一〇三.暗く、長い廊下の先に
暗く、長い廊下の先に鉄の扉があった。重苦しく、厳めしい装飾が施されており、一見すると牢獄の入り口にも見える。
しかし、その戸の向こうには庭園が広がっていた。
城の小さな秘密の中庭、といった風情である。背の低い植木や灌木の茂みが整然と並び、綺麗に手入れされた色とりどりの花が咲いている。
しかし壁が迫っているせいか、頭上には四角く切り取られた小さな空が見えるばかりで、妙に狭苦しい印象である。
その奥に小さな古びた椅子が置かれて、男が一人腰かけていた。輝くような金髪と端整な顔立ち、皇太子のベンジャミンである。
ベンジャミンは四角く切り取られた空を見上げ、身じろぎもせずにじっとしていた。
扉の開く音がした。重く、それでいて嫌に甲高い音である。
「殿下」
近づいて来た男が言った。フランソワだ。
ベンジャミンは顔だけ降ろしたが、フランソワの方には目をやらずに、面白そうな口ぶりで言った。
「失敗したらしいね」
「申し訳ございません、あの冒険者がしくじりまして」
「ヘクターでも難しかったかあ。まあ、シュバイツの手を逃れるくらいの相手だから、仕方がないけどね」
ベンジャミンは愉快そうに笑い、フランソワの方を見た。
「けど、奴には誓約がある。あまり帝都からは離れらない筈だよ」
「誓約、ですか? 一体どのような?」
「知りたいかい? この地にはかつてソロモンとの戦いに敗れた旧神の骸が眠っている。そいつとの誓約だよ」
「旧神……」
フランソワは青ざめた。伝承にしか残っていないが、ソロモン以前に人間たちを支配していた旧き神々がいたという。と考えて、ふとフランソワは違和感を覚えて首を傾げた。
「ソロモンに敗れた? 伝承では主神ヴィエナに敗れたとある筈ですが」
ベンジャミンはくつくつと笑った。
「伝えられている事が全て真実とは限らないさ。ヴィエナ教に箔を付けるために後世の連中がそういう事にしたんだよ。ふふ、歴史の話は長くなるから今度ゆっくりしてあげよう」
「は、はあ」
寝耳に水の話にフランソワは困惑したように眉をひそめた。
ベンジャミンは足を組んで、頭の後ろで手を組んだ。
「ま、旧神とはいってもとっくに力は失って、せいぜいが残留思念が微かに残っているだけなんだけどさ」
「しかし誓約を結べるほどでは……」
「はは、誓約といってもそれ自体に明確な意思はない。力というシステムだけが残っているようなものさ。しかしきちんと段階を踏めば利用する事はできる。こと結界や『場』の形成に関してはシュバイツすらしのぐ力を得られる。代わりに、その土地から離れられなくなるんだけどね。諸刃の剣ってやつさ」
「な、成る程……」
ベンジャミンはにやりと笑って、パンパンと手を叩いた。するとどこからともなくメイドが一人、お茶を載せた盆を持って現れた。虚ろな表情で、一切の気配を感じさせない。
「それで、ヘクターはどうしたの?」
「一旦帝都に戻っておりますが」
「そうか。ふむ……帝都の網はヘクターに張ってもらおう。君にはまた兵士を連れてフィンデールに行ってもらおうかな。一度尻尾を掴めたなら、捕まえられるのも時間の問題だが……そうだ、マイトレーヤを連れて行きなよ。彼女がいれば間違いないさ」
「は……しかし殿下、護衛は……」
「はは、僕の事は心配要らないよ。優秀な護衛がいるからね」
フランソワはハッとしたように後ろを振り向いた。先ほどのメイドがすぐ後ろに立って、虚ろな目をしてフランソワを見つめていた。フランソワは身を強張らせ、ベンジャミンに一礼すると踵を返した。
重い鉄の扉が閉まる音がして、その残響が静寂を助長した。
ベンジャミンは椅子に腰かけたまま空を見上げた。相変わらず青い空で、千切れ雲が流れている。
「滑稽」
暗がりから声がした。小さな女の子の声だ。
ベンジャミンが目をやると、小さな影が出て来た。黒い服をまとい、顔にはヴェールを垂らしている。年恰好はまだ十に満たぬというくらいである。しかし足取りはしっかりとし、声は舌っ足らずではなく、はっきりしていた。
「ああ、マイトレーヤ。そこにいたのか」
「いつまで遊びを続けるつもり?」
「はは、人生なんて遊びじゃないか?」
「遊ぶなら本気で遊ぶべき。手を抜いちゃ遊びですらない」
「厳しいな。けどね、あのエルフは本当に手ごわいよ。僕やシュバイツ相手にこれだけ渡り合った奴は他にいない」
小さなマイトレーヤは肩をすくめた。
「それももう終わり」
「ふふふ、朗報を期待しているよ」
ベンジャミンの目の前で、マイトレーヤの姿が影に沈み込んだ。
○
イスタフから帝都への道はかなり整備が進んでおり、石畳とまではいかないものの、凹凸も少ない平坦な街道であった。東との貿易はローデシア帝国の経済の柱の一つである。その利便性を高めようとするのは当然の事だろう。
アンジェリンたち一行は特に問題もなくティルディスから帝国領に入り、乗合馬車を乗り継いだり隊商や行商人の護衛に混ざったりして、いくつもの村や町を経由した。
ローデシア南西の国境は、南部のダダン帝国やルクレシア、さらにティルディスにも近い。
だから国境近くの村や町は、帝国様式の文化を基礎にしながらも、ダダンやルクレシア、さらにティルディスを始めとした東部連邦の文化が自然と混じり合っていた。
それも帝都方面へと進む程に異国の感は薄れたが、それでも来た事のない土地は新鮮なものである。何もかもが初めてのマルグリットはもちろん、エストガル以南は知らないアンジェリンたちも、見知らぬ風景や、オルフェンのものとは微妙に違う建物の意匠や街並み、食べ物などを楽しんだ。
がらがらごっとんと音を立てて、荷物をたくさん積んだ荷車とすれ違った。
アンジェリンは少し身じろぎして、尻の位置を正した。平坦な道である分、小さな石などを踏んだ時の揺れが大きいように感ずる。
アンジェリンは大きくあくびをして、のんびりと流れて行く風景を見やった。
右手に山裾が迫っていて、反対側は平坦な野原が続き、その先は森である。素材採取をしているのか、冒険者らしき若者たちが森の際を行ったり来たりしていた。
天気は良く、陽射しは温かく、のどかな秋晴れといった陽気である。しかし時折肌を撫でて行く風は夏のものと違って少し冷たい。この分では、北部はもうすっかり肌寒いだろう。
馬車の縁にもたれかかって、さっきからマルグリットがずっと風景を眺めている。飽きる事などないという様子である。あるいは風景から連想されて、これからの旅路を思い浮かべているのかも知れない。
アンジェリンはいたずら心を起こして、そっとマルグリットの後ろに忍び寄り、手を伸ばして脇の下を突っついた。
「どひゃあ! 何すんだ、馬鹿!」
「何か見えるの……?」
アンジェリンはくすくす笑いながらマルグリットの横に並んだ。マルグリットは唇を尖らしてアンジェリンの脇腹をつつき返した。
「ずっと森だけどな。けどもう少しで切れそうだぜ。次の町までどれくらいかな?」
「もう少しだよ。帝都に近くなると、町と町の間隔も狭いんだ」
トーヤが言った。確かに、馬車で半日もかからない距離の町や村が多くなったように思う。きっと人が多いのだろう、とアンジェリンは思った。
「フィンデールか。しばらくぶりだ」
パーシヴァルが呟いた。カシムが頷く。
「オイラもわざわざ来たりしなかったな。通る事はよくあったけど」
「どんな町なのー?」
ミリアムが二個目の蒸しパンを手に取りながら言った。パーシヴァルは顎に手をやって目を細めた。
「帝都の手前の町だからな、帝都に行くには必ず通る。その分人の行き来が旺盛で、町自体もかなりでかいが……」
「かつてティルディスの騎馬隊との戦いの時は、拠点として帝都までの進撃を食い止めた場所でもあるそうですよ。古い砦の壁がまだ残っていますし、練兵場もあります」
イシュメールが引き取って説明した。アネッサがふむふむと頷いた。
「オルフェンも貿易の中継点でしたけど、それ以上って事ですか?」
「帝都が大きいですからね。私はオルフェンは知りませんが、フィンデールもかなり大きいですよ」
オルフェンはアンジェリンにとっても都会だった。それを超える都市となると、もう想像もつかない。エストガルは広かったが、行くのが嫌だったのと、見て回っていないのとで殆ど印象に残っていない。
ミリアムが両手でほっぺたを撫でた。
「はー、それにしても温泉気持ち良かったねー。お肌もすべすべだー」
「そうだな。疲れが取れたって感じだ」
アネッサも機嫌よさげに言った。
昨晩泊まった村には温泉が湧いており、遠方から湯治に来るお客も多いくらいに良い泉質の湯であった。当然浸かった一行は埃と旅の疲れをさっぱりと洗い流し、たいへんすっきりとして、こうやって次の乗合馬車に座っている。
「中々良いお湯でしたね。故郷を思い出しました」
「モーリンさんの故郷って温泉があるのー?」
「ええ、寒い所ですけどね。おかげでいつもぬくぬくでしたよ」
モーリンは言いながら、ごそごそと荷物を漁って木の皮の包みを取り出した。小麦粉を練ったものを温泉の蒸気で蒸したパンらしい。トーヤが呆れ顔をした。
「いつの間に買ったんだよ、そんなの」
「出発するちょっと前です。あ、皆さんの分もありますよ」
どうぞどうぞとモーリンが蒸しパンを差し出す。アンジェリン含む若者たちは苦笑しながらも受け取ったが、ベルグリフたち中年組は後でと断った。
ぱくりと蒸しパンをかじってみる。生地から見え隠れしていた小さな茶色い粒は、どうやら豆を甘く煮たものらしい。まだ微かに温かく、ふわふわ、もちもちしていてうまい。
蒸しパンを食べ終え、ふと見ると、ベルグリフが何となく考え込むような顔をしていた。アンジェリンはもそもそとすり寄った。
「どうしたの、お父さん?」
「ん? ああ、トルネラはもう冬支度だなと思ってね」
玉葱の植え付けだの麦まきだのは終わったろうか、とベルグリフは呟いた。
アンジェリンは妙に嬉しくなってベルグリフにぐいぐいと体重をかけた。ベルグリフは不思議そうな顔をしてアンジェリンを見た。
「なんだ、どうした?」
「ううん……何でもない……」
旅に出ても、昔の仲間と再会しても、お父さんはお父さんだ、と変に安心したような気分だった。こういう些細な事がアンジェリンの心を落ち着かせた。頭で考えると混乱する事ばかりだ。
カシムがからから笑った。
「ここで畑の心配しても仕様がないんじゃない?」
「そりゃそうだが、気になるものは気になるんだよ。根が百姓だから」
「やれやれ。お前を見てると、わざわざ冒険者だなんていうのが馬鹿らしくなるぜ」
パーシヴァルがそう言って馬車の縁に寄り掛かった。トーヤが抱えた荷物を膝の上で動かした。
「ベルグリフさん、あんなに強いのに冒険者じゃないなんてなあ……」
「だよねえ? 復帰すりゃいいじゃない、ベル」
「こんな所で畑が気にかかるのに、冒険者なんてやれないよ」
ベルグリフはそう言って笑った。
少し前の自分ならベルグリフが復帰するなどという事になったら、どんなに嬉しかったか分からない。もちろん今でも嬉しいのだが、手放しに喜んでそうだそうだと言えないのが不思議な気がした。
「そういえば、皆さんはどうして冒険者になろうって思ったんですか?」
トーヤが思い出したように言った。パーシヴァルとカシムが目を合わせて首を傾げた。
「俺は他に考えられなかっただけだが。カシム、お前はどうだった?」
「オイラはスラムの孤児だったから、食う為」
「ああ、そういやそうだったな。だが、初めて会った時はお前、食い逃げで追いかけられてなかったか? なあ、ベル」
「うん、そうだったな。パーシーが捕まえようって言って追いかけて、そしたら魔法で吹き飛ばされて」
「ありゃ強烈だった。だがあれで惚れ込んでな、しつこく追いかけてパーティに引っ張り込んだんだ」
「パーシーの勢いが凄かったから、オイラてっきり兵士に突き出されるもんだとばっかり思ってさ、いざ捕まった時も必死に抵抗したよ。まあ、ベルが落ち着いて話をしてくれたからそれでパーティに入ったんだけど」
「へえ、そういう……え、カシムさんも孤児だったんですか?」
アネッサが目をぱちくりさせた。カシムは笑って鼻をこすった。
「そうだよ。へへへ、懐かしいなあ。日雇いの仕事もガキに回してくれるのは少ないし、仕事にあり付けなきゃ悪さしなきゃ生きて行けなかったなあ」
「も、って事はアーネも?」
トーヤが言った。アネッサは頷いた。
「ああ、わたしとミリィは同じ孤児院で育ったんだ。だから将来は独り立ちしなきゃいけないし、それで冒険者になったっけ」
「そうそう。シスターたちは普通の仕事をさせたがったけど、反対を押し切ったね! 駆け出しの頃は大変だったなー」
ミリアムが愉快そうに笑う。トーヤは感心したように腕を組んだ。
「そうかあ……イシュメールさんは?」
「私は別に冒険者になりたかったわけではないんですが……実験の材料を集めるのに人に頼むと高く付くわ時間はかかるわで……」
「ははあ、それで自分で手に入れようって思ったわけだ」
「そうですね。けど、実験よりも冒険の時間の方が長くて……若干本末転倒な感じがありますよ」
イシュメールはそう言って苦笑した。モーリンが三つ目の蒸しパンを頬張った。
「もふ……皆さん立派ですねえ。わたしなんか単にエルフ領の生活が嫌だっただけですよ」
「おれもおんなじだ。なーんか夢がねえなあ、ただ食ってく為だなんて」
「仕事ってのはそういうものだよ、マリー。それは冒険者でも他の職業でも変わらないさ」
「ふうん……ま、おれは冒険者楽しいぜ。皆もそうだろ?」
一行は笑いながら頷いた。マルグリットは無邪気だなあ、とアンジェリンは微笑ましいようなからかいたいような、ともかく面白い気持ちで馬車の縁に寄り掛かった。そうしてトーヤの方を見る。
「トーヤはどうなの……?」
「え、俺? ああ、俺は……反抗心、みたいなものかな」
「反抗心?」
「まあ、その、親に対してね。アンジェリンさんの前でこんな事言っちゃ笑われそうだけど」
「ははっ、分かるぜ、その気持ち。俺もそうだった」
パーシヴァルが笑いながらトーヤの肩を叩いた。アンジェリンはぷうと頬を膨らました。
「家族は仲良くしないと駄目……」
「そう、だね。はは」
トーヤは困ったように笑って頬を掻いた。
小一時間ほど進むうちに、いくつもの馬車や引き馬、歩きの旅人とすれ違い、同じ方向に向かう人々を追い越したりして、次第に町が近い気配である。
アンジェリンは馬車の縁に手を突いて身を乗り出し、前方を見やった。大小の丘陵が連なる平原の向こうに細長い建物が見えた。塔のようだ。
「なんか、塔が見える……」
「え、どれだ?」
マルグリットも身を乗り出した。イシュメールが言った。
「フィンデールの見張り塔でしょう。夜には旅人の目印に先端に光を灯すんですよ」
「へえ、灯台みたいで面白いですね」
アネッサとミリアムも首を伸ばして進む方を眺めた。
やがて、ざわめきや馬のいななき、怒鳴り声や笑い声などで辺りが騒然として来た。
城壁らしきものに大きな門がある。開け放たれたそこから大勢の人が出たり入ったりして、たいへん賑やかだ。
「わあ……!」
門をくぐった先を見て、マルグリットが嘆声を漏らした。
石造りの大小の建物がいくつも連なり、漆喰や色石をつかった絢爛な装飾を施したものもある。建物は二階建て三階建ては当たり前で、その建物から建物へ、通りを渡るように張られた縄に帝国旗がたなびいて、オルフェンよりも空が狭いように思われた。
しかし賑わいは凄まじい。人種も様々で、西方系、南方系、東方系の顔立ち、さらには種々の獣人の姿も見受けられる。
まだ帝都に行きつく前にこれだ。
帝都はどんなだろう、とアンジェリンは楽しみなような怖いような、どっちともつかぬ気持ちでベルグリフの腕を抱きしめた。
「凄い……めっちゃ賑やか」
「ああ、驚いたな……オルフェンも大きな町だが、これほどとは……」
流石のベルグリフも驚いている様子である。それを見て、お父さんもおんなじだ、とアンジェリンは却って安心したような気分になった。パーシヴァルとカシムは何でもない顔をして、あくびまでしている。
町に入って少ししたところで馬車が止まった。広場になった所で、乗合馬車の停留所でもあるらしい。
同乗のお客がぞろぞろと降りて、アンジェリンたちも荷物を持って降りる。広場のぐるりには露店が立ち並び、行商人たちが荷卸しをしている。
「すげえすげえ! なんでこんなに人がいるんだ!? みんなどっから来たんだ!?」
「知るか。その辺から湧いたんだろ」
大はしゃぎでぴょこぴょこ跳ねるマルグリットを、パーシヴァルが適当な事を言ってあしらっている。アネッサとミリアムも少しそわそわした様子で辺りを見回していた。オルフェンに似てはいるが、確かに雰囲気は違う。騒々しく、エネルギーがぶつかり合っているようだ。
ここから帝都まではもう目と鼻の先というくらいらしい。それでも歩いて行くには少し遠いから、やはり馬車を見つけたい。
そのつもりでアンジェリンがきょろきょろと周囲を見回すと、何やら妙な雰囲気が漂っていた。行き交う人たちが、何やら怪訝な顔をしてこちらを見、そうしてひそひそと何か囁き合っている。その視線を追うと、どうやらマルグリットとモーリンのエルフ二人に注がれているらしかった。
エルフが珍しいからだろうか。しかしそれにしては視線に不穏なものを感じる。アンジェリンはさりげなく視線を泳がせながら、腰の剣の位置を直した。
その時悲鳴が上がった。マルグリットに腕を捻じり上げられた男が腰砕けになってひいひい言っていた。マルグリットは鋭い視線で男を射抜いた。
「人の事捕まえようなんざ、どういう了見だよ」
「ひっ、ひいい、助けてくれえ! お尋ね者だあ! エルフだあ!」
男が叫ぶと、瞬く間に周囲の視線が集まった。多くは遠巻きに眺めているだけだが、冒険者らしき連中は手に手に武器を携えて目の前に突っ立った。
マルグリットが激高して剣の柄に手をやった。
「お尋ね者だあ!? コノヤロウ、おれがエルフだからって!」
「待てマリー。取り乱すな」
いきり立つマルグリットを制するようにパーシヴァルとベルグリフが前に出た。パーシヴァルの獅子の如き威圧感に、冒険者たちは息を呑んで足を止めた。
「な、なんだテメエら……」
ベルグリフが一歩前に出る。
「どういう事か、説明が欲しい。この町ではエルフというだけで迫害を受けるのか?」
冒険者たちは顔を見合わせた。
「そういうわけじゃねえが……数日前からエルフは捕らえろっていうお触れがあるんだよ」
「少し前に帝国兵相手に暴れたエルフがいてな」
「賞金もかなりの額だ。尤も、追ってるエルフは一人らしいが、取り調べの為に片っ端から捕まえるんだろうよ」
「……彼女たちは今日ティルディス方面から来たばかりなんだ。この町で指名手配される理由も意味もない筈だ」
「そんな事は知らねえな。俺たちは仕事をするだけだ」
「それに口でなら何とでも言える。お前たちが本当の事を言っている証拠がどこにある?」
「それなら兵士を呼んでくれ。彼女たちは探しているエルフとは違う。わざわざここで捕まえなくたっていいだろう」
「はん! その間に逃げようたってそうはいかねえ」
冒険者たちはあくまで強気である。しかしパーシヴァルが睨みを利かせているから相手も動けないらしい、互いに睨み合ったまま身動きせずに立っている。
いつの間にかその周囲にだけ人がいなくなり、しかし遠くには野次馬が集まって、息を呑むようにして見守っている。その間にも騒ぎを聞きつけて我こそはという冒険者が集まり、アンジェリンたちを囲む輪はやや分厚くなった。
マルグリットは目に涙をにじませていた。
「くそ……なんだよ。せっかくいい気分だったのに……最悪だ」
ここでも耳や顔を隠さなきゃいけないのか、と呟いた。悔しさからか、小刻みに震えているマルグリットの肩を、アンジェリンはそっと抱いてやった。
「困りましたねえ。ちょっと前はこんな事なかったのに」
一方のモーリンは不思議そうに首を傾げていた。こちらはあまりショックを受けている様子はない。トーヤも眉をひそめつつ、しかし合点が入らないという顔をしている。
アンジェリンはそっとトーヤにささやいた。
「前はこんな事なかった?」
「ああ……けど、エルフが暴れたっていうなら、よそから来た奴が何かやったのかも知れないな……エルフはどうしても注目されるから」
それはそうかも知れない。マルグリットだって、自分たちが歯止めをかけなければ帝国兵とだって喧嘩してしまうだろう。
何だかやるせないな、と思った。もしも自分がエルフ領に行って、人間が暴れたから人間は片っ端から捕らえるなどと言われたら嫌に決まっている。だが、多くの人はそう割り切って考えられないのだろう。
いよいよ互いに痺れを切らしそうになった時、甲高い声が響いて来た。
「アンジェ!? アンジェじゃない!?」
アンジェリンはハッとして顔を上げ、声のした方を見た。
豪奢な飾り付けがされた馬車が一台、向こうに止まっていて、そこから女の子が一人が飛び降りて駆けて来た。
女の子は周囲の強面たちを意に介さずに駆け足でやって来ると、アンジェリンに飛び付いた。
「やっぱりアンジェだわ! こんな所で会えるなんて嬉しい! 元気だった!?」
「リ、リゼ……? どうしたの、そっちこそ……」
エストガル大公の娘、リーゼロッテは嬉しそうにアンジェリンに頬ずりして、目を輝かして顔を上げた。頬が紅潮している。
「えへへ、少し前にフランソワお兄様がベンジャミン皇太子殿下の親衛隊長に抜擢されたの! それで様子を見がてら帝都観光でもってお父さまが言って下すったのよ! まさかアンジェもいるなんて……」
「奇遇だね……もしかして大公さまもいるの?」
「ううん、お父さまはお体の具合がよくないの。だから遠出はできなくて、だから代わりにわたしが任されたの」
アンジェリンは思わず笑ってしまった。長男のフェルナンドは後継ぎとして政務に携わっているから外遊できないのは仕方がないとはいえ、まさか次男のヴィラールそっちのけでリーゼロッテが寄越されるとは。
リーゼロッテは興奮した様子でまくし立てた。
「まさかここで会えるなんて、きっと主神のお導きだわ! ねえアンジェ。あなたが帰った日にカシムまでいなくなっちゃったの! 何か知らない?」
「ええと……」
アンジェリンは視線を泳がしてカシムの方にやった。カシムはにやにやしながら手を上げた。
「よっ、おチビ。元気そうじゃない」
「わあ! カシムまでいる! 夢みたいだわ! それにもしかしてエルフさんじゃない!? アンジェのお友達なの!? 凄いわ! わたし、エルフにも会ってみたかったの!」
リーゼロッテに手を取られ、マルグリットは困惑したように口をもぐもぐさせた。
「な、なんだよお前……」
「わたしリーゼロッテっていうの! よろしくね、エルフさん!」
「お、おお……? お、おれはマルグリット、だけど……え?」
「マルグリットね! ほら、泣かないで。綺麗な顔が台無しよ?」
「な、泣いてねーし!」
突然のこの闖入者に、緊迫した空気が間延びした。
相対する冒険者たちは顔を見合わせ、ベルグリフたちも訳が分からないというようにリーゼロッテとアンジェリンを交互に見ている。
「アンジェ、この娘さんは……」
「あのね、ええと、この子はリゼ……リーゼロッテ。エストガル大公さまの娘さん」
「何ぃ? 大公の娘だぁ?」
パーシヴァルが呆れたように目を細める。馬車の紋章を見とめた野次馬たちのざわめきも大きくなった。
リーゼロッテは辺りを見回して首を傾げた。
「どうしたの、この騒ぎは?」
「いやまあ、その」
アンジェリンが手短に説明すると、リーゼロッテは不機嫌そうに腕を組んだ。
「むちゃくちゃだわ! そんなのエルフさんたちに失礼じゃない!」
リーゼロッテはむんと胸を張ると、周囲を取り囲んだ冒険者や野次馬たちに朗々と宣言した。
「彼女たちの身柄は大公家が預かります! 手出しする者はエストガル大公に背くものと心得なさい!」
こう言われては手出しのしようがない。冒険者たちは不承不承といった態で武器を収め、詰まらなそうに去って行った。野次馬たちもざわめきながら少しずつ散り、段々と広場は元の活気が戻って来た。
アンジェリンはほうと息をついて、リーゼロッテの手を握った。
「ありがと、リゼ。本当に助かったよ」
「えへへ、いいのよ。だってお友達じゃない! ね、一緒に来て! この人たち、アンジェやカシムの仲間なんでしょ? 紹介して欲しいわ!」
アンジェリンはベルグリフの方を見た。
「どうする……?」
「このままここにいても別の人がマリーとモーリンさんに目を付けるだろうね……お言葉に甘えさせていただこうか」
ベルグリフはそう言って、リーゼロッテに丁寧に頭を下げた。
「その節は娘がお世話になりました。リーゼロッテ殿、重ねて感謝いたします」
「えっ! もしかしてアンジェのお父さま!? わあ、お会いできて光栄ですわ!」
「そんな畏れ多い……」
リーゼロッテに手を握られてベルグリフは苦笑した。アンジェリンはくすくす笑いながらリーゼロッテの肩に手を置いた。
「婚約者は一緒じゃないの……?」
「オジーは帝都のお屋敷よ。他の貴族のパーティに出てるの。わたし退屈だからフィンデールまで遊びに来ちゃった」
相変わらず豪胆な子だなあ、とアンジェリンは感心した。
リーゼロッテは、馬車の脇に立っている背の高い女性に呼びかけた。女は黄味がかった長い緑髪を三つ編みにしていた。棒術使いなのか、背よりも高い鉄棒を携えている。
「スーティ、行くわよ」
「終わりましたか。まったくハラハラさせてくれますね」
「うふふ、あなたはわたしを止めないから好きよ」
「止めても無駄ですからね。それで、どうします」
「この前行ったレストランがいいわ。この人数でも入れる筈よ」
「人数も何も、大公の御息女の来店を拒む筈ないでしょう。ま、行きますか。けど馬車には乗り切れませんよ」
「いいわ、歩いて行くから」
「あなた本当にお嬢様ですか、まったく」
スーティは嘆息して、御者に二言三言何か言い、それから先導するように歩き出した。リーゼロッテはアンジェリンの手を握ってにんまりと笑う。
「さ、行きましょ。いっぱいお話が聞きたいわ」
「ん、わかった……」
連れ立ってぞろぞろと往来を下って行く。
まったく物怖じせずに、次々と相手を変えながらしゃべり続けるリーゼロッテに、一行はすっかり気を許してしまった様子である。無邪気な好奇心を発露して来るリーゼロッテに、マルグリットなども先ほどの不機嫌は何処へやら、楽し気に話をしてやっている。
アンジェリンはそっと後ろを見やった。ベルグリフとパーシヴァルが小声で何か話し合っていた。聞き取れないけれど、内容は何となく察せられる。
指名手配されている正体不明のエルフ。
何か胸騒ぎがしたけれど、ひとまず今は可愛らしい友人との再会を喜ぼう。あれこれ考えるのはそれからでも遅くはない筈だ。
陽は少しずつ西に傾き、陽の光が赤みを帯びている。