第6話 臆病な料理人の夜逃げ計画
夜の帳が降りたフェザーン王都は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
等間隔に配置された魔力灯が、石畳の敷き詰められた美しい街路を淡いオレンジ色の光で照らし出している。平和と繁栄を象徴するこの巨大な都市では、誰もが明日への希望を抱きながら、温かいベッドの中で穏やかな寝息を立てていた。
しかし、その平和な空気に全く馴染めず、全身の毛を逆立てながら暗い裏路地を這うように進む一つの影があった。
特命部隊のメンバーに選ばれてしまった獣人の青年、キップである。
「ひぃっ……。だ、誰か来たか……?」
風が吹いて木箱がガタッと鳴っただけで、キップはビクッと肩を震わせ、豊かな獣の尻尾を股の間に深く巻き込んだ。
彼の背中には、自身の身体の半分ほどもある巨大な背負い袋が括り付けられている。中には愛用の包丁セットや最低限の着替え、そして逃走用の保存食がぎっしりと詰め込まれており、歩くたびに微かに金属音が鳴った。
キップは、王都からの夜逃げを企てていた。
王城での軍議を終え、国営レストランの従業員宿舎に戻った彼は、震える手で荷物をまとめ、皆が寝静まるのを待って裏口から抜け出したのだ。
「ごめん、アベル。ごめんな……。俺には絶対無理だよ……」
キップは涙目で辺りを窺いながら、誰にともなく小さく呟いた。
魔界討伐。大魔王の軍勢。四天王。
どれもこれも、平和な厨房でスープの味見をし、肉の焼き加減に命を懸けてきただけの料理人には、あまりにも縁遠く、そして恐ろしすぎる言葉だった。
王の間にいたシオンの言う通りだ。魔法も使えず、剣も振れない自分が過酷な戦場について行ったところで、凶暴な魔物のエサになるのがオチである。恐怖で足が竦み、まともに歩くことすらできないだろう。
「俺は臆病者だ……。フェザーンの面汚しって言われてもいい。命がなきゃ、美味しい料理だって作れないじゃないか……」
自分にそう言い聞かせながら、キップは王都の防壁に沿って続く、人通りのない裏道を進んだ。
警備の厳しい正門から抜け出すことはできないが、野良猫や裏社会の人間だけが知っている、防壁の排水溝を利用した抜け道があることを彼は知っていた。そこから外に出れば、あとは名もなき旅人として、どこか遠くの田舎町でひっそりと食堂でも開いて生きていこう。
そう決意し、抜け道のある暗がりへと足を踏み入れたキップだったが、次の瞬間、彼の獣の耳がピクリと動いた。
抜け道の手前。月明かりだけが差し込む路地の木箱の上に、一人の人影が座っていたのだ。
「ひっ……!」
警備兵に見つかったと思い、キップは心臓が止まりそうになった。慌てて逃げ出そうと踵を返しかけたが、その人影は逃げるキップの背中へ向けて、ひどく穏やかな、よく知る声を投げかけた。
「遅かったな、キップ。お前のことだから、城門の警備を避けてこのルートを使うと思ってたよ」
その声に、キップは弾かれたように振り返った。
雲が晴れ、銀色の月光が路地裏を照らし出す。木箱の上に腰掛け、静かに微笑んでいたのは、他でもないアベルだった。
派手な装飾のない実用的な服を着た彼は、武器を帯びることもなく、ただ一人の友人としてそこに座っていた。
「ア、アベル……! ど、どうして……」
「お前が逃げ出すんじゃないかって、嫌な予感がしてさ。ずっとここで待ってた」
キップは絶望で顔を蒼白にした。
見つかってしまった。よりにもよって、特命部隊のリーダーであり、自分を信じてくれた親友の王子に。
王命から逃亡することは重罪だ。このまま腕を縛られて王城へ引きずり戻され、明日には無理やり死地へと連行されるに違いない。いや、それ以前に、親友であるアベルを裏切って逃げようとした自分を、彼はどれほど軽蔑しているだろうか。
「ち、違うんだアベル! これは、その、夜のピクニックというか……! 俺は逃げるつもりなんて……!」
必死に取り繕おうとするキップだったが、恐怖と罪悪感で言葉が続かず、そのままボロボロと大粒の涙をこぼして俯いてしまった。
「ごめん……。ごめんなさい、アベル。俺、怖いんだ。死にたくないんだよぉ……」
キップは背負い袋を地面に落とし、両手で顔を覆って泣きじゃくった。情けない呜咽が夜の路地に響く。
リーダーとしての厳しい叱責が飛んでくる。そう覚悟して身を縮こまらせたキップだったが、いつまで経っても怒号は聞こえてこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、木箱から降りる静かな足音と、深く、重い溜息だった。
「……隣に座れよ、キップ」
アベルの声は、怒るどころか、どこかホッとしたような、不思議な温かさを帯びていた。
キップが恐る恐る顔を上げると、アベルは自分が座っていた木箱の隣をポンポンと手で叩いていた。
キップは戸惑いながらも、言われるがままにアベルの隣に腰を下ろした。
二人の間には、しんとした静寂が降りた。アベルはキップを責めることも、無理やり連れ戻そうとすることもなく、ただ真っ直ぐに夜空に浮かぶ丸い月を見上げていた。
「今日の月は、すごく綺麗だな」
「え……あ、うん……」
「……キップが王の間で泣き崩れた時さ。シオンは呆れてたし、ベリアも苦笑いしてたけど」
アベルは夜空を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「俺は、すごく救われたんだ」
「救われた……? 俺が、泣いてたのに?」
「ああ。お前が『絶対に死ぬ、怖い』って大声で泣き叫んでくれた時、俺、心の底から安心したんだ。……お前が、俺の心の中で叫んでいた気持ちを、全部代わりに口に出してくれたから」
キップは目を丸くしてアベルの横顔を見た。
月明かりに照らされた若き王子の顔は、昼間に王城で見せていた気丈なリーダーの顔ではなく、年相応の、傷つきやすく脆い少年の顔だった。
「俺だって、怖いよ。すごく怖い。魔界の軍勢なんておとぎ話の中だけの存在だと思ってたのに、急にリーダーになれなんて言われてさ。父さんや母さんは俺を信じるって言ってくれたけど、俺はシオンみたいに天才じゃない。剣も魔法も、全部中途半端だ」
アベルは自分の両手を見つめ、自嘲するように小さく笑った。
「自分が死ぬのも怖いけど、それ以上に怖いのは……俺の半端な決断のせいで、お前たちを死なせてしまうことだ。俺なんかが部隊を率いて、もし敵の罠に嵌まって全滅したら。もしお前が血を流して倒れたら。……そう考えるだけで、足が震えて、逃げ出したくなる」
「アベル……」
キップは息を呑んだ。
アベルは王族だ。伝説の英雄の子供だ。いつも優しくて、誰よりも強くなろうと努力している。だから、キップは無意識のうちに「アベルなら大丈夫だ」と甘えていた。
しかし、アベルも自分と同じ十八歳の若者なのだ。痛覚があるから上位の召喚獣を降ろせず、天才のシオンには見下され、それでも必死に自分の弱さと戦いながら、特命部隊のリーダーという途方もなく重い責任を、その細い肩に背負い込もうとしていたのだ。
「お前は臆病なんかじゃないよ、キップ。怖いのが当たり前なんだ。命が一つしかないのに、死地に喜んで向かう奴の方がどうかしてる」
アベルはそう言って、優しく微笑みながらキップの方を向いた。
「だから、無理しなくていい。俺はお前を連れ戻しに来たわけじゃない」
「え……?」
「ここから逃げて、どこか安全な街に行きなよ。父さんやローランさんには、俺から上手く言っておく。『キップには別働隊として特別な任務を与えた』ってね。路銀が足りないなら、俺の財布を持っていってくれ」
アベルは腰の革袋を外し、キップの膝の上にそっと置いた。
ずっしりとした硬貨の重みが、キップの太ももに伝わる。
「お前は俺の一番の親友だ。お前の作る料理が、俺は世界で一番好きだ。……だからこそ、俺のわがままな冒険に巻き込んで、お前を死なせたくないんだよ」
それは、アベルの人間としての器の大きさと、果てしなく深い優しさから来る言葉だった。
リーダーとしての権力で従わせるのではなく、一人の友として、相手の命と心を守るために自らが泥を被る覚悟。
自分を責めるどころか、逃げる手助けまでしてくれようとする親友の不器用な優しさに触れ、キップの胸の奥で、熱く、苦しい感情が込み上げてきた。
「アベル……っ、俺……、俺は……っ」
キップは膝の上の革袋を握りしめ、ボロボロと再び涙をこぼした。
逃げたい。今すぐ逃げ出して、安全な場所で料理だけを作っていたい。
けれど、こんなにも自分の弱さを曝け出し、不器用なまでに自分を大切にしてくれる親友を、この過酷な死地に一人で向かわせていいのだろうか。
シオンやベリアのような戦闘狂たちの中で、この心優しい親友は、たった一人でどれほどの重圧に耐えなければならないのだろうか。
キップの心の中で、臆病な自分と、友を想う自分が激しく葛藤し、せめぎ合う。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、キップが何かを言いかけた、まさにその時だった。
「お前ら、こんな夜更けにしんみりと路地裏で何やってやがる」
暗闇の奥から、低く、腹の底に響くような野太い声が聞こえた。
二人が驚いて振り返ると、そこには巨大な鍋を片手に提げ、もう片方の手でおたまを肩に担いだ、大柄な獣人の男が立っていた。
キップの師匠であり、フェザーン王国一の料理人、バクスであった。




