第3話 忍び寄る暗黒と、王城の軍議
フェザーン王国の中心にそびえ立つ白亜の王城。その最も奥深く、限られた者しか足を踏み入れることの許されない円卓の間は、かつてないほどの重く冷たい静寂に包まれていた。
窓の外には、王都の煌びやかな夜景が広がっている。魔力灯の優しい光が街路を照らし、二十年の歳月をかけて築き上げられた平和と繁栄がそこにはあった。
しかし、分厚い扉で隔てられたこの円卓の間だけは、まるで空気が凍りついているかのような極度の緊張感が漂っていた。
巨大な円卓を囲むように座っているのは、この世界の歴史を己の力で切り拓いてきた生ける伝説たちである。
フェザーン王国初代国王、ヴァン。
王妃であり、世界で唯一の同化召喚師、セリア。
王国宰相にして竜人の長、ローラン。
王宮近衛隊長にして魔族の戦士、ガロ。
財務大臣のルミナに、建設大臣のドワーフ、バルガン。
かつて数々の理不尽を打ち砕き、世界を救った大人たちの顔には、今、一様に険しい影が落ちていた。
「……先ほど、国境の監視哨から最終報告が上がった。人間の辺境にある巨大な防衛都市が一つ、魔界の軍勢によって完全に制圧された。駐屯していた守備隊は全滅したとのことだ」
沈黙を破ったのは、近衛隊長であるガロの低くしゃがれた声だった。
彼が円卓の中央に置かれた魔道盤に触れると、大陸全土を記した立体的な光の地図が浮かび上がる。その東の果て、人間の国が治めていたはずの堅牢な都市が赤く点滅し、やがて禍々しい黒色へと塗り潰されていく。
「たったの一夜で、ですか……」
財務大臣のルミナが、信じられないというように口元を覆った。大人の女性へと成長し、フェザーンの莫大な経済を牛耳る彼女であっても、この報告には動揺を隠せない。
「あそこは人間の国の中でも有数の防壁都市です。数千の精鋭が駐屯し、豊富な物資もあったはず。いくら凶暴な野良魔物の群れが押し寄せたとしても、一夜で陥落するなどあり得ません」
「ただの魔物の群れじゃねえってことだ。高度な知性を持った指揮官が率いる、組織的な『軍隊』による包囲殲滅戦が行われたとしか考えられねえ」
バルガンが太い腕を組み、忌々しそうに舌打ちをした。
「その通りです。そして、最も恐るべきはこのデータです」
宰相ローランが冷徹な声で告げ、魔道盤を操作する。黒く塗り潰された辺境都市の跡地から、おぞましい漆黒の瘴気の数値が計測され、波形となって空中に表示された。
「この異常な次元の歪み、そして魔力波長。……我々はよく知っています。二十年前、この新大陸の最奥部で観測されたものと完全に一致している」
ローランの言葉に、円卓の空気がさらに一段階、重く沈み込んだ。
「馬鹿なっ! 魔界への扉なら、あの時俺とガロの旦那で、星脈の核を使って完璧に封印したはずだぞ! あの結界が破られたっていうのか」
バルガンが立ち上がり、声を荒らげた。
「いや、俺たちが施した旧魔界の扉の封印は今も健在だ。だが……何者かが、途方もない力を使って、世界を隔てる次元の壁を無理やりこじ開け、『新たな扉』を人間の領土に創り出した。そう考えるしかありません」
ガロの冷静な分析に、バルガンは悔しそうに椅子に座り直した。
「……あの時、バルバトスの背後に存在していた巨大な悪意。彼らを統べる大魔王の侵略が、再び始まったのですね」
セリアが、祈るように両手で組んだ指を白くなるほど強く握りしめた。
二十年前、絶望的な力を持った四天王を退けたものの、その次元の奥底に潜む大魔王そのものを倒したわけではない。奴はただ、扉が閉じたことによってこちら側に干渉できなくなっていただけなのだ。
「ああ。だが、不可解な点がある」
円卓の上座。それまで無言で光の地図を見つめていた国王ヴァンが、静かに口を開いた。
実用的な軽鎧を纏ったままの彼は、王冠こそ被っていないが、そこに座っているだけで揺るぎない大樹のような安心感を放っている。
「監視哨からの報告をよく見てくれ。都市の建造物やインフラ、防衛設備の大半は破壊されず、そのまま残されている。奴らはただ邪魔な人間を排除し、街の機能をそのまま『乗っ取って』いるんだ」
ヴァンの指摘に、ローランがはっとしたように魔道盤を覗き込んだ。
「破壊や虐殺が目的ではない……。我々の世界を、自分たちの領土や軍事拠点としてそのまま利用するつもりだという事ですか」
「おそらくはな」
ヴァンは鋭い観察眼を光らせ、立体地図に浮かぶ敵の動きを推測する。
「もしその大魔王とやらが、直接出向いて世界を一瞬で無に帰すほどの規格外の力を持っているなら、わざわざ回りくどい真似はしないはずだ。だが奴はそうせず、律儀に指揮官を立て、手駒の軍勢を送り込んで拠点を制圧している。つまり、大魔王自身はこちらの世界へ直接来られない何らかの制約があるか、あるいは、この世界を『無傷のまま』手に入れたいからこそ、文明を残すような計画的な侵略を行っているんだろう」
ヴァンの戦士としての冷静な推論に、全員が深く頷いた。
大魔王の姿を見たことはない。だが、敵の「戦い方」を見れば、その目的と底知れぬ狡猾さは嫌というほど伝わってくる。これは本能で暴れるだけの災害級魔物よりも遥かに厄介な、理路整然とした侵略戦争なのだ。
「我々フェザーン王国の正規軍を動かしますか。バルガンの飛空艇部隊を投入すれば、辺境の魔界軍など数日で灰燼に帰すことができますが」
ローランが冷徹な戦術家としての顔を覗かせて提案する。現在の大陸において、フェザーン王国の軍事力と技術力は他国を凌駕して圧倒的だった。
「いや、駄目だ。正規軍や飛空艇という巨大な戦力を真正面からぶつければ、魔界軍も本腰を入れて対空魔法や大規模破壊兵器を展開してくる。戦火は瞬く間に大陸全土へ広がり、巻き込まれた人間の国々は焼け野原になるだろう。敵が設備を残そうとしている以上、大戦争を起こして世界を焦土に変えるのは下策だ」
ヴァンは即座にそれを却下した。
彼らがこの二十年で培ってきたのは、武力で他国をねじ伏せ、焼け野原の上に立つための力ではない。誰もが笑って暮らせる世界を維持するための力だ。
「ならば、どうする。また俺たちで出向くか」
ガロが、かつての血湧き肉躍る日々を思い出すように、顔の傷を撫でながら微かに笑う。
最強の戦士と最高の召喚師、そして一騎当千の仲間たち。彼らが再び最前線に立てば、魔界の幹部など恐るるに足りない。
しかし、ヴァンはゆっくりと首を横に振った。
「俺たちが王都を空ければ、国が揺らぐ。大魔王の狙いが王城の手薄を突くことである可能性も否定できない。それに……」
ヴァンは一度言葉を切り、円卓の向こうにいるセリアと目を合わせた。セリアはヴァンの言わんとしていることを察し、小さく、しかし力強く頷いた。
「俺たちは、この平和な二十年間で強くなりすぎた。国も、軍も、俺たち自身もだ。だが、平和というものは、決して誰かが永遠に与え続けるものではない。自らの手で掴み、護り抜く覚悟がなければ、いつか必ず腐敗して崩れ去る」
ヴァンの静かな、しかし熱を帯びた声が円卓の間に響く。
「この世界の未来を担うのは、俺たちじゃない。次世代の若者たちだ」
「次世代……。まさかヴァン、お前」
バルガンが目を見開いた。ローランも、ルミナも、ガロも、ヴァンの意図に気づき息を呑む。
「あいつらには、才能がある。俺たちが若い頃よりも遥かに大きな可能性が眠っている。アベルも、シオンも、ベリアも、キップもだ」
ヴァンは円卓の光の地図を見つめながら、不器用な親としての、そして王としての決断を口にした。
「魔界討伐の特命部隊を編成する。選ばれし少数の精鋭として敵の懐に潜り込み、占領された街を解放しながら、新たな魔界の扉を破壊する。その過酷な旅路の中で、あいつらは必ず強くなる。自分たちの手で世界を護る、本当の意味を知るはずだ」
重厚な沈黙が流れた。
愛する我が子を、未熟な弟子たちを、死と隣り合わせの過酷な戦場へと送り出す。大人たちにとって、それは自らが戦場へ赴くよりも遥かに身を切られるような、辛く重い決断だった。
しかし、誰も反対の声を上げる者はいなかった。彼らは皆、困難に立ち向かうことでしか得られない強さがあることを、身をもって知っていたからだ。
「……王の御心のままに。ただちに、特命部隊の編成準備に入りましょう」
ローランが恭しく一礼し、軍議は静かに幕を閉じた。
大人たちが世界の命運を懸けた重い決断を下していたその頃。
王都の片隅、自室のベッドに寝転がっていたアベルは、そんな事態になっていることなど露知らず、窓から見える綺麗な満月を見上げていた。
己の半端な力への劣等感に胸を痛めながら、ただ平和な明日が来ることを信じて。
自分たちの肩に、この世界の存亡という巨大な運命がのしかかろうとしていることなど、若き王子は知る由もなかった。




