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一〇六.銀髪を束ねた上から布を巻いた


 銀髪を束ねた上から布を巻いたエルフの少女が、ムツカシイ顔をして鍋の中身を睨んでいた。

 脇に置かれた調味料の小箱に目をやり、小瓶の一つに手を伸ばしてはひっこめ、別の小瓶に手を伸ばして、また手に取らずに引っ込める。手に取ったと思ったら中身を見、匂いを嗅いで、首を傾げて元に戻す。何を使うか迷っている様子である。

 少し後ろに立つ赤髪の少年は、ややはらはらした面持ちでそれを見守っていたが、やがて声をかけた。


「……大丈夫かい?」

「大丈夫。あなたは見ててくれればいいから」


 エルフの少女は眉間に皺を寄せたまま少年の方を見、それからまた鍋を見た。小瓶に手を伸ばす。首を傾げてやめる。

 魔法薬でも作っているのかと思われる状況だが、料理をしているのである。ごった煮と揶揄される味気ない食事をからかわれたエルフの少女が、赤髪の少年に教えを乞うたのだ。しかしながら中々埒が明かない。ほんの少し教えると、もう少女は少年そっちのけで鍋に向き合って唸っている。


「……ねえ、別にそんなに迷わなくても」

「駄目なの。うんとおいしいのを作って、あの二人をぎゃふんって言わせてやりたいの」

「それなら俺がちゃんと教えるから……」

「違うの。それじゃあなたの料理じゃない。わたしのオリジナルで勝負をしなくちゃ」

「そうかなあ?」


 少年にはイマイチ分からなかったが、少女の顔は真剣そのものである。諦めてまた黙って見守ってやる事にした。


「塩はいい筈……香辛料……香草? 辛いのじゃなくて……うーん……」


 ぷつぷつ呟いている。鍋の下の火は燃えている。中身はふつふつ煮立っている。赤髪の少年はじれったい気分で、しかし口出しせずに黙っていた。


「よし……これ。決めた!」


 いよいよ小瓶を手に取って中身をぱらぱらと振る。それで勢いが出たのか、少女は先ほどまでのまごまごした様子とは裏腹に、迷いのない手つきで幾つかの小瓶を手に取って味付けした。


「これでよし!」


 少女は満足げに笑うと、鍋の中身を木杓でかき混ぜ、すくい上げて口に運んだ。


「……どう?」


 少女が黙っているので、少年はおずおずと声をかけた。エルフの少女は振り向いた。渋い顔をしている。


「どうしたの?」

「……焦げちゃった」



  ○



 街道の脇に大きな広い演習場があって、そこで帝国兵らしいのが二組に分かれて模擬戦を行っていた。

 大小の天幕が張られ、軍馬がいななき、鎧や武器の触れ合う音が聞こえる。これは盗賊も近づかないだろう、とアンジェリンは思った。


 乗合馬車は相変わらず良い乗り心地とは言えないが、道が整備されている分、北部よりも楽なように感じる。イスタフ方面からフィンデールまでの道も整備されてはいたが、この道は流石に帝都への道である、王侯貴族も行き来するだろうから、その手入れのされようは驚嘆に値した。

 マルグリットが目を輝かせて馬車から顔を出している。


「すげえな。道がめちゃくちゃ綺麗だ」

「でしょ。俺たちも最初帝都に来た時は驚いたからね」


 トーヤが言った。アネッサが頷く。


「これなら馬車もかなり速度が出せそうだな」

「ええ。フィンデールから帝都は距離が近いのもありますが、この道の綺麗さが移動のしやすさを助長しているんですよ。それで行き来が早いんです」


 イシュメールが言った。カシムが山高帽子をかぶり直す。


「オイラが帝都にいた時よりも綺麗になってるね。最近だろ、これ?」

「今のベンジャミン皇太子の提案だそうですよ。あの演習場の設立も皇太子の発案らしいですね。それでこの辺りからは盗賊の姿も消えましたし、魔獣も少ないんです。それで以前よりもさらに交易が活発になって、帝国の経済状況も上向きのようですね」

「ベンジャミンか」


 カシムは眉をひそめて髭を捻じった。アンジェリンは目をしばたかせた。


「たしか、大公家で会った人だよね……?」

「ああ……ちょいと気を付けた方がいい相手だね」

「えー、なんで? だって凄く優秀な人じゃない」


 ミリアムが不思議そうに首を傾げた。街道整備に演習場による治安維持など、確かに目に見えて成果は大きい。カシムはちらと周囲を見回して声を抑えた。


「大公家でフランソワをアンジェにけしかけたのはそいつなんだよ。傍目には優秀かもしんないけど、腹の底じゃ何考えてるか分かったもんじゃないぜ」

「フランソワ……あ、リゼのお兄さんの」


 昨日も話が出た。大公の妾腹で、大公家そのものに対して何か含むところを持つ男だった。自暴自棄のカシムを擁し、アンジェリンと戦わせようとした張本人である。結局冬の河に放り込まれる羽目になったのだが無事であったらしい。

 そのフランソワも今はベンジャミン皇太子の親衛隊であるようだ。


 何か嫌な予感がする。アンジェリンは眉をひそめた。リーゼロッテに会いに行けば、フランソワやベンジャミンと出くわす可能性も高い。少し迷うところだ。

 カシムが嘆息して馬車の壁にもたれた。


「ま、そういう相手だと警戒してりゃ大丈夫だよ。気を付けろよー、顔は絶世の美男子だから、お前ら知らなきゃころりと惚れちまうぜ」

「えー、美男子なの? それはちょっと見てみたいなー。ねー、マリー」

「なんでおれに言うんだよ」

「皇太子さん、一度見た事ありますよね、トーヤ。確かに美男子でしたね、もぐもぐ。そんな裏のあるような人には見えませんでしたけどねえ」


 モーリンはジャムを塗ったパンをかじりながら言った。トーヤがかくんと首を垂れた。


「そういうのどこで手に入れて来るの? まあ、確かに皇太子は美形だったね。随分気さくに笑う人だなって思ったよ。人は見かけによらないって事なのかなあ……」


 そういえばそうだった、とアンジェリンは思い出した。嫌に馴れ馴れしいのはともかく、朴念仁のアンジェリンですら、まあ素敵ではある、と思うくらいではあった。しかし、何となく嫌なものを感じて心を許せなかったのだが、カシムの話を聞いて合点が入った。裏のある男のようである。


 別に帝都に入ったからといって必ずベンジャミンに会うわけではない。そもそもSランクとはいえ一介の冒険者が皇太子に会う事自体が稀なのである。

 だが、向こうから近づいて来ればその限りではない。しかも今回はリーゼロッテという大公の娘の伝手がある。そこからベンジャミンに何かしら伝わってもおかしくはあるまい。


 ただ、ベンジャミンの腹の底が読めない。

 勲章を貰う若い冒険者という珍しい存在であるとはいえ、わざわざ自分に拘泥する理由がちっとも思い当たらない。若くて美人、というのもピンと来ないけれど、もしそうだったとしても美形の皇太子であればそんな女はより取り見取りだろう。そうなると、強者同士を戦わせて面白がる変態か……。


 アンジェリンはしばらく難しい顔をして考えていたが、諦めて息をついた。よく知らない他人の心の内を想像することほど難しい事はない。

 考えるだけ無駄な気がした。いざ何か起きたらなら、その時はその時だ。油断せずにいれば冷静に対処できるくらいには自分は強い。カシムクラスの実力者をぶつけられては苦戦するかも知れないが、負けはしない。そう思った。


 こつん、と頭を小突かれた。見るとマルグリットが錆浅葱色の瞳でアンジェリンを見ていた。


「難しい顔しやがって、足りない頭で何考えてんだよ」

「足りないとはなんだ……マリーほどお馬鹿じゃないぞ」

「なんだとコンニャロー」

「なに喧嘩してるんだよ、やめろって」


 アネッサが呆れたように言った。


 斜に射していた陽光がさらに傾き、次第に色に厚みが増して来た。街道周辺の平原に大小の畑が広がり始めたと思うや、向かう先に大きな都の影が見え出した。

 畑の近く、とはいっても街道からは少し離れているが、その辺りに小さな集落のようなものが幾つも連なっていた。木造り、石造り、さらには天幕のようなものが並んでいる。農民たちの居住地だろうか。


 アンジェリンは馬車から身を乗り出して前を見た。

 帝都は背後に山を抱え、その山の斜面にまで建物は広がっているらしい。平原と都を遮るようにして城壁が横に伸び、見張り塔らしいものが幾つもそびえている。


 遠目にはそれほど大きくないと感じたが、見え始めてから近づくまでに思った以上に時間がかかるなと思うや、気づくと恐ろしいほどに高い城壁が目の前にあった。人や馬車などの行き来が多い。

 城壁に沿うようにして広く深い濠が掘られ、緑色の水が揺れている。

 その畔に天幕がいくつも並び、荷車が行き交い、人が声を張り上げ、大道芸人が音楽を奏で、馬がいなないて鶏が駆け出して、無暗に騒々しい。どうやら自由市のようなものが開かれているようで、たいへんな賑わいである。


 乗合馬車の停留所も城壁の外にあった。外で降りて、徒歩で都に入るらしい。城壁には幾つか入り口があるようで、目的の場所へ向かうには降りてからさらに移動しなくてはいけないようだ。

 馬車から降りたが、まだ都に入る前にもかかわらず、そこいらは人でごった返し、天幕や露店に様々な商品が並べられて、威勢のいい行商人たちが鎬を削っている。

 アネッサが呆気に取られた様子で呟いた。


「凄いな……町の外じゃないのか、ここ」

「驚いた? 行商人の数が多いから、こうやって町の外で市が開かれてるんだ」


 トーヤがそう言って向こうを指さした。


「かなり向こうまで続いてるんだ。時間があったら見てみるといいよ。大陸各地から人が集まってるから、面白い店がたくさんある」

「そうなんだ……見きれるかな」


 これに加えて都の中にも普通に店も市もあるだろう。都に入る前から圧倒されるようだ、とアンジェリンは身震いした。オルフェン、ヨベム、イスタフ、フィンデールと大きな町はいくつも知っているけれど、やはりここはそれらと違う何かがあるように感じた。

 マルグリットがわくわくした様子で辺りを見回している。


「すっげーな! この城壁、見晴らしいいだろうなー。上れるのかな? どうなんだ、イシュメール?」

「さあ、城壁は軍の管轄ですから上れるかどうか……」とイシュメールが肩をすくめた。

「なんだ詰まんねーの」


 マルグリットは足元の小石を蹴った。カシムがあくびをして帽子をかぶり直した。


「さーて、どうすっかね。おチビのとこに行ってみるか、腹ごしらえするか」

「そういえばお腹空いたねー。リゼのお屋敷までも結構距離ありそうだし、先にご飯食べるー?」

「それもありだな……もう夜も近いし、今夜の宿は他に取って明日行ってもいいかも」


 とアネッサが言った。アンジェリンは頷きかけたが、ふと思い出したようにトーヤに声をかけた。


「あ、でもサラザールさんにはいつ会える?」

「会おうと思えばいつでも会えるよ。ただ、山の裾に研究室があるから、ここからまた小一時間移動しなきゃだけど、どっちみち素材を渡しに行かなきゃいけないし……あー、そうだ。俺たちギルドにも行かなきゃいけなかったな」

「サラザールもギルドもどうでもいいですよう、ご飯食べましょ、ご飯。おいしいファバダが食べたいです」

「モーリン……君馬車でも色々食べてなかった?」

「ファバダって?」

「乾燥白豆の煮込みです。切った腸詰と塩漬け肉が入ってて、トロトロに煮込まれておいしいんですよ。それに堅パンを浸して……そうだ、野菜たっぷりのモルネーもいいですねえ……あ、モルネーっていうのは野菜とか肉を乳とチーズのソースで煮こんで、深皿に入れて焼くんです。わたしは魚の入ってるのが好きなんですけれどね。あー、でもローデシア豚の炙り肉も捨てがたいなあ……皮目が焦げるくらいぱりぱりで、でも脂が溶けるようで」


 モーリンは言いながら料理を想像しているのか、恍惚とした表情をしている。

 何だか腹が鳴るようである。アンジェリンはへその辺りを手の平で撫でた。トーヤはやれやれといった顔をして額に手を当てた。


「まったくもう……どうする? もし食事に行くなら馴染みの店に案内するけど」

「モーリンさんの話で余計にお腹減っちゃったよー、わたし行きたいなー。ねえ、アーネ?」

「んー、確かに……どうする?」

「おれ行きたい! どれも食べた事ねえものばっかだし」

「うん……行こっか。折角帝都に来たんだし……いい、カシムさん?」

「いいぜ。焦っても仕方ないし、まずは腹ごしらえだ」

「決まりだね。じゃあとりあえず……」


 と、トーヤが先導しかけたところで、イシュメールが手を上げた。


「あの、私は一旦工房に戻ろうと思うのですが」

「あ……そっか。イシュメールさんも帝都に家があるんだっけ……」

「ええ。素材を持ったままというのもあれですし、一度荷物を整理したいなと」

「えー、じゃあここでお別れー? ご飯一緒に食べましょうよー」


 ミリアムが残念そうに言った。イシュメールは苦笑した。


「そうしたいのですが、生憎と工房が二番街にあるもので少し遠いのですよ……」

「むー、そっか……」

「皆さんは大公家の帝都屋敷にしばらく滞在予定でしょう? 私も荷物が整理できたらお邪魔しますよ。何かお手伝いできるかも知れませんし」

「嬉しい……ありがと、イシュメールさん」

「いえいえ、こちらこそご一緒できるのはありがたいですよ……それでは」


 イシュメールは荷物を背負い直すと人ごみの中に消えて行った。一行はそれを見送ると、今度こそトーヤの先導で都の中に歩を進めた。



  ○



 兵の詰め所を出て、ベルグリフは難しい顔をして腕を組んだ。パーシヴァルは髪の毛を指先でくるくると弄った。


「手がかりらしい手がかりはなさそうだな。出くわしたのは駐屯の兵士じゃなくて、帝都から出向いて来た連中らしいし、騒ぎ以降エルフの姿はないと来た」

「そうだな……騒ぎのあった辺りの人たちに聞き込みをしてみようか」

「この分じゃギルドにも大した情報はなさそうだし、それがよさそうだな。魚屋だったか、確か」

「うん」


 聞くところによると、魚屋で買い物をしていた女を帝都兵がいきなり斬り殺した。すると死んだ女が起き上り、エルフに姿を変えたという。

 奇妙な魔法だ。あまり耳馴染みがない。禁呪や外法である可能性もある。

 カシムならば知っているかも知れないが、生憎と別行動だ。しかし魔法の詳細はこの際関係がない。あまり雑多に情報を集め過ぎても混乱する。


 ベルグリフは町の地図を広げて場所を確認した。兵の詰め所に行った時に大体の場所は教えてもらってある。ここからは少し離れた場所のようだ。

 パーシヴァルが小さく咳き込んで匂い袋を取り出した。


「……少し距離があるな」

「ああ。だが歩いて小一時間ってところだろう」


 ベルグリフは地図を畳み、懐にしまって辺りを見回した。アンジェリンたちはもう帝都に着いただろうかと思う。

 パーシヴァルが懐かし気に目を細める。


「思い出すな。最初は二人であちこち歩き回った」

「そうだったな。その最中にカシムに会って」

「あの頃のオルフェンもこんな風に賑やかだった気がする」

「はは、今もそうだよ」


 露店でケバブを買い、軽く腹を満たしてから件の魚屋に向かった。下町の一角で、賑やかの通りに面した店らしい。人の往来が多く、よそ見をして歩くと人にぶつかりそうだ。一度通りの流れから逃げ出して、邪魔にならない所で改めて地図を開く。


「この辺の筈なんだが」

「店が多いな。土地勘がないと見分けが付かねえ」


 しばらくその辺をうろうろしたが、ようやく見つけ出した。壊れたのを直したらしい台に魚が並べられている。客の相手を終えた女将に声をかけた。


「あの、すみません」

「はいよ、いらっしゃい!」

「エルフについてお尋ねしたいんですが……」


 ベルグリフがそう言うと、女将は露骨に嫌な顔をした。うんざりしているように見える。


「またかい……うちは魚屋だよ、講談小屋じゃないんだ。買わないならどっか行っとくれ」


 どうやら例の騒動を聞きつけた野次馬が何度も冷やかしに現れているらしい。買いもしないのに話ばかりせがまれても良い顔はしないだろう。

 パーシヴァルが台の上の大きな魚を掴んで持ち上げた。


「これをくれ」

「え? あ、ああ、買うのかい?」

「買うからエルフの事を教えてくれ。足りなきゃもっと買うぜ」

「お、おい、パーシー」

「宿で料理させりゃいいだろ。こっちの切り身ももらおうか」


 上客だ、と分かった途端に女将の態度が軟化した。しかしまだどこか警戒したような顔をして、魚を紙袋に包む。


「そうさね……あたしも詳しい事は知らないけど、エルフが化けてた娘は前々からよくうちに来てたよ。いつもそれなりの量を買ってくれてね、町外れで若草亭って食堂をやってるって言ってたよ」

「若草亭……それはどこに?」

「帝都の兵士様が言うには、そんな店ないんだってさ。まったく、妙な話だよ。何だか気味が悪くてね、正直もう関わりたくないのさ。忘れちまいたいよ」


 そう言って女将は身震いした。兵士が娘を斬った光景を思い出したのだろう。


 女将はそれ以上の事は知らないようだった。これでは手詰まりだ。

 ベルグリフが顎鬚を捻じっていると、背中の大剣が小さく唸った。はてと思って周囲を見回すと、何やら小さな人影が店の軒先に立っていた。子供くらいの背丈で、顔にはヴェールを垂らしているからよく見えないが、女の子らしい。しかし何かを確かめるように、じっと地面を眺めているのが分かった。

 妙なものを感じてその人影を見ていると、不意に少女がこちらを見た。

 目が合った。

 途端に何だか背筋に冷たいものが走るような気がした。大剣の唸りが少し大きくなる。


「むう……」


 ベルグリフは眉をひそめた。

 女の子がヴェールの向こうで笑った気がした、と思うや、突然背後から刺すような威圧感が辺りに漂った。女の子はびくりと身をすくめて、焦ったように早足で立ち去った。

 ベルグリフが首を傾げて後ろを見ると、パーシヴァルが怖い顔をして少女の立ち去った方を睨んでいた。


「パーシー?」

「……鬱陶しい奴だ。気に食わねえ」


 パーシヴァルは舌を打って匂い袋を取り出した。


「いや、確かに変だとは思ったけど、相手は子供だろう?」

「見た目だけだ。ったく、相変わらず帝都周辺ってのは妙な奴らがうろついてやがる」


 ベルグリフは面食らった。見た目だけ、という事は中身は違うという事だ。何らかの擬態だろうか。それとも、マリアのように魔法で肉体年齢を操作しているのだろうか。

 グラハムの剣が反応したのも気になる。何かよからぬ事が起こるのではないか、とベルグリフは訝しんだ。

 パーシヴァルは匂い袋をしまい、買った魚の袋を持った。


「いずれにせよ、例のエルフには面倒事が付きまとってそうだな。気ぃ抜くなよ、ベル」

「ああ……」


 ベルグリフは目を細めて辺りを見回した。相変わらずの賑わいだ。しかしその裏側で何か妙なものがうごめいている。

 知ってか知らずか、自分たちもその渦中に足を踏み出した気配を感じ、ベルグリフは口を結び、腰の剣の柄を握った。



  ○



 もう日は暮れかけて、辺りにはすっかり薄暗闇が降りている。

 街灯に火が灯り、道行く人たちの影が濃くなった。


 心地よい旅だった、と往来を下りながらイシュメールは思った。

 偶然の出会いが膨らみ、“天蓋砕き”という名のある魔法使いとも知り合う事ができた。ともすれば殺伐としがちな冒険者との旅路にあって、珍しく和気藹々とした一行に混じる事ができ、単なる素材集めの旅とは違った安らぎを得たように思う。


「……何とか力になれれば」


 呟いた。彼自身、ベルグリフたちに好感を抱いているのは確かであったし、事情を知るほどに協力してやりたいという気持ちが募った。自分の研究は後回しにしてもいいと思ったくらいだ。

 だが、ひとまずは自分の身の周りを一度整えねばならない。かなりの間、家は留守にしている。一度掃除をしなくてはならないだろう。すべてを投げ出すほど、もう自分は若くはない。


 工房は通りから裏に入って、くねくねした路地を抜けた先にあった。

 賑やかな表通りと違って、静かで、人通りも殆どない。石畳をこつこつと踏んで行く音が、建物に反響して上へ抜けて行く。


 見慣れた木の扉が見えて来た。窓には木の板が打ち付けてある。魔法の実験には部屋が暗い方がいいのだ。しかし、いずれ彼らを工房に招いた時には陰気だと思われるだろうか。

 イシュメールは小さく笑いながら、鍵を回して扉を押し開けた。


「……? なんだ、これは」


 何もなかった。

 埃の舞う部屋の中には、記憶の中にある実験道具や魔導書の棚、魔術式や考察を書き連ねた書類の山積みになったテーブルなど、ある筈のもの一切がなかった。ただ、冷たい石の床と壁が、手に持ったランプの明かりに照らされているばかりだ。


 おかしい。家を間違えたか? いや、そんな筈はない。自分の家だ、間違えるわけがない。記憶が確かならば……。


 いや待て。記憶?


 自分は何の実験をしていたのだ? 棚に並んでいた魔導書は?

 ここを出る前にはどんな考察をしていた? 脳裏に浮かぶフラスコや、それらをつなぐ硝子の管は何の為のものであったか?

 いや、そもそも自分はどうしてここに暮らしていた?

 それ以前は? どこで魔法を修練した? 子供の頃は?


 頭の中に映像はある。しかし、それらが自分にとって具体的なものとして結び合う事がないように思われた。まるで本や講談の中身のように、実体のない代物がただ情報として羅列されている、そんな気がした。


 イシュメールは膝を突いて頭を抱えた。割れるように痛い。


「馬鹿な……馬鹿な……」


 うわ言のように呟いた。自分は一体何なのだ?

 ばたん、と音をさして背後の扉が閉まった。不意に妙な気配を感じてイシュメールは顔を上げた。


「誰だ……ッ!」


 暗がりから人影が現れた。背が高く、黒い服をまとった男だ。顔の右側に刀傷があった。ゾッとするものを感じ、イシュメールはふらつく足で立ち上がった。


「く……何者だ……」

「役目は終わった」


 黒い服の男はすらりと腰の剣を抜いた。先が欠けた長い刀身のカットラスである。イシュメールは荒い息をしながらも必死になって手を前に向ける。傍らに淡い光を放つ魔導書が浮かび上がった。ばらばらとひとりでにページがめくれ、魔力が渦を巻く。


「近づくな……! 来るな!」

「滑稽だ。貴様は最初から存在しない」

「馬鹿な……ッ! 私は……私は」


 音もなく近づいて来た男は、まったく自然な動作で剣を突き出した。欠けているにもかかわらず、剣は易々とイシュメールの胸を刺し貫いた。抵抗する暇もなかった。

 喉を生温かいものがせり上がって来た、と思う間もなく、イシュメールの口から血が溢れる。


「か、はっ……」


 どさり、イシュメールは仰向けに倒れた。ランプが落ちて割れ、蝋燭が消える。魔導書は溶けるように姿を消した。分厚い眼鏡が地面に転がり、それを浸すように血が広がって行く。目から生気が失われた。冷たい死の気配が部屋に充満した。


 男は剣を鞘に収め、死んだイシュメールを見下ろしていた。

 すると、イシュメールの死体がぴくりと動き、操り人形が糸で持ち上げられるようにして立ち上がった。輪郭が霧のように曖昧になり、溶けるように吹き払われたと思うや、その向こうから白いローブを着、フードを目深にかぶった男が現れた。


「……ご苦労、ヘクター」

「下らん仕事を私にやらせるな、シュバイツ」


 シュバイツと呼ばれた白い服の男はふんと鼻を鳴らした。


「それなりの疑似人格だ、お前でなければ抵抗されるだろう」

「少しは抵抗してくれた方が張り合いがあるというものだ」

「こちらはどういった状況だ」

「エルフは一度取り逃がした。しかし網は張ってある。フィンデールにはマイトレーヤが行った」

「そうか、よかろう。だが気を付けろと言え。フィンデールには“覇王剣”と“赤鬼”がいる。あまり明け透けな行動を取れば見抜かれるぞ」


 シュバイツが言うと、“処刑人”ヘクターはにやりと笑った。


「“覇王剣”か。くく、とっくに死んだものだと思っていたが……私がフィンデールに行きたかったな、それは」

「貴様には別に獲物をくれてやる。ぬかるな」

「誰に物を言っている。しかし“赤鬼”とは何者だ? 聞いた事のない名だが」

「例の“黒髪の戦乙女”の父親だ。腕はよくて中の上、しかし“パラディン”の剣を持っている上に、洞察力は並ではない」

「ほう……“パラディン”の剣か」


 ヘクターは面白そうな顔をして顎をさすった。シュバイツは確かめるように手を握って、開いた。自分に言い聞かせるように呟いた。


「事象の流れは集約しつつある。この分ならばより強い渦になる……オルフェンで失敗した時はどうなる事かと思ったが……あれが始点だったわけか」

「……なんだと?」


 怪訝な顔のヘクターを無視して、シュバイツは胸に手を当てた。


「行くぞ」


 二人の姿が陽炎のように揺らめいたと思ったら、部屋には舞い飛ぶ細かな埃だけを残し、人の気配がなくなった。



コミカライズの六話が公開されています。

詳細は活動報告へどうぞ。

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