第7話 師匠のスープと、友の差し出す手
「お前ら、こんな夜更けにしんみりと路地裏で何やってやがる」
暗闇の奥から聞こえた野太い声に、キップは心臓が口から飛び出そうになるほどの衝撃を受けた。
月明かりに照らし出されたのは、巨木のように筋骨隆々とした獣人の男。フェザーン王国が誇る最高峰の料理人であり、キップが最も恐れ、そして最も尊敬する師匠、バクスだった。
「お、親方っ……。ち、違うんです、これは、その……」
キップは背負い袋を背後に隠そうと慌てふためいたが、バクスの鋭い眼光はすべてを見透かしていた。
夜逃げの荷物。涙でぐしゃぐしゃになった顔。逃げ出そうとした弟子を捕まえた師匠が次に取る行動といえば、雷のような怒号と、容赦ない鉄拳制裁に決まっている。
キップは「殴られる」と咄嗟に身をすくめ、両手で頭を庇った。
しかし、いつまで経っても師匠の拳は降ってこなかった。
「……夜風が冷えてきやがったな」
バクスはキップを責める言葉を一切口にせず、どっかと路地裏の木箱に腰を下ろした。
そして、片手に提げていた保温用の厚い布を取り払い、中から年季の入った黒い鉄鍋を取り出した。蓋を開けると、それだけで夜の冷たい空気が一変した。
立ち昇る白い湯気と共に、じっくりと煮込まれた獣肉の濃厚な香りと、食欲を否応なしに刺激する香辛料の匂いが周囲にフワリと広がったのだ。
バクスは持参した二つの木椀に、おたまでたっぷりとスープを注いだ。
ゴロゴロとした大ぶりの根菜と、骨から容易く外れるほど柔らかく煮込まれた角猪の肉。それは、キップが厨房で毎日嫌というほど仕込みを手伝わされてきた、国営レストランの看板メニューである特製シチューだった。
「ほれ、食え。冷める前に腹に入れろ」
バクスは無言のまま、二つの木椀をキップとアベルに差し出した。
キップは恐る恐るそれを受け取った。両手から伝わる確かな温もりと、ずっと嗅いできた懐かしい匂いが、恐怖で縮こまっていた心を少しずつ解きほぐしていく。
「いただきます……」
キップが震える手でスープを口に運ぶ。
一口飲んだ瞬間、温かい液体が喉を通り、冷え切っていた胃の腑へと染み渡った。肉の強烈な旨味と、野菜の優しい甘みが、身体の芯からじんわりと熱を帯びさせる。
どんなに不安で押し潰されそうになっていても、美味しいものを食べれば自然と身体の緊張が解ける。それが料理の持つ根源的な力だった。
「美味しい……。すごく、美味しいです、親方……」
キップの目から、恐怖とは違う、安堵の涙がポロポロとこぼれ落ちてシチューの中に消えた。
アベルも隣でスープを口にし、その圧倒的な美味さと、身体を駆け巡る力強い熱に小さく息を吐き出していた。今日一日、アベルの心に重くのしかかっていた強烈なプレッシャーが、この温かい一杯によって不思議と和らいでいくのを感じる。
二人が無心でスープをすする音だけが、路地裏に静かに響いていた。
椀が空になるのを見計らったように、バクスが腕を組み、夜空を見上げながら静かに語り始めた。
「魔界討伐。……恐ろしいに決まってる。お前が逃げ出したくなる気持ちは、痛いほどわかるぜ、キップ。なんせ、二十年前の俺もそうだったんだからな」
その言葉に、キップは驚いて顔を上げた。
バクスといえば、いかつい風貌と豪快な性格で、どんな魔物相手でも包丁一本で捌いてみせるような肝の据わった男だ。その師匠が、恐ろしかったと言うのだ。
「俺は料理人だ。剣も振れねえし、魔法も使えねえ。ヴァンの旦那たちが血まみれになって戦っている間、俺は安全な場所で震えながら、ただ鍋をかき混ぜていることしかできなかった。自分が足手まといなんじゃねえかって、何度も逃げ出そうとしたもんさ」
バクスの低い声は、かつての苛烈な旅路を懐かしむように穏やかだった。
「だがな。死線を潜り抜けて、ボロボロになって帰ってきた旦那たちが、俺の作った飯を食って笑うんだ。『美味いな』『明日も生きよう』って、血にまみれた顔で笑うんだよ。その時、俺はわかった。俺たちの持つ包丁は、魔物を殺すための武器じゃねえ。傷ついた仲間の命を繋ぎ、折れそうな心を奮い立たせるための魔法なんだってな」
バクスはキップを真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、世界を救った英雄たちを食で支え続けた、料理人としての絶対的な矜持が宿っていた。
「戦場で一番恐ろしいのは、敵の刃じゃねえ。絶望して、生きる気力を失うことだ。心も身体も冷え切った時、最後に人間を立ち上がらせるのは、温かくて美味い飯なんだよ。……キップ。お前の作る料理には、すでにその魔法が宿っている。俺が保証してやる」
「親方……」
キップの胸の奥で、燻っていた感情が熱く燃え上がり始めていた。
自分はただの無力な臆病者ではない。命を繋ぐための魔法使いなのだと、誰よりも尊敬する師匠が認めてくれたのだ。
隣でその話を聞いていたアベルは、空になった木椀をそっと地面に置いた。
そして、キップの正面に立ち、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「バクスさんの言う通りだ。キップ、よく考えてみてくれ。俺たちの特命部隊のことを」
アベルは、昼間の王の間に集まった面々を思い浮かべながら苦笑した。
「ベリアは敵を見たら腹が減っていても真っ先に突撃する。シオンはプライドが高くて、どんなに疲れていても他人に弱みを見せず、無理をして戦い続けるだろう。そして俺は……リーダーの重圧で胃を痛めて、三日もすれば倒れる自信がある」
それは自虐のようでありながら、チームの致命的な欠陥を正確に突いた事実だった。
この極端でバラバラな集団が、過酷な魔界の軍勢との戦いを生き抜くには、戦う力以前に、彼らを根底で繋ぎ止める「日常」が必要なのだ。
「俺たちは半端で、バラバラだ。このまま戦場に出れば、敵に殺される前に、自分たちの無茶と飢えで必ず自滅する。……だから、キップ」
アベルは一歩踏み出し、キップに向かって深く頭を下げ、右手をごく自然に差し出した。
「お前の料理がないと、俺たちは絶対に死ぬ。俺たちを支えてくれ。戦場でも、俺たちが人間でいられるように……温かい飯を、食わせてくれないか」
それは、リーダーとしての命令ではなかった。
ただの一人の友として、自分たちの弱さを曝け出し、心から助けを求める切実な願いだった。
自分のような臆病者を、これほどまでに必要としてくれる親友の言葉が、キップの心の最後の壁を完全に打ち砕いた。
王の血を引いているのに、少しも偉ぶらず、誰よりも優しくて不器用な親友。
彼をたった一人で、あの戦闘狂たちと共に過酷な戦場へ行かせるわけにはいかない。どんなに恐ろしくても、自分が温かいスープを作って、彼らの帰る場所にならなければいけないのだ。
「……ずるいよ、アベル。そんなこと言われたら、断れないじゃないか」
キップは袖で乱暴に涙を拭い、立ち上がった。
足はまだ少し震えていたが、もう後ろを振り向く気はなかった。
彼は、真っ直ぐに差し出されたアベルの手を、両手でしっかりと握り返した。
「作ってやるよ。どんな地獄みたいな戦場でも、俺が世界一美味い飯を作ってやる。ベリアにも、あのすかしたシオンにも、無理矢理にでも食わせてやるんだからな」
「ありがとう、キップ。頼りにしてる」
アベルは心からの安堵と共に微笑み、親友の手を力強く握り返した。
その光景を黙って見守っていたバクスは、ふっと満足げに笑うと、おたまを肩に担ぎ直した。
「よし、話はまとまったな。なら、出発の朝までにもう少ししごいてやる。魔物の肉の血抜きから、野営での火の起こし方まで、俺の技術を全部お前の体に叩き込んでやるから覚悟しろ」
「ええっ!? 今からですか!?」
悲鳴を上げるキップの背中を、バクスが豪快に叩く。
王都の裏路地に、先ほどまでの絶望とは違う、活気に満ちた声が響き渡った。
魔界討伐特命部隊。
力も性格もバラバラな若き異端児たちを繋ぎ止める、最も重要で、最も温かい「要」が、ここに確かな決意と共に誕生したのである。




