第26話 崩れゆく壁と、泥だらけの背中
泥に塗れた地下迷宮の最下層。
シオンを庇うように立ち塞がったアベルの身体は、すでに満身創痍という言葉すら生ぬるい状態だった。
「ハアッ……、シィッ!」
アベルの右手に握られた『風の刃を纏う曲刀』が、暗闇の中で翠緑色の軌跡を描く。
飛びかかってくる魔獣の分厚い皮膚を物理的に切り裂き、その命を絶つ。だが、風の魔獣を同化させて得た敏捷性をもってしても、連続同化で限界を超えたアベルの肉体は、明らかにその反応速度を落としていた。
一体を斬り伏せる間に、別の魔獣の牙がアベルの太ももを浅く掠め、鋭い爪が彼の背中を容赦なく引き裂いていく。
血飛沫が舞い、アベルは苦痛に顔を歪めながらも、決してシオンの前から一歩も退こうとはしなかった。
「もう……やめろ、アベル……!」
背後の泥水にへたり込んだまま、シオンは震える声で叫んだ。
アベルの両足は小刻みに震え、今にも崩れ落ちそうなほどに限界を迎えている。それでも彼は、背後のシオンに敵を近づけまいと、必死に痛みを堪えて立っているのだ。
「お前が……そこで死ぬ必要はない! 私はお前の指示に背いた、見捨てられて当然の愚か者だぞ! なのに、どうして……!」
悲痛なシオンの叫びに、アベルは荒い息を吐きながら、血に塗れた顔を少しだけ後ろに向けた。
「……仲間を見捨てるくらいなら、半端者って笑われた方がマシだ」
アベルの瞳には、一切の揺らぎがなかった。
自分がどんなに無様でも、どれだけ泥と血に塗れても構わない。ただ、仲間の命だけは絶対に死守する。それは、かつて世界を救った偉大な父ヴァンから受け継いだ、途方もなく不器用で、底抜けに優しい強さだった。
シオンはその横顔を見て、胸の奥が張り裂けそうになった。
完璧な剣術も、強力な召喚魔法も、今の自分にはない。誇り高き天才の仮面は泥の中に落ち、ただ死に怯える無力な石ころに成り果てた。
だが、そんな自分を、アベルは命を懸けて護ろうとしている。
自分が見下していた男の背中が、今はどんな強固な城壁よりも巨大で、頼もしく見えた。
「グルルァァァッ!」
アベルの体力が尽きかけているのを悟ったのか、生き残っていた五体の魔獣が、一斉に四方から彼に向かって跳躍した。
もはやアベルの振るう曲刀の速度では、そのすべてを捌き切ることはできない。
「『疾風』を解除……! 我が肉体を器とし、その力を現せ……『深き土のモグラ』!」
アベルは最後の力を振り絞り、風から土への同化切り替えを強行した。
全身の毛細血管が弾け、両目から血の涙がこぼれ落ちる。肉体が岩のように硬直化し、右手の曲刀が、防御に特化した『分厚い大盾のような短剣』へと一瞬にして物理的な変形を遂げる。
ガガァァァンッ!!
魔獣たちの激しい体当たりと牙の刺突が、土の剛力を宿したアベルの肉体と大盾に激突した。
アベルは両足を泥に深く沈め、その凄まじい質量の暴力を真正面から受け止める。
筋肉が悲鳴を上げ、関節が外れかけるが、アベルは奥歯を噛み砕いてその場を死守した。シオンにだけは、絶対に攻撃を届かせない。
「が、ああああぁぁぁッ!!」
アベルの口から、限界を超えた絶叫が地下空間に響き渡る。
しかし、いかに土の魔獣の力をもってしても、すでに限界をとうに超えていたアベルの肉体は、五体の魔獣の重圧を支えきれず、ゆっくりと膝を折らされようとしていた。
シオンが絶望に目を閉じた、まさにその時だった。
ズドォォォォォォンッ!!!
地下迷宮の分厚い石壁が、凄まじい爆発音と共に木っ端微塵に粉砕された。
粉塵と瓦礫が嵐のように舞い散り、魔獣たちが驚いてアベルから距離を取る。
開いた巨大な大穴の向こう側から、もうもうと立ち込める土煙を切り裂いて姿を現したのは、身の丈ほどもある巨大なミスリルハンマーを肩に担いだ、豪快な笑みを浮かべるドワーフの少女だった。
「ったく、世話の焼ける馬鹿野郎どもだね。お待たせ、アベル!」
「ベリア……!」
アベルが泥だらけの顔を上げ、安堵の声を漏らす。
村人たちの避難を終えたベリアは、坑道の入り口からではなく、自身の鍛冶師としての空間把握能力と自慢の怪力を活かし、地上の採石場から砦の最下層へ向かって、文字通り壁を物理的にぶち抜いて一直線に駆けつけてきたのだ。
「よくもあたしの可愛い弟分をボロボロにしてくれたね、この薄汚い犬っころども!」
ベリアは巨大なハンマーを軽々と振り回し、アベルを取り囲んでいた魔獣たちに向かって一直線に突撃した。
魔法を封じられているこの空間でも、ベリアの純粋な身体能力と、ミスリルの重さを乗せた物理的な打撃には一切の制限がない。
「吹き飛びなっ!」
凄まじい風切り音と共に振り抜かれたハンマーが、先頭の魔獣の胴体を正確に捉える。
バキィィッという骨の砕ける鈍い音と共に、魔獣の巨体がボールのように弾き飛ばされ、反対側の石壁に激突して完全に絶命した。
残る魔獣たちが威嚇の唸り声を上げるが、ベリアは怯むことなく次々とハンマーを叩きつけ、瞬く間に残存していた野良魔獣たちを血の海へと沈めていった。
「アベル! 大丈夫かい!」
戦闘を終えたベリアが、すぐにハンマーを背中に納めてアベルの元へと駆け寄る。
「ああ……。助かったよ、ベリア。村人たちは?」
「キップが馬車の周りに防衛線を張って、温かいスープを飲ませてる。全員無事さ」
「そうか……。よかった」
アベルはついに緊張の糸が切れ、土の魔獣の同化を解除すると、泥水の中にバタリと倒れ込んだ。
「おい、すかした優等生!」
ベリアはアベルを抱き起こしながら、背後で震えているシオンに向かって怒声を浴びせた。
「あんたが勝手に突っ走ったせいで、アベルがどれだけ無茶をしたかわかってんのか! あんたのその腐ったプライドのせいで、アベルが死にかけてるんだぞ!」
ベリアの言葉は、鋭い刃となってシオンの胸に突き刺さった。
言い訳の言葉は何も出なかった。ただ、泥に塗れた手を強く握りしめ、自身の無力さと愚かさを噛み締めることしかできなかった。
しかし、シオンを責め立てるベリアの言葉を、血を吐きながらアベルが静かに制止した。
「よせ、ベリア。……シオンは無事だ。それだけで十分だろ」
アベルのその底抜けの優しさに触れ、シオンは泥水の中に膝をついたまま、深く、深く頭を垂れた。
「……すまなかった。私の、私の完全な傲慢だった……」
シオンの口から、これまでの彼からは想像もつかないほど弱々しく、しかし真に迫った謝罪の言葉が紡がれる。
その時、地下空間の遥か上方、通気孔から繋がる広場のバルコニーから、不機嫌そうな舌打ちの音が響き渡った。
「チッ、どいつもこいつも小賢しい真似を。封魔石の空間で、自らの肉体を獣に変えて強行突破する狂人がいるとはな」
猛獣使いのザザが、忌々しそうにアベルとベリアを見下ろしていた。
「だが、これで終わりだと思うなよ。俺の地下迷宮の真の恐怖は、こんな野良犬の群れじゃねえ」
ザザが手にした髑髏の杖を高く掲げると、地下広場の最も奥にある、巨大な黒鉄の檻が重々しい音を立てて開き始めた。
そこから現れたのは、これまでの魔獣とは次元が違う、圧倒的な質量と絶望的な瘴気を放つ存在だった。
「食い殺せ。俺の最高傑作、『地獄の暴食獣・ベヒモス』よ!」
地鳴りのような咆哮が響き、全身を鋼鉄のように硬い岩の鱗で覆われた、見上げるほど巨大な四つ足の猛獣が、その恐ろしい姿を迷宮の闇の中に現したのである。




