第27話 絶望の巨獣と、泥水から立つ剣士
「地獄の暴食獣・ベヒモス」
魔王軍幹部ザザが放ったその生物は、地下迷宮の最下層という広大な空間においてすら、圧倒的なまでの圧迫感を放っていた。
見上げるほどに巨大な四つ足の体躯。全身を覆うのは、地底のマグマと瘴気によって鋼鉄以上の硬度に練り上げられた、赤黒い岩の鱗である。その鼻先からは高熱の蒸気が噴き出し、一歩踏み出すごとに地下空間全体が激しく揺れ動いた。
「さあ、晩餐の時間だ。あの小癪なドワーフごと、フェザーンの若造どもを噛み砕け!」
遥か頭上のバルコニーから、ザザの愉悦に歪んだ声が響く。
ベヒモスは主の命令に応えるように、鼓膜が破れんばかりの地鳴りのような咆哮を上げた。それだけで空気が激しく震え、限界を迎えているアベルの身体が強風に煽られたように大きくよろめいた。
「アベル、あんたはそこで休んでな! あんな図体だけの岩石野郎、あたしがスクラップにしてやる!」
泥水の中からふらふらと立ち上がろうとするアベルを背中で庇い、ベリアが巨大なミスリルハンマーを両手で構えて前に出た。
彼女の顔には恐怖の色はない。あるのは、愛する弟分をここまで傷つけられたことに対する、火山のような怒りだけだった。
「おおおおおぉぉッ!」
ベリアは短い脚から爆発的な脚力を生み出し、泥濘を蹴り立ててベヒモスの正面へと突撃した。
ドワーフの怪力と、遠心力を極限まで乗せた渾身の一撃。ミスリルのハンマーが空気を切り裂き、ベヒモスの太い前足の関節を狙って正確に振り下ろされる。
ガァァァァァンッ!!
巨大な鐘を打ち鳴らしたような、凄まじい金属音が地下空間に響き渡った。
しかし、ハンマーを振り抜いたベリアの顔に、驚愕の色が浮かぶ。
「なっ……! 弾かれた!?」
強烈な打撃を受けたにもかかわらず、ベヒモスの前足の岩鱗には、ほんの僅かなヒビすら入っていなかった。
逆に、ミスリルハンマーを通して跳ね返ってきた凄まじい反作用の衝撃が、ベリアの両腕を激しく打ち据えた。手が痺れ、ハンマーを取り落としそうになる。
その一瞬の隙を突いて、ベヒモスが丸太のような巨大な尾を無造作に振り抜いた。
「しまっ……!」
ベリアは咄嗟にハンマーの柄を盾にして防御姿勢をとったが、圧倒的な質量による打撃を防ぎきれるはずもなかった。
凄まじい衝撃と共に、ベリアの小柄な身体がボールのように弾き飛ばされ、泥水の中を激しく転がっていく。
「ベリアッ!」
アベルが叫び、痛みに悲鳴を上げる足に無理やり力を込めて立ち上がった。
右手の純白のナイフを構えようとするが、限界を超えた連続同化の代償により、腕は鉛のように重く、視界は赤と黒のノイズが混ざって激しく点滅している。
「無駄だ無駄だ! 魔法の使えないこの地下迷宮で、純粋な物理的強度と質量においてベヒモスを上回る生物など存在しねえ!」
ザザが狂ったように笑い声を上げる。
どうする。どうやってあの巨獣を倒す。
アベルは霞む頭で必死に思考を回した。
自身の肉体に再び『土』や『風』の魔獣を同化させれば、数秒だけなら動けるかもしれない。だが、今の自分の肉体で同化を行えば、十中八九、反動で全身の血管が破裂してショック死する。
それでも、やるしかないのか。自らの命と引き換えにしてでも、あの岩の装甲を貫くために。
アベルが覚悟を決め、泥だらけの唇から悲壮な詠唱を紡ごうとした、まさにその時だった。
「……無謀な突撃はよせ、ベリア。アベル、貴様もそれ以上、そのボロボロの体で術を使うな」
泥濘の底から響いたその声は、ひどく掠れてはいたが、かつてないほどの静謐な強さを帯びていた。
アベルが驚いて振り返る。
そこには、泥水の中に四つん這いになり、泥の中に半分埋もれていた自身の『細剣』の柄を、震える手でしっかりと握りしめているシオンの姿があった。
「シオン……?」
シオンは泥を掴んでふらふらと立ち上がった。
純白だった軍服は元の色がわからないほどに汚れ、端正な顔にもべったりと泥と血がこびりついている。
少し前まで、プライドを砕かれて無様に泣き叫んでいた少年の姿。
しかし、泥に塗れた顔を上げたシオンの青い瞳の中からは、他者を見下す傲慢な天才の光は完全に消え去っていた。代わりにそこにあったのは、己の弱さを完全に認め、それでも仲間のために立ち上がろうとする、一人の泥臭い『戦士』の凄みだった。
(……私は、何を勘違いしていたのだろうな)
シオンは泥の滴る細剣を構えながら、静かに自嘲した。
自分が天才と呼ばれていたのは、ただ安全な場所から魔法を放つ環境が整っていたからにすぎない。
本当に強い者とは、アベルのように、痛みと泥濘の中でも決して膝を屈することなく、誰かを護るために剣を握り続けられる者のことを言うのだ。
近衛隊長ガロの実戦訓練の記憶が、シオンの脳裏に鮮明に蘇る。
『シオン。お前の剣は綺麗すぎる。実戦では、敵はお前の剣の軌道に合わせてはくれない。泥を這い、血を吐き、時には無様に逃げ回りながらでも、最後に相手の心臓を貫いた者が生き残る。それが戦士というものだ』
あの時、シオンはガロの言葉を「洗練されていない野蛮な者の言い訳だ」と冷たく切り捨てた。
だが、今のシオンには、その言葉の本当の重みが痛いほどに理解できた。
「……アベル。貴様の戦い方、少しだけ真似させてもらうぞ」
シオンは己の軍服の袖を乱暴に引きちぎり、左腕の深い傷口をきつく縛り上げて止血した。
痛みに顔が歪むが、彼は決して悲鳴を上げなかった。アベルがこれまで耐え抜いてきた痛みに比べれば、こんなものはかすり傷に等しい。
「シオン、お前……剣を……」
アベルが目を見張る中、シオンは足を引きずりながらアベルの横へと並び立った。
「勘違いするな。魔法を封じられている以上、私の召喚術はこの空間では無力だ。……だが、私は魔法に頼るだけの魔術師ではない。ローラン様とガロ様から叩き込まれた、フェザーン最強の剣術の系譜を継ぐ者だ」
シオンは泥だらけの細剣の切っ先を、巨大なベヒモスへと真っ直ぐに向けた。
「あの岩の巨獣は、正面から叩いても装甲は砕けない。だが、どんな生物にも必ず関節の隙間と、装甲の薄い急所が存在する。ベリアの打撃が弾かれた際、奴の首の付け根と前足の裏側に、装甲の継ぎ目があるのを見た」
シオンの瞳は、極限状態の中で氷のように冷たく、そして鋭く敵の弱点を見定めていた。
天才としての驕りを捨て、純粋な観察眼と剣技だけを信じる。それが、泥水の中から立ち上がったシオンが見出した、新しい己の戦い方だった。
「アベル、ベリア。貴様らの無骨な力で、あの巨獣の体勢を崩してくれ。私が、その装甲の隙間にこの細剣を突き立てる」
「はっ、言うようになったじゃないか、すかした優等生。その泥だらけの顔、王都にいた頃より何倍もいい男に見えるよ!」
泥の中から立ち上がったベリアが、豪快に笑いながら再びハンマーを構えた。
アベルもまた、泥に塗れたシオンの横顔を見て、不器用な笑みを浮かべた。
「ああ。……任せろ、シオン。お前のために、最高の道を作ってやる」
アベルは右手の純白のナイフを強く握り直した。
魔法が使えない空間。満身創痍の肉体。絶望的な巨大魔獣。
しかし、もはや特命部隊の心に恐れはなかった。天才の剣技、半端者の知略と覚悟、そしてドワーフの剛力。
誰一人欠けてはならない三つの刃が、魔王軍の幹部が放つ絶対的な暴力を打ち砕くため、ついに完璧な連携の陣形を敷いたのである。




