第25話 泥の中の邂逅と、血に塗れた盾
迫り来る死の気配。
目を閉じたシオンの頬に、魔獣の口から滴る生温かい涎と、腐肉の入り混じった生臭い息が吹きかかった。
(ああ、私の人生は、ここで終わるのか……)
天才と持て囃され、誰の汗も血も浴びることなく、ただ高みから世界を睥睨していた短い生涯。
その最期が、魔法すら使えない薄暗い泥の底で、名もなき獣の餌食になるという無様な結末だとは。シオンは震える唇を噛み締め、これから自身の首筋に突き立てられるであろう鋭い牙の激痛を、ただ怯えながら待つことしかできなかった。
獣の喉が低く鳴り、巨大な顎がシオンの急所へと躊躇なく振り下ろされる。
シオンが全ての希望を捨て、完全に意識を闇へ委ねようとした、まさにその刹那だった。
ドガスッ!!
暗闇の底に、鈍く、そして凄まじい肉の衝突音が響き渡った。
シオンの顔にべったりと生温かい血飛沫が降り注ぐ。しかし、それはシオン自身の血ではなかった。彼に食らいつこうとしていた巨大な魔獣が、横から飛び込んできた「何か」によって、凄まじい勢いで泥水の中へと弾き飛ばされたのだ。
「……えっ?」
何が起きたのか理解できず、シオンは泥に塗れた顔をゆっくりと上げた。
視界に飛び込んできたのは、彼と魔獣たちの間に立ち塞がる、一人の小柄な背中だった。
服はズタズタに引き裂かれ、元の色がわからないほどに泥と赤黒い血で汚れきっている。右腕は不自然な方向にだらりと垂れ下がり、息をするたびに口から血の泡を吐き出している、満身創痍の少年。
その右手に握りしめられているのは、主の限界を超えた魔力波長に呼応し、微かに震えながら『風の刃を纏う曲刀』の形を維持している、純白のミスリルナイフだった。
「ア……ベル……?」
信じられないものを見るような、掠れた声がシオンの口から漏れた。
アベルは肩で激しく息をしながら、弾き飛ばした魔獣が泥の中で痙攣して動かなくなるのを確認すると、ゆっくりとシオンの方へ振り返った。
その顔は、泥と埃、そして自身が流した血と涙でぐちゃぐちゃになっていた。高貴な王子の面影などどこにもない。ただ泥を這いずり回り、死線を越えてきた一人の泥臭い戦士の顔がそこにあった。
「間に合って……よかった……」
アベルは血まみれの口元を微かに歪め、不器用な笑みを浮かべた。
シオンは絶句した。
アベルの身体は、誰の目から見てもとうの昔に限界を迎えていた。骨は軋み、筋肉は断裂し、立っていることすら不思議なほどの重傷だ。彼がここへ辿り着くまでに、どれほどの絶望的な罠を、魔法の力も借りずに己の肉体とナイフ一つで越えてきたのか。想像するだけでシオンの心が震えた。
「なぜ……。なぜ、お前がここにいる……!」
シオンは混乱と恥辱、そして理解の及ばない感情に苛まれながら叫んだ。
「私はお前の命令を無視した! お前のやり方を臆病だと嘲笑って、一人で勝手に飛び出したんだぞ! なのに、なぜお前は……そんなボロボロになってまで……!」
シオンの悲痛な叫びを受け、アベルは痛む胸を押さえながら、静かに、しかしはっきりとした声で答えた。
「……仲間だからだ」
その言葉には、一切の打算も、シオンを責める響きもなかった。
「お前は嫌がるかもしれないけど……俺にとって、お前は一緒にこの世界を救う、大切な特命部隊の仲間なんだ。だから、絶対に一人で死なせたりしない。……何度お前が突っ走っても、俺が泥まみれになって助けに行ってやる」
アベルは再びシオンに背を向け、周囲を囲む十体以上の魔獣たちを睨みつけた。
「アベル、逃げろ……! 今のお前の身体で、そんな数の獣と戦えるわけがない! 魔法の使えないこの空間では、お前のその半端なナイフ一つじゃ……!」
「半端で上等だ」
アベルは残された気力を振り絞り、自身の肉体に宿る風の魔力を極限まで高めた。
右手の曲刀が、主の命の炎を燃やすように激しい風の刃を噴き出す。
「お前は俺を器用貧乏だと言ったな。確かに俺は、お前みたいに完璧に敵を倒すことはできない。遠くから魔法で吹き飛ばすこともできない。……でもな、シオン」
アベルは両足を泥の中にしっかりと踏み締め、迫り来る魔獣の群れに対して、一歩も退かずにナイフを構えた。
「泥に塗れて、痛みに耐えて、無様に足掻き続けることなら……俺は誰にも負けない。お前を護るための盾くらいには、十分になれる」
その言葉を聞いた瞬間、シオンの胸の奥底で、頑なに張り詰めていた何かが完全に崩れ落ちた。
完璧でなければならないという呪縛。他者を見下すことでしか保てなかった脆い自尊心。
それらがすべて、目の前で命を削って自分を護ろうとする、不器用で泥臭い『半端者』の背中によって、粉々に打ち砕かれたのだ。
「ああ……」
シオンは両手で顔を覆い、泥水の中で声を上げて咽び泣いた。
自分がどれほど愚かで、傲慢で、弱い人間であったか。
そして、自分が常に見下していたアベル・アッシュクロフトという少年が、どれほど巨大で、温かく、決して折れることのない真の強さを持っていたか。
「グルルァァァッ!!」
シオンの泣き声を合図にしたかのように、残る魔獣たちが一斉にアベルに向かって飛びかかってきた。
アベルは血を吐きながらも、決してシオンの前から動こうとはしなかった。
右手の曲刀を振るい、迫る牙を物理的に斬り裂き、受け流す。しかし、圧倒的な数の暴力の前に、アベルの身体にも次々と新たな傷が刻まれていく。
それでも、アベルは倒れない。
泥と血に塗れた絶望の地下迷宮の底で、二人の若き戦士は、初めて同じ泥濘の中に身を置き、互いの真の姿を魂に刻み込んでいた。
砕け散った天才の自尊心と、すべてを受け止める半端者の器。
特命部隊が真の意味で一つの絆で結ばれるための、最も痛ましく、そして最も尊い儀式が、魔王軍の仕掛けた冷たい闇の中で静かに執り行われていたのである。




