第28話 軋む命と、泥濘の決死行
「やっちまえ、ベヒモス! その小賢しいネズミどもを、一人残らず踏み潰して肉塊に変えてやれ!」
バルコニーから見下ろす猛獣使いのザザの号令と共に、地下迷宮の最下層が激しく揺動した。
『地獄の暴食獣・ベヒモス』。鋼鉄以上の硬度を誇る赤黒い岩鱗に覆われたその巨体は、ただ一歩を大きく踏み出しただけで、周囲の泥水を爆発のように跳ね上げ、坑道の壁面に深い亀裂を走らせた。
「来るよ、あんたたち! 踏み潰されないように気をつけな!」
先陣を切ったのは、ベリアだった。
彼女は自身の背丈ほどもある巨大なミスリルハンマーを両手でしっかりと握り直し、迫り来るベヒモスの正面へと向かって、泥濘を蹴り立てて爆発的なダッシュを見せる。
真正面から岩鱗を叩いてもダメージが通らないことは、先ほどの一撃で嫌というほど理解していた。ならば、狙うべきは装甲そのものではない。
「硬いのは上だけだろうが! 足元がお留守なんだよ!」
ベリアはベヒモスに直撃させる軌道を途中で強引に変え、足元の泥濘んだ石畳に向かって、渾身の力でハンマーを振り下ろした。
ドガァァァァンッ!!
凄まじい衝撃音が鳴り響き、地下空間の床面がすり鉢状に大きく陥没する。
飛び散る無数の石の破片と泥の波がベヒモスの視界を塞ぎ、同時に巨獣の巨体を支えていた足場が崩れ、その巨体が大きく前のめりにバランスを崩した。
「今だ、アベル!」
「ああ……!」
ベリアの叫びに呼応し、アベルは限界を超えた肉体に鞭を打ち、血に染まった唇で鋭い詠唱を紡いだ。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『疾風の鎌鼬』!」
翠緑色の魔法陣が空中に展開され、風の魔獣の幻影がアベルの胸の中心へと飛び込む。
その瞬間、アベルの全身の毛細血管が悲鳴を上げ、皮膚のあちこちから血が滲み出した。連続同化の代償はすでに致死量に近い。内臓を刃物で直接かき回されるような凄絶な激痛が脳を焼き切ろうとするが、アベルは奥歯を噛み砕くほどの気力でその痛みをねじ伏せた。
キィィンッ!
肉体に宿った風の魔力波長に呼応し、右手に握られた純白の『フェザーンのナイフ』が生き物のようにスライドする。
分厚い刃が薄く引き伸ばされ、切っ先から風の刃を噴き出す『流線型の曲刀』へと物理的な形状変化を遂げた。
「ハアアァァッ!」
風の敏捷性を得たアベルは、前傾姿勢で崩れたベヒモスの死角へと瞬時に滑り込んだ。
巨獣が体勢を立て直そうと太い首を振り上げるよりも早く、アベルはその岩鱗に覆われていない僅かな顔面の隙間、燃えるような赤い眼球に向かって、風の刃を纏う曲刀を一閃した。
「ギャオオオォォォッ!!」
完全に眼球を貫くことはできなかったが、刃がベヒモスの左目の上部を浅く切り裂き、赤黒い血が噴き出した。
痛みに狂乱した巨獣が、怒りの矛先を完全にアベルへと向ける。
丸太のような前足が、アベルを叩き潰そうと凄まじい風圧を伴って振り下ろされる。
アベルは風の敏捷性でそれを紙一重で回避するが、巨腕が泥濘を叩き潰した衝撃波だけで、アベルの身体は数メートルも後方へと弾き飛ばされた。
「ごはぁっ……!」
泥水の上を転がり、肺から押し出された空気と共に大量の血を吐き出す。
「アベル!」
ベリアが助けに入ろうとハンマーを構えるが、ベヒモスはすでに暴走状態に入っていた。
太い尾が鞭のようにしなり、ベリアの横腹を強打して彼女を壁際まで吹き飛ばす。さらに巨獣は、倒れ伏したアベルに止めを刺そうと、その巨大な顎を大きく開き、すべての重量を乗せて飛びかかってきた。
(避けられない……!)
アベルの風の同化は、すでに限界時間を迎えていた。
ならば、選ぶべき道は一つしかない。
「『疾風』を解除……! 我が肉体を器とし、その力を現せ……『深き土のモグラ』!!」
空中で魔法陣の色が翠緑から茶色へと反転する。
連続切り替えによる反動で、アベルの口から血の飛沫が噴き出す。筋肉が岩のように硬直化し、右手の曲刀が一瞬にして巨大で分厚い『掘削用の短剣』へとその物理的な質量を激変させた。
「おおおおおぉぉぉッ!!」
アベルは仰向けの体勢のまま、両足を泥濘の底の石畳に深く食い込ませ、迫り来るベヒモスの巨大な上顎に向かって、分厚い短剣を両手で突き出した。
ズガァァァァァンッ!!!
巨獣の圧倒的な質量と、土の剛力を宿したアベルの肉体が真正面から激突する。
アベルの両腕の筋肉が断裂し、骨がミシミシと嫌な音を立てて悲鳴を上げた。
普通なら一瞬で押し潰されているほどの途方もない重量。だが、アベルは自身の命の炎を燃やし尽くす覚悟で、ベヒモスの牙の間に分厚い短剣の刃を噛ませ、その巨大な顎が自身を食いちぎるのを物理的に食い止めていた。
「がぁぁっ……! シオン、今だぁぁっ!!」
血を吐きながらの、アベルの魂の咆哮。
ベヒモスの前足が浮き上がり、岩鱗に守られていた首の付け根、その装甲の継ぎ目が、ほんの数センチだけ完全に無防備に晒された瞬間だった。
その一瞬の隙を、泥水の中から立ち上がったシオンは見逃さなかった。
(私は、彼らの命を預かっている)
シオンは泥に塗れた細剣を構え、深く、静かに息を吸い込んだ。
これまでの彼であれば、自分が攻撃を外すことなど微塵も考えていなかっただろう。だが今の彼は違う。自分の剣がもしコンマ一秒でも遅れれば、アベルは完全に噛み砕かれ、ベリアも殺される。
他者の命を背負うことの、恐ろしいほどの重圧。
しかし、不思議とシオンの心に迷いはなかった。
アベルが限界を超えてまで作り出してくれた、この泥に塗れた完璧な舞台。それを無駄にするほど、ローランとガロに鍛え上げられた自分の剣術は安っぽくはない。
「……シィッ!」
シオンの身体が、泥濘を蹴って弾丸のように飛び出した。
魔法の使えない空間において、純粋な身体能力と剣術の冴えだけを頼りにした、極限の踏み込み。
引き裂かれた純白の軍服が暗闇の中で一筋の閃光となり、シオンはベヒモスの側面に滑り込む。
巨大な岩の装甲の継ぎ目。幅わずか数センチの、暗黒の隙間。
そこに、シオンは一切のブレもない完璧な軌道で、泥だらけの細剣を真っ直ぐに突き入れた。
「穿て……!!」
シオンの裂帛の気合いと共に、細剣の刃がベヒモスの分厚い皮膚を貫き、強靭な筋肉の層を抜け、その奥にある頸動脈と神経の束を正確に物理的に切断した。
「ギ、ギャ……アアアァァァァッ!!」
致命傷を負ったベヒモスが、絶望的な断末魔の叫びを上げて激しく痙攣し始めた。
巨獣の喉元から滝のような鮮血が噴き出し、シオンの顔と身体を真っ赤に染め上げる。これまでの彼なら激しい嫌悪感を抱いたであろうその獣の血の温かさを、今のシオンは確かな『勝利の証』として、静かに、そして力強く全身で受け止めていた。




