第31話 熱砂の洗礼と、沈黙のオアシス
視界のすべてを、揺らめく陽炎と赤茶色の熱砂が覆い尽くしていた。
フェザーン王国から遠く離れた、大陸の南方に広がる広大な砂漠地帯。雲一つない空から容赦なく照りつける太陽は、まるで天に開いた巨大な炉のように、大地とそこを歩む者たちの水分をじりじりと奪い続けている。
バルガンが開発した特命部隊の生命線『装甲付き水陸両用魔導馬車』は、乾ききった砂丘を越えるために、その巨大な六つの車輪を重々しく回転させていた。
しかし、いかに最新鋭の魔導エンジンを積んでいるとはいえ、連日の過酷な砂漠の環境は馬車に深刻な負担を強いていた。
「駄目だね、エンジンの魔力冷却水がもう底を尽きかけてる。これ以上無理に走らせたら、オーバーヒートで完全にイカれちまうよ」
操縦席で分厚いゴーグルを額に押し上げたベリアが、汗だくの顔を拭いながら忌々しそうに舌打ちをした。
彼女の褐色の肌には玉のような汗が浮かび、車内の温度はすでに蒸し風呂のように跳ね上がっている。窓の外を吹き荒れる風も、涼をとるどころか、熱した砂を伴って馬車の装甲をヤスリのように削りつけてくるだけだ。
「ベリア、あとどれくらいで次の都市に着くんだ?」
居住区画の長椅子で、地図を広げていたアベルが声を張った。彼もまた、布で首元の汗を拭い、ひどく乾いた唇を舐めている。
「地図通りなら、この砂丘を越えた先に『オアシス都市サリュー』があるはずさ。かつては他国との交易で栄えた、砂漠のオアシスだって話だけど……」
「水が補給できなければ、馬車だけでなく我々の命も危ういな」
窓際に座り、じっと外の景色を睨んでいたシオンが静かに呟いた。
彼の軍服は先の地下迷宮での死闘によって引き裂かれ、今は馬車に備蓄されていた予備の軽装に着替えている。あの日、自らの傲慢さを恥じ、アベルをリーダーとして認めてからのシオンは、不平不満を口にすることなく、自身の役割を冷静にこなすようになっていた。
しかし、その端正な顔立ちにも、確かな疲労と酷い渇きの色が濃く滲んでいる。
「みんな、少ないけど……最後の水だよ」
居住区画の奥から、エプロン姿のキップがお盆に乗せた四つの木製コップを運んできた。
コップの底には、ほんの二口か三口分ほどの生ぬるい水しか入っていない。馬車に積んでいた飲料水のタンクも、連日の酷暑によってついに限界を迎えていたのだ。
「ありがとう、キップ。お前もちゃんと飲んでおけよ」
アベルがコップを受け取り、大切に一口だけ喉に流し込む。
「うん……。でも、料理用の水ももう空っぽなんだ。早くオアシスに着かないと、スープも作れなくなっちゃうよ」
キップは不安そうに垂れた獣耳を揺らした。料理人である彼にとって、水は命そのものであり、仲間の命を繋ぐための最も重要な武器である。それが失われる恐怖は、誰よりも強かった。
「大丈夫だ。ほら、見えてきたよ!」
操縦席のベリアが声を上げ、馬車が小高い砂丘の頂上へと乗り上げた。
眼下に広がっていたのは、見渡す限りの熱砂の海の中にポツンと浮かび上がる、緑の木々と石造りの建物群。
かつて多くの商人たちが喉を潤し、交易の拠点として栄華を極めたというオアシス都市サリューの全貌だった。
都市の中央には、太陽の光を反射して青々と輝く巨大な湖があるのが遠目にもわかる。
「水だ……! よかった、これで助かる!」
キップが窓に張り付いて歓喜の声を上げ、アベルとシオンも深く安堵の息を吐き出した。
魔導馬車のエンジンは限界ギリギリの駆動音を立てながら、砂の斜面を滑り降りて、オアシス都市の正門へと向かっていく。
だが、都市に近づくにつれて、アベルの心に微かな違和感が芽生え始めた。
「……おかしい。静かすぎる」
アベルは窓から身を乗り出し、都市の周辺を観察した。
交易都市であるならば、門の前には商人の馬車やテントが立ち並び、活気に満ちているはずだ。しかし、サリューの周囲には人影が全くない。門も半ば壊れかけたように開け放たれており、見張りの兵士すら立っていなかった。
「ベリア、警戒して進んでくれ。何か様子が変だ」
「わかってる。魔王軍がすでに占領してる可能性もあるね」
馬車の速度を落とし、一行は門をくぐって都市の内部へと足を踏み入れた。
そこに広がっていたのは、活気ある交易都市の姿ではなく、まるで時間が止まったかのような、ひどく淀んだ死の風景だった。
石造りの建物は至る所で崩れ、路上には放棄された荷車や腐りかけた果実が散乱している。
そして何より異常だったのは、建物の陰や路地のあちこちに、無数の村人たちがボロ布を纏って倒れ伏していることだった。
「ひどい……。みんな、病気なのか?」
馬車から降りたキップが、口元を布で覆いながら怯えた声を出した。
倒れている村人たちの肌は、健康的な褐色ではなく、不気味な赤紫色に変色していた。皆一様に高熱にうなされ、虚ろな目で宙を見つめながら、苦しげな呻き声を上げている。
強い日差しによって熱された石畳の熱気が、村人たちの身体から発せられる病的な汗の匂いと混ざり合い、都市全体を息が詰まるような異臭で包み込んでいた。
「魔王軍の姿は見当たらない。戦闘が行われた形跡も……少ないな」
シオンが細剣の柄に手をかけながら、周囲を鋭く見渡す。
「剣で斬られた傷じゃない。これは……毒か、あるいは疫病による症状だ」
アベルは一人の老人のそばに膝をつき、持っていた自分のコップの最後の数滴を、その乾ききった唇へと垂らした。
「しっかりしてください。フェザーン王国から来ました。一体、ここで何があったんですか?」
水滴を含んだ老人は、微かに目を開け、アベルの服を震える手で掴んだ。
「み、水……。お願いだ、浄らかな水を……。湖が……悪魔によって、腐らされてしまった……」
「湖が?」
アベルが立ち上がり、都市の中央に位置する巨大なオアシスの湖へと視線を向ける。
遠目には太陽の光を反射して青く見えていたその湖は、近づいてみれば、その真の姿を醜く露わにしていた。
「なんて臭いだ……。これじゃあ、まるでドブ池じゃないか」
ベリアが鼻をつまみ、顔を激しくしかめる。
湖の水は、ドロドロとした不気味な深緑色に濁り、ところどころで紫色の気泡が弾けて、硫黄と腐肉を混ぜ合わせたような強烈な悪臭を放っていた。
水面には無数の魚や鳥の死骸が浮き、周囲の緑の木々も、根元から黒く立ち枯れている。
大魔導ゲルドの命を受けた『猛毒のヘドロ魔族』が、都市の生命線である水源に住み着き、その毒液でオアシスそのものを巨大な毒の沼へと変え果てさせていたのだ。
「水がない……。この都市にも、俺たちの馬車にも、もう一滴も安全な水がないんだ……」
キップが絶望に青ざめた顔で、枯れ果てた大地にへたり込んだ。
灼熱の砂漠のど真ん中で、唯一の希望であった水源が猛毒に汚染されているという事実。
それは、剣や魔法で敵を倒すこと以上に、特命部隊の命を直接的に、そして残酷に削り取る、最悪の危機への突入を意味していた。




