第30話 泥濘の果ての凱歌と、一杯の温かいスープ
天才の剣技が、暗闇の中で純白の閃光となった。
「――穿てッ!!」
シオンの裂帛の気合いと共に突き出された細剣は、アベルが命を削って弾き開いた猛獣使いのザザの広大な死角へと、一切の抵抗を許さずに吸い込まれていった。
刃がザザの分厚い毛皮のコートを貫き、胸の筋肉を裂き、鼓動を打つ心臓のど真ん中を極めて正確に、そして物理的に貫通する。
「が、あ……ッ!?」
ザザの目が見開かれ、その口から大量の赤黒い血がゴボリと溢れ出した。
彼の手から二振りの鋼鉄の蛇腹剣が滑り落ち、冷たい泥水の中にジャラリと鈍い音を立てて沈んでいく。
「ばか、な……。俺が、こんな……魔力も使えない、泥に塗れたガキども、に……」
ザザは信じられないものを見る目で、自身の胸に深々と突き刺さった細剣と、それを握るシオンの泥だらけの顔、そしてその後ろで荒い息を吐いている満身創痍のアベルを交互に見つめた。
魔王軍の幹部として、絶対的な力と恐怖で弱者を蹂躙してきた男。彼にとって、圧倒的な力(魔法や魔獣)を持たない者たちが、ただ互いを信じ、自らの肉体を犠牲にしてまで放ったこの「連携」という名の刃は、最後まで理解の及ばないものだった。
シオンは一切の容赦なく、細剣をザザの胸から引き抜いた。
血飛沫が舞い、支えを失ったザザの身体が、ドサリと重い音を立てて自らの血の海へと崩れ落ちる。数度の痙攣の後、魔王軍幹部『猛獣使いのザザ』は完全にその息を引き取った。
静寂が、地下迷宮の最下層に降りてきた。
聞こえるのは、微かに壁を伝い落ちる水滴の音と、三人の荒々しい呼気だけだ。
「……終わった、のか」
アベルが虚空を見つめたまま、掠れた声で呟いた。
極限の集中力でザザの猛攻を逸らし続けた彼の肉体は、すでに生命活動を維持する限界のラインをとうに割り込んでいた。張り詰めていた最後の緊張の糸がプツリと切れ、アベルの身体が前へと大きく傾く。
右手に握られていた純白の『フェザーンのナイフ』が、カランと音を立てて床に転がった。
「アベル!」
崩れ落ちるアベルの身体を、間一髪で受け止めたのはシオンだった。
泥と他者の血で汚れることを何よりも嫌悪していたかつての彼なら、決して自分から他者の泥まみれの身体を抱きとめるような真似はしなかっただろう。
しかし今、シオンは自分の軍服がさらに赤黒く汚れることなど一切気にも留めず、アベルの身体をしっかりと両腕で抱き抱えていた。
「おい、しっかりしろアベル! 頼む、目を開けろ!」
シオンの悲痛な声に、アベルは重い瞼を微かに開け、口の端から血を流しながら不器用な笑みを浮かべた。
「……お前の剣、やっぱり……すげえ綺麗だったよ。……最高、だ……」
その言葉を最後に、アベルは完全に意識を手放し、シオンの腕の中で深い気絶の淵へと沈んでいった。
呼吸は極端に浅く、全身の体温が恐ろしいほどの速さで奪われている。連続同化の反動と多量の出血による、極めて危険な状態だった。
「よくやったよ、二人とも! あとはあたしに任せな!」
巨大なハンマーを背負い直したベリアが駆け寄り、アベルの身体をシオンの腕から受け取って、自身の小柄だが強靭な背中へとそっと背負い上げた。
「さあ、帰るよ。こんなじめじめした暗い泥水の中じゃ、せっかくの勝利の美酒も不味くなっちまうからね。……シオン、あんた歩けるかい」
「……ああ。問題ない」
シオンは泥水の中に落ちていたアベルの『フェザーンのナイフ』を拾い上げ、自身の細剣と共にしっかりと腰に帯びた。
そして、泥濘んだ足元を踏み締め、ベリアの隣に並んで歩き出す。
ザザが死んだことで、地下迷宮を満たしていた邪悪な魔力と封魔石の輝きがゆっくりと光を失い、単なる冷たい石の洞窟へと戻り始めていた。
彼らが地上へと続く長く険しい坑道を戻る道のりは、行きよりも遥かに重く、痛みに満ちたものだった。
シオンは左腕と右足に深い傷を負い、ベリアもベヒモスの一撃で肋骨にヒビが入っている。そしてアベルは生死の境を彷徨っている。
しかし、シオンの心の中には、かつてないほどの静かで温かい光が灯っていた。
(これが、仲間と共に死線を越えるということか……)
シオンは背中を向けたまま前を歩くベリアと、その背で静かに眠るアベルの横顔を見つめた。
自分は一人では何もできなかった。完璧だと思っていた戦術は泥の中で呆気なく崩れ去り、無様に泣き叫ぶしかなかった。
そんな自分を、アベルは命を削って助けに来てくれた。ベリアは怒りながらも、その圧倒的な力で道を開いてくれた。
強さとは、決して傷つかないことではない。
泥に塗れ、無様になっても、決して諦めずに立ち上がり、仲間のために己の命を懸けられること。それこそが、アベルの持つ真の強さであり、リーダーとしての器なのだと、シオンは痛いほどに理解したのである。
「……すまなかった、アベル。そして、ありがとう」
誰に聞こえるでもない小さな声で、シオンは真っ暗な坑道の天井に向かって呟いた。
その目には、もう二度と仲間を見下すような傲慢な光が宿ることはないだろう。
* * *
数十分後。
特命部隊の三人が、採石場の奥にある重い木の扉を押し開けて地上へと姿を現した時、外はすでに深い夜の闇に包まれていた。
「アベル! ベリア! シオン!」
待ち構えていたかのように駆け寄ってきたのは、エプロン姿のキップだった。
彼の背後には、装甲付き水陸両用魔導馬車が頼もしい影を落としており、さらにその後ろでは、解放された村人たちが身を寄せ合って休んでいる。
「キップ……。遅くなって、悪かったね。ザザの野郎は、あたしたちがしっかりブチのめしてきたよ」
ベリアが疲れ切った笑顔を見せると、キップの目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「みんな、ボロボロじゃないか……! アベル! アベルはどうしたんだよ!」
「大丈夫だ、キップ。彼は限界を超えて気絶しているだけだ。……すぐに馬車のベッドへ運んでくれ」
シオンが静かにそう告げると、キップは驚いたように目を丸くした。
これまでアベルのことを「半端者」と呼び捨てにし、常に冷たい態度をとっていたシオンの口から、アベルを労わり、そして自分たちと同じ目線で話しかけるような響きを感じ取ったからだ。
「わ、わかった! 今すぐベッドの準備をするよ! それと……」
キップは涙を袖で乱暴に拭い、大きな鍋が火にかけられている馬車の厨房へと振り返った。
「すっごく温かくて、栄養満点の特製スープ、作って待ってたんだ。魔獣の肉じゃなくて、馬車の備蓄の干し肉と、村の裏で採れた薬草をたっぷり煮込んだやつ。……これ飲めば、アベルも絶対に元気になるから!」
キップの言葉に、シオンとベリアの顔に自然と柔らかい笑みがこぼれた。
馬車の中にアベルを運び込み、清潔な布で泥と血を拭い取る。シオンも自身の傷口をキップに手当てされながら、手渡された木製の椀を両手で受け取った。
椀からは、冷え切った身体の芯まで溶かすような、湯気と芳醇な香りが立ち上っていた。
シオンは泥に塗れたままの口元へと椀を運び、ゆっくりと一口、スープを啜る。
干し肉の深い旨味と、滋養に満ちた薬草の微かな苦味。それが胃の腑に落ちた瞬間、強張っていたシオンの全身の筋肉がフッと解れ、生きているという確かな実感が熱い涙となって再び頬を伝った。
「……美味い。信じられないくらい、美味いな」
シオンの震える声に、キップは照れくさそうに、しかし誇らしげに胸を張った。
「当たり前だよ。俺は、フェザーン最高の料理人、バクス師匠の一番弟子なんだから」
馬車の外では、魔王軍の支配から解放された村人たちが、キップの作ったスープを分け合いながら、静かに涙を流してフェザーンの戦士たちに祈りを捧げていた。
空を覆う魔界の瘴気はまだ晴れてはいない。この世界には、まだ大魔導ゲルドや、剣豪将ザンキといった恐ろしい幹部たちが待ち受けている。
しかし、特命部隊の心は、出立の時とは全く違う強固な絆で結ばれていた。
不器用で泥臭いリーダーのアベル。
プライドを捨て、真の戦士へと生まれ変わった天才シオン。
圧倒的な力と優しさで仲間を支えるベリア。
そして、戦う力はなくても、仲間の命と心を温かい料理で繋ぎ止めるキップ。
バラバラだった四つの歯車が、痛みと泥濘の底でしっかりと噛み合い、初めて一つの強大な力として動き出したのだ。
「ゆっくり休みな、アベル。……明日からは、もっと厳しい旅になるんだからね」
ベリアがアベルのベッドの傍らで優しく微笑み、毛布を肩まで掛け直す。
静かな寝息を立てるアベルの胸元で、純白のフェザーンのナイフが、主の成長を祝福するかのように微かな銀色の光を瞬かせていた。
若きリーダーの覚醒と、特命部隊の真の誕生。
彼らの壮大なる魔界討伐の旅は、ここからさらなる過酷な試練へとその歩みを進めていくのである。




