第29話 血塗られた天才と、泥濘の決着
ズズゥゥォォォォンッ!!
地下迷宮の最下層を揺るがす、途方もない地響き。
シオンの細剣によって頸動脈と神経の束を完全に切断された『地獄の暴食獣・ベヒモス』の巨体が、糸の切れた操り人形のように泥濘の底へと崩れ落ちた。
周囲の泥水が津波のように跳ね上がり、生温かい血の雨となって地下空間に降り注ぐ。
「はぁっ……! はぁっ……!」
シオンは巨獣の首から細剣を引き抜き、荒い息を吐きながらその場に立ち尽くしていた。
彼の顔も、引き裂かれた純白の軍服も、すでに元の色が全く見えないほどにベヒモスの赤黒い血で染まりきっている。
王都での彼であれば、自身の身体が獣の血肉で汚れることなど絶対に許容できなかったはずだ。だが今、シオンの心に嫌悪感は微塵もなかった。
手首に伝わる、命を物理的に断ち切ったという生々しい感触。そして、仲間を護るために泥に塗れ、全身全霊で放った一撃がもたらした確かな勝利の余韻。
それが、魔法という安全な檻の中からでは決して得られなかった、戦士としての真の充足感であることを、彼は静かに、しかし熱く噛み締めていた。
「がはっ……! ごほっ!」
巨獣の顎を押し留めていたアベルが、役目を終えて泥水の中へと仰向けに倒れ込んだ。
限界を超えて維持していた『深き土のモグラ』の同化が強制的に解除され、岩のように膨張していた筋肉が急激に収縮する。その反動は凄まじく、アベルは痙攣する身体を丸め、胃液と血の混じったものを激しく吐き出した。
「アベル! しっかりしな!」
ベリアが血相を変えて駆け寄り、アベルの上半身を泥水から抱き起こす。
右腕は内出血でどす黒く腫れ上がり、全身の骨が今にも砕け散りそうなほどに軋んでいる。それでもアベルは、泥と血に塗れた顔を微かに歪めながら、視線だけを動かしてシオンの姿を探した。
「シ、オン……。怪我は……」
「……馬鹿者。自分の心配だけをしていろ」
シオンは足を引きずりながら歩み寄り、アベルの傍らで片膝をついた。
その声には、以前のような冷たい棘や他者を見下す響きは一切ない。ただ、無茶を重ねた不器用なリーダーへの、痛いほどの敬意と深い信頼だけが滲み出していた。
「貴様が囮になってくれなければ、私の剣はあの巨獣の装甲を貫けなかった。……見事な指揮だった。礼を言う」
シオンが真っ直ぐにアベルの目を見てそう告げた瞬間、アベルの口元に安堵の笑みが浮かんだ。
天才のシオンが、初めてアベルのやり方を認め、その背中を預けてくれた。その事実だけで、全身を切り刻むような激痛すらも、今は誇らしく思えた。
だが、彼らの勝利の余韻を、頭上からの狂気に満ちた絶叫が切り裂いた。
「あり得ねえ……! あり得ねええぇぇッ!!」
バルコニーから身を乗り出した魔王軍幹部『猛獣使いのザザ』が、自身の最高傑作であるベヒモスの死骸を見下ろし、顔の刺青を歪めて発狂したように叫んでいた。
「魔力を封じた空間だぞ! 魔法の使えないただの人間とドワーフが、純粋な武力だけで俺のベヒモスの装甲を破っただと!? ふざけるな! こんな泥臭い戦い方、魔王軍の幹部である俺が認めるかァァッ!」
ザザは髑髏の杖を乱暴に投げ捨てると、バルコニーから自ら泥濘の広場へと跳躍した。
ドスンと重い音を立てて着地したザザの目には、明らかな焦燥と殺意が宿っていた。配下の魔獣をすべて失った彼に残されたのは、彼自身の武力のみ。
「てめえらはもう限界のはずだ! 同化で自滅寸前の半端者に、魔力を封じられた魔術師! 満身創痍のガキどもを、俺自ら八つ裂きにしてやる!」
ザザが両腰から引き抜いたのは、魔法の産物ではない純粋な物理的殺傷力を持った凶悪な武器――無数の鋭利な刃が連なった、二振りの『鋼鉄の蛇腹剣』だった。
鞭のようにしなり、剣のように肉を裂くその武器は、魔力を乱されるこの地下迷宮において、ザザ自身が振るう最強の近接兵器であった。
ヒュンッ!
ザザが腕を振るうと、二本の蛇腹剣が暗闇の中で銀色の軌跡を描き、空気を鋭く切り裂いた。
「ベリア……退がれ。あいつの武器は、ハンマーじゃ相性が悪すぎる」
アベルがベリアの腕を押し除け、ふらつく足で立ち上がった。
右手に握られた純白の『フェザーンのナイフ』が、カタカタと微かに震えている。もはやアベルの肉体には、魔獣を同化させるだけの体力は一ミリも残されていない。一度でも同化の詠唱を行えば、その瞬間にショック死するだろう。
「馬鹿言うんじゃないよ! あんたこそ、そんな体で何ができるってんだい!」
ベリアが叫ぶが、アベルはナイフの柄を強く握り直し、ザザを見据えて一歩前に出た。
「同化はできない。……でも、俺の目はまだ死んでない。親父から教えられた、戦場のすべてを見渡す観察眼だけは」
アベルは小さく息を吸い込み、横に立つシオンへと声をかけた。
「シオン。俺が奴の蛇腹剣の軌道を読み切って、すべて逸らす。……お前のその完璧な剣で、奴の心臓を貫けるか?」
それは、己の命を完全に他者に預ける、究極の信頼の証だった。
体力も魔力も尽き果てたアベルが、ただ一つの純白のナイフと自身の身体だけを囮にし、最後の決定打をかつて反発し合っていた相棒に託す。
シオンは泥に塗れた細剣を真っ直ぐに構え直し、静かに、しかし揺るぎない覚悟を込めて答えた。
「誰に物を言っている。私はローランの弟子にして、貴様が率いる特命部隊の剣だ。……貴様が作った隙、コンマ一秒たりとも無駄にはしない」
「了解した……リーダー」
シオンの口から初めて紡がれた『リーダー』という言葉。
その響きが、アベルの心に最後の強烈な炎を灯した。
「死ねェェェッ!!」
ザザが狂ったような咆哮と共に、二本の蛇腹剣を嵐のように振り回して突進してくる。
予測不可能な軌道で波打つ無数の刃。それは正面から防ぐことなど不可能な、死の旋風だった。
しかし、アベルの瞳は極限の集中状態の中で、氷のように澄み渡っていた。
父ヴァンから受け継いだ、他者の動きの起点、筋肉の僅かな収縮、呼吸の乱れを読み取る圧倒的な観察眼。
アベルは自身の身体を最小限の動きで捻り、迫り来る蛇腹剣の刃の連なりに対して、ただの物理的な短剣である『フェザーンのナイフ』を極めて正確な角度で合わせにいった。
キィィンッ! ギギギィッ!
ミスリルの純白の刃が、鋼鉄の蛇腹剣の軌道を僅かに弾き、滑らせる。
斬撃を防ぐのではなく、運動エネルギーの方向を物理的に逸らす極限のパリー。
右腕の骨が軋み、弾かれた刃がアベルの頬や肩を浅く切り裂いていくが、アベルは決して後退しなかった。
「なぜだ! なぜ当たんねえ! てめえのそのボロボロの体のどこに、そんな力が残ってやがる!」
ザザが焦燥に駆られ、さらに大振りの一撃を放つ。
「今だ……シオンッ!!」
アベルがザザの右の蛇腹剣を大きく上方へと弾き飛ばし、その懐に決定的な、そして広大な死角を作り出した。
「――シィッ!」
アベルの背後から、シオンの身体が泥濘を蹴って文字通り弾丸のように飛び出した。
アベルが命を削って作り出した完璧な一本道。シオンの青い瞳が、ザザの心臓の鼓動を正確に捉える。
「なっ……!?」
ザザが驚愕に見開いた目の前で、血と泥に塗れたシオンの細剣が、一切の無駄を削ぎ落とした神速の刺突となって真っ直ぐに突き出された。
天才の剣技と、半端者の観察眼と執念。
決して交わることのなかった二つの極端な刃が、泥濘の底で完全に重なり合い、一つになった瞬間であった。




