚き、感心して呟いた。


小悪魔(インプ)というのは凄いもんだな……」


 しかしマイトレーヤは不満そうに身じろぎした。


「あんな連中と一緒にしないで。わたしは特別に優秀なんだから」

「うるせえ、黙ってろ」

「あう」


 パーシヴァルにぺしっと叩かれたマイトレーヤは、両手で身を抱くようにして絶望的な声を出した。


「うう……為す術なし……このまま乱暴されてしまうのか……可哀想なわたし」

「人聞きの悪い事を言うな、悪人の癖して」


 パーシヴァルが今度はこつんと頭を小突いた。マイトレーヤは身をよじらした。


「悪人じゃない、わたしは雇われてるだけ。雇われた以上仕事はきちんとこなす」

「ふむ……マイトレーヤといったね。君を雇ったのは?」


 ベルグリフが言うと、マイトレーヤはややためらったように口ごもったが、パーシヴァルに小突かれて口を開いた。


「帝国皇太子ベンジャミン」


 やはりそうか、とベルグリフは目を伏せた。


 ここまでの道中、部屋で男三人の話し合いで、カシムが幾度か皇太子ベンジャミンに言及した。

 曰く、エストガル大公の屋敷で、その三男であるフランソワをアンジェリンにけしかけたというのが彼だそうだ。何かしら腹に一物持っている男らしいから、帝都に入る事になるなら頭に入れておいた方がいい、との事だった。


 幸か不幸か、自分は帝都には出向いていないが、このように皇太子の息のかかった者が何か企んでうろついているとなると、帝都に向かったアンジェリンたちが少し心配になった。

 しかし考えてみればアンジェリン始め、帝都行きの一行は実力者揃いだ。それこそベルグリフよりも強い。心配出来る立場でもないか、とベルグリフは苦笑した。


 そんなベルグリフの苦笑いを見て、マイトレーヤが不思議そうに首を傾げた。


「何が可笑しいの……」

「いや、すまない。何でもないよ」


 ベルグリフは表情を引き締めた。


「それで……皇太子はいったい何を企んでいるのかな?」

「知らない。皇太子はただの雇用主。わたしは頼まれた仕事をしているだけ」


 パーシヴァルが怪訝そうに眉をひそめた。


「ただの雇用関係だと? 雇われてどれくらいだ?」

「三年近く……」

「三年だあ? それだけ一緒にいりゃ単なる雇われとは言えねえだろ。テメエ、嘘つくなって言ったよなァ?」


 またパーシヴァルが怖い顔をしてマイトレーヤを小突いた。壁に立てかけられたグラハムの聖剣も唸り声を上げる。マイトレーヤは「ひい」と言った。


「う、嘘じゃない……わたしが優秀だから向こうも手放さないだけ。信用はされてるけど、信頼はされてない。計画の詳細も教えてもらってない」

「優秀ねえ……」

「な、なにその目は……本当なんだから。あのエルフの結界に干渉できるのはわたしくらい。シュバイツにだってできなかった」

「なに、シュバイツ?」


 ベルグリフは目を見開いた。意外なところで大物の名前が出て来たものだ。

 確か、シャルロッテとビャクを擁していた集団にいたのが“災厄の蒼炎”ことシュバイツだったと聞いた。少し前にオルフェンにも現れ、“灰色”のマリアと一戦交えたとも聞いている。


 そのシュバイツが絡んでいる。ベンジャミンもカシムから聞いた限りではあまりいい印象はない。表の顔は優秀で非の打ちどころのない為政者なのだろうが、裏で何を画策しているのか分からない。そのベンジャミンやシュバイツに狙われているらしいエルフは一体何なのだろう。


 マイトレーヤは、余計な事まで口走ったと思ったのか、顔を背けて黙っている。

 パーシヴァルがげらげら笑いながらマイトレーヤをつまみ上げた。


「お前、魔法は優秀なのかも知れんが、腹芸は苦手だな? 俺の戦って来た悪魔族はどいつもこいつも狡猾だったぞ」

「……うるさい」

「ああ?」

「ひいっ」

「おいパーシー、あんまりいじめるな」


 ベルグリフは考えるように顎鬚を捻じり、マイトレーヤをジッと見つめた。


「皇太子とシュバイツは手を組んでいるんだね?」

「……そう」

「どうしてエルフを狙っている? そのエルフは何を持っているんだい?」


 マイトレーヤは何か言いあぐねたようにもじもじしていたが、パーシヴァルに睨まれて不承不承といった態で口を開いた。


「エルフはソロモンの鍵を持ってる……それを狙っているの」

「ソロモンだと? となるとやっぱり魔王絡みか……エルフの名は?」

「そ、そこまでは知らない……本当に知らない!」


 拳を振り上げたパーシヴァルを見て、マイトレーヤは焦ったように叫んだ。ベルグリフがパーシヴァルの肩に手を置いた。


「よせパーシー。いずれにしても、早くそのエルフに接触した方がよさそうだ。シュバイツの事は俺はよく知らないが、かなりの使い手だろう? もたもたしていると先を越されるぞ」

「そうか。そうだな……よし、お前、もう一度あの空間と繋げ」

「い、いいけど……じゃあこの金縛り解いて」

「いいぞ。だが逃げようとしたらぶっ殺す。俺の剣より早く転移できると思うな」

「は、“覇王剣”から逃げられるとは思ってない。だから殺さないで……」


 マイトレーヤはびくびくしながら、すがるような目をしてベルグリフの方を見た。ベルグリフは嘆息してパーシヴァルをなだめた。


「あまり脅かすと魔法にも支障が出るんじゃないか? 勘弁してやりなよ、パーシー」

「……ベルが優しくてよかったな、お前」


 パーシヴァルは鋭い視線を投げかけながらも、転がったままのマイトレーヤを立たせてやった。そうして鞄から術式解除の札を取り出して、金縛りを解いてやる。

 マイトレーヤはホッとしたように表情を緩め、いそいそとベルグリフの方にすり寄った。期せずしてパーシヴァルの怖さとベルグリフの優しさが、それぞれ飴と鞭として良い具合に作用しているらしい。


「……少し離れて。繋げるから」


 マイトレーヤはそっと両手を前に差し出した。すると外の時と同じように、影が持ち上がって空中で渦を巻き始める。窓も扉も空いていないのに風が吹いて髪の毛を揺らした。

 しかし、途中でマイトレーヤは怪訝な顔をして手を降ろした。魔法が中断され、風が止む。


「……繋がらない。対策された? いや、それもあるけど違う……いない」

「どうした、さっさと繋げ」

「繋がらない。というより、エルフが結界の中にいない。わたしの魔法は魔力の痕跡を辿って、それをポータルにして干渉する。魔力の元であるエルフがいないと、繋げられない」

「じゃあそのエルフの近くに移動はできるんじゃないのかい?」


 ベルグリフが言うと、マイトレーヤは首を横に振った。


「あの結界はこの町の近くにあったから行けた。けど、エルフは今この町から離れてるみたい。距離が開くと流石のわたしでも届かない。それに、結界の中のエルフっていう限定的な状況に対して術式を組んだから、使える幅が極端に狭い代わりに強力。組めるのはわたしくらい」

「繋げなけりゃ同じ事だ。ともかくお前が役に立たねえのは分かった」


 パーシヴァルが悔しそうに踵で床を蹴った。


「くそ、一歩遅れたか……どうなってやがるんだ?」

「……仕方がない、こうなったらもう少し情報を整理しよう。マイトレーヤ、色々聞かせてもらうよ」

「……分かった。情報を漏らしちゃった以上、わたしも戻れない。代わりにシュバイツ達から守ってね」


 マイトレーヤは観念したという顔でベッドに腰かけた。



  ○



 長い通路だった。

 帝都には地下道が蟻の巣のように走り、上に建て増された建造物も相まって地面が幾層にもなっているらしかった。人口の多い帝都ではそのような場所はスラム街のような様相を呈し、薄暗く、陰気である。

 サラザールはその迷路のような道の奥にいるらしかった。

 アネッサがやや不安そうに辺りを見回して呟いた。


「凄いな。上の表通りとは全然雰囲気が違う」

「そうでしょう? 危ない場所ですけど、身を隠すにはいい場所でもあるんですよ」


 モーリンがそう言って、さっき買った蒸しパンを頬張った。

 アンジェリンはきょろきょろと周囲を見回し、それから頭上に目をやる。

 木や石で造られた渡り廊下が網の目のように縦横に走り、その隙間から微かに陽の光が射し込んでいる。上へと伸びる壁面には窓が付いていて、かつては誰かが住んでいたと思われたが、今は何の気配もない。


「こんな所で研究……サラザールって何者なの?」

「一応帝国付きの魔法使いらしいよ。何をやってるのかは知らないし、俺たち以外に誰かが訪ねてきたような気配もないんだけど」


 カシムが顎鬚を撫でた。


「なるほどね。帝国が予算出してやって研究室を構えてるわけか。出世したなあ」

「けど、それヤベーんじゃねえか? あの皇太子とつながってるんじゃ?」


 ようやくフードを取ってホッとした様子のマルグリットが言った。トーヤは苦笑した。


「その心配はないと思うよ。なにせ話がちっとも通じない事の方が多いからね。仮に皇太子がサラザールの技術を利用していても、サラザールの方から積極的に協力するって事はまずない」

「まあ、そうかもね。あいつがわざわざオイラたちの事をベンジャミンに告げ口するとも思えないや」


 カシムも納得したように頷いた。

 アンジェリンは腕組みして考えた。


「……でも、それじゃそもそもサティさんの情報を得るのも大変じゃない?」

「そんな感じだな。無駄足にならなきゃいいけど」


 アネッサが少し心配そうに言った。トーヤは困ったように頭を掻いた。


「うん……ま、まあ、そこは実際話してみないと何とも言えないかな。何も得られなかったら申し訳ないけど」

「わたしは時空魔法の大家に会えるだけでも嬉しいけどねー」


 ミリアムがそう言ってくすくす笑った。

 やがて天井も低くなった。さながら坑道のような雰囲気であるが、周囲は灰色の石で囲まれている。壁にはランプが等間隔にかけられていて、歩くのには何の問題もなかった。


 次第に口数も少なくなり、こつこつという足音だけが響く。

 永遠に石の通路が続くかと思われたが、やがて小さな木戸の前で立ち止まった。磨かれた硬い木が黒光りしている。その上に青白く光るインクで、細かな魔術式らしきものがびっしりと描かれていた。扉からその周囲の壁まで広がっている。

 ミリアムが興奮した様子で顔を近づける。


「うわー、うわー、凄い! 第四定理の六番からこんな式に繋げてる! なにこれ、見た事ない……新公式? いや、でもこの繋げ方じゃ熱量が……」

「そこは立体で描かれなきゃ駄目な奴だな。ま、単なる覚書でしょ」

「むむう、確かに殴り書きっぽいし……凄いなあ……」


 魔法使い二人の話はアンジェリンにはチンプンカンプンである。首を傾げながらも、きっと凄いのだろうと一人で頷いた。

 トーヤがどんどんと扉を叩いた。中からは何の物音もしない。怪訝な顔をしたトーヤがドアノブを握ると、するりと回って扉は押し開けられた。


「サラザール?」


 トーヤを先頭にぞろぞろと部屋の中に入る。

 入って、アンジェリンは面食らった。まず、奇妙に鼻を突く臭いが立ち込めていた。何かの薬品らしい。


 顔をしかめながら見回す。

 部屋の中に照明らしいものは何もない。天井から下がるランプも、壁にかかる松明もない。しかし代わりと言うように、壁から床、果ては天井までびっしりと覆った魔術式らしい不可思議な文字列が、扉に使われていたような青白いインクで描かれていて、それが淡い光を放ってあちこちを照らし出していた。


 部屋自体はそれなりに広い。

 しかし魔法使いの工房にありがちな硝子の実験道具や魔導書の本棚などは見当たらず、部屋の奥まった所に石造りらしい柱が等間隔に幾本も立っていて、その先端には精製された水晶球の大きいのが鎮座している。それが文字の青白い光を反射して異様な雰囲気を放っていた。


 部屋の奥には床の一点を中心に、円形の魔法陣が描かれていた。そこだけは周囲の殴り書きのような魔術式とは違って、きちんと計算された整然さがあった。

 その魔法陣の真ん中に誰かが胡坐をかいて座っている。見たところ若い男のようだ。ローデシア帝国民が一般的に着る服の上から、丈の長い白衣を着て、右目に片眼鏡(モノクル)を引っかけていた。


「サラザール!」


 トーヤが少し声を大きくして歩み寄った。どうやらあの男がサラザールらしい。しかしトーヤの呼びかけにも応じず、サラザールは座ったまま何かぶつぶつと呟いていた。


「違う、そうではない。事象が大きく流れているとなれば、その渦には中心がある筈だ。然るに、その中心点を見極めねば此度の事象流の大きさは」

「サラザールってば!」


 トーヤが苛立ったようにサラザールの肩を引っ掴んで揺さぶった。

 サラザールが驚いて跳ねるように立ち上がった。途端に、その姿がぐにゃりと歪み、次の瞬間そこにいたのは背の高い女性であった。しかし身に付けているものは先ほどの男のものとまるで同じである。


「なんだ。ああ、なんだ、トーヤ君ではないか。人の思考の最中に声をかけるとは無粋だな」

「何が無粋だよ、いい加減にしてくれ。頼まれたもの、持って来たよ」


 トーヤはそう言って鞄の中から何種類もの魔結晶を取り出して床に並べ出した。サラザールの目が輝いたと思ったら、また姿が歪み、次に立っていたのは白衣を床に引きずった十歳にも満たぬ男の子である。


「おお、おお、これは有難い! うむ、うむ、これでより詳細な観測道具が作れる。ともなれば術式を計算し直さなければ」

「分かったからちょっと後にしてくれないか。お客さんを連れて来たんだ」


 思考の中に沈み込もうとするサラザールを、トーヤがまた揺さぶった。サラザールは今気づいたというような顔をしてアンジェリンたちの方を見た。


「やや、この部屋にこれだけのお客様がいらっしゃるとは驚きだ!」


 言いながら姿がぐにゃりと変わり、腰の曲がった七十は過ぎた老人が笑いながらよたよたと歩み寄って来た。


「ようこそおいでなすったな! 過去の実験で私という現象が不確定になってしまったゆえにこのようなお見苦しい姿で失礼するよ。お茶の一杯も出せればいいが、生憎とまだそういった術式は開発に至っておらぬでな! いや、しかし待て、トーヤ君の持って来た魔結晶を利用すれば」

「はいはい、そういうのは後にしましょうねー」


 モーリンが涼しい顔をしてサラザールを小突き、アンジェリンたちの方を見た。


「いっつもこんな調子なんですよ。すぐに自分の考えに沈んじゃうんです」

「大体分かった……」


 アンジェリンはやれやれと首を振った。

 これは魔法使いのある種の極みだろうと思った。言っている事は意味不明だし、突然老いるは若返るは、ついには性別まで変わるはで、確かに見ていて面白いけれど、あまり話相手にはなりたくないタイプだ。ミリアムもぽかんとして突っ立ったままだ。


 アンジェリンは半ば諦めたような気分で壁に背中を預けた。ひんやりとした石の壁の感触が、服越しに背中に伝わって来た。

 改めて部屋の中を見回す。部屋中をびっしりと覆い尽くした青白い文字が明滅している。光に色があるせいか、一緒に来た皆の顔も青白く見えた。ずっと眺めているとそれらが勝手に動き出しそうに思われて、何となく気が遠くなるようだった。


 カシムが呆れた顔をしてサラザールの頭をぺしっと叩いた。


「姿の移り変わりが前より激しいじゃないの。おい、しっかりしな、“蛇の目”。オイラを忘れたのかよ」


 アンジェリンたちと同じくらいの年頃の少女に変わったサラザールは、カシムにずいと顔を近づけてまじまじと眺めた。そうしてやにわに嬉しそうに歓声を上げて抱き付いた。


「この魔力! おお“天蓋砕き”、我が友よ!」

「誰が友だよ、そんな仲じゃないでしょ。ボケてないで話を聞けっての」

「嬉しき再会だ! まあ聞いてくれ。私も色々と考えているのだ。君の並列式魔術の新公式には私も大いに刺激を受けたのだよ。それでそれを元にしてだね」

「あーあー、分かった分かった、その話は後でゆっくり聞いてやるから」


 カシムがうんざりしたようにサラザールを押し留めた。中年男の姿になったサラザールは嬉しそうにカシムの肩を抱いている。


「この狭苦しい研究室に押し込められてからというもの、訪ねて来るのはまずいない。いてもロクデナシどもばかりだ。知識の交換をできる相手なぞさっぱりいやしない」

「分かったから後にしろってば」


 話が一向に進まない。じれったくなったアンジェリンは一歩前に出て大きな声を出した。


「あの、わたしたちサティっていうエルフの人を探してるの。何か知らない? ですか?」


 サラザールはぴたりと動きを止めたと思うや、滑るような動きでアンジェリンに近づいて来て、覗き込むようにしてずいと顔を近づけて来た。これにはアンジェリンも驚いた。


「な……」

「ふむ、ふむ、ふむ! そうか! 成る程!」


 片眼鏡の向こうの目は、確かに蛇のように縦長の瞳が見て取れた。十二歳ほどの少女の容姿のサラザールは、一人で納得したように頷いて機嫌よくアンジェリンから離れた。


「この巨大な事象流のそのさなか、私もその一因となれるわけか! これは面白い!」

「……なに? 何の話?」

「なんだ知らないのか! しかし流れの中心にいる者は往々にしてそれを感じぬものだ。流れに乗っているのか、それとも君の歩みが流れとなるのか、はてさて?」


 興奮気味のサラザールの姿がぐにゃりと歪んで、背の高いハンサムな男になった。

 アンジェリンはぽかんとしてカシムの方を見た。カシムは変な顔をして頭をぼりぼり掻いている。


「事象流だって? 与太話だろ? 第七次定点魔導観測でも事象に於ける魔力の流れは観測できなかったって結論が出てるじゃない」

「魔力ではないのだよ“天蓋砕き”! 君ほどの魔法使いがそのように思考停止してもらっては困る! 魔力は人の意思によって力の方向性を定める! では意思とは? それらを包括するより大きなものはないのか? 集団意識の不可思議さを君は知らないのか! 熱狂と統一意識は、ある一つの流れにのって運ばれて行く事象流なのだ! その方向性が一つの方を向き、或いは別々の方から来たものがぶつかり合う時、混沌が生まれ、そこから巨大なエネルギーが発生するのだよ!」

「うるせー、人に喋ってんならもっとゆっくり言え馬鹿」


 カシムはうんざりしたように頭を垂れた。熱弁を振るうサラザールを見て、ミリアムが腕組みして唸った。


「『英雄は戦乱にこそ生まれる』ってのは誰の言葉だったっけ……」

「何言ってるのか分かるのか、ミリィ?」とアネッサが言った。

「半分くらい。いや、時空魔法の人たちで、人の行動や意識はある巨大な一つの流れに沿っているって主張する派閥があるんだけどー……あー、でもそれはいくつもの支流があって、それらが複雑に混じり合って大きな流れになって、ぶつかり合って渦を巻く時に、凄いエネルギーが発生する……だから、大きな戦争の時なんかには、今までの常識では説明のつかない不思議な現象が発生するものだって」

「ずぇんずぇん分かんぬぇ」


 マルグリットはとうに理解するのを放棄したようである。部屋を歩き回って、柱の先の水晶玉をまじまじと眺めている。モーリンは壁際に腰を下ろして、何か食べ物の包みを広げていた。こちらも自分の世界に入りつつある。


 確かにこれでは話にならない。骨が折れそうだ。

 こうなったらカシムには悪いけれど、彼を相手にサラザールに心行くまで喋ってもらって、落ち着いたらちゃんと本題に入ろう。アンジェリンはそう考え、そっとトーヤに耳打ちした。


「サラザールさんが落ち着くまでちょっと散歩して来る……ここ、臭くて息苦しい」

「え、そう? でも平気? 迷わないかな……」

「なら一緒に行く?」


 トーヤはちらとみんなの様子を窺い、頷いた。


「そうだね、どのみちカシムさんじゃないと話に付いて行けなさそうだし」


 そういうわけで二人は連れ立って部屋の外に出た。扉が閉まると、嫌にしんかんとしているように思われた。

 アンジェリンはホッとしたような心持で大きく深呼吸した。少しカビっぽく冷たい空気だけれども、部屋に充満していた奇妙な薬品臭さに比べれば随分マシだ。


 トーヤの方も少し肩の力を抜いたようで、髪の毛を束ね直しながら壁にもたれている。


「なんか、ごめんね。却って混乱させちゃったかな……」

「ううん、いい。それに、何か知ってそうな感じはするし、無駄足ではないと思う……」


 何故サラザールが自分を興味深げに見たのか、それが少し気にかかった。だがそれを聞くにはあの膨大な理論を喋りつくしてからでなければ話がつながるまい。

 トーヤは廊下の向こうとこっちを見て、それからアンジェリンに言った。


「陽の当たる方まで出てみようか」

「ん」


 こつこつと足音を立てながら連れ立って歩く。少し歩いてふと振り返ると、向こうで壁の青白い魔術式が小さく明滅しているのが見て取れた。


「お父さんたち、どうしてるかな……」

「フィンデールも広いからね。けど、ベルグリフさんとパーシヴァルさんだったら何とかなりそうって思えるから凄いよなあ」

「でしょ? ふふ、お父さんたちは凄いのだ。戦っても強いし、頭もいいし、わたしもああいう冒険者になるんだ」

「アンジェリンさんはもうなってると思うけどね」

「そんな事ない。お父さんに比べればまだまだ……」


 と、言いかけたところでアンジェリンは奇妙な気配に目線を鋭くした。腰の剣の柄に手をやる。トーヤも異変を感じたようで、目を細めて身構える。


 不意に空間が揺れた。

 アンジェリンたちの少し先がまるで水面のように波立ったと思ったら、白い人影が飛び出して来た。


「ッ――! 座標がずれた……シュバイツめ……ッ」


 人影は地面に膝を突いて、苦しそうに荒い息を整えた。


「え、あ……あなた、は……」


 アンジェリンは驚きに目を見開き、口をぱくぱくさせた。


 銀髪を振り乱し、ベージュ色のローブを血に染めたエルフの女が、そこにいた。

 エメラルド色の瞳が、アンジェリンの姿を映した。


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