第23話 泥に塗れた石ころと、絶壁の跳躍
迫り来る凶悪な牙を前に、シオンは悲鳴を上げて両腕で顔を覆った。
直後、彼の左前腕に、焼け火箸を押し当てられたかのような凄まじい激痛が走った。
「がああぁぁぁッ!!」
魔獣の分厚い顎が、シオンの細い腕の肉を深く食い破り、骨にまでその牙を到達させていた。
完璧な空間支配を誇り、敵の攻撃をかすらせることすら許さなかった天才剣士の肉体に、初めて他者の明確な『殺意』が物理的に突き立てられた瞬間だった。
シオンは泥濘の中に仰向けに倒れ込みながら、自身の腕に食らいつく獣の重みと痛みに狂乱した。
振り払おうにも、魔獣の強靭な首の力はシオンの筋力を軽々と凌駕している。ギリギリと骨が軋む不快な音がシオンの耳の奥で響き、このまま腕を食いちぎられ、次は喉笛を裂かれるという極限の恐怖が彼の理性を完全に焼き切った。
「離せ……! 離せええぇっ!!」
シオンは泥に塗れた右手で周囲を盲目的に掻き毟り、泥の中に半分埋まっていた、手のひら大の尖った石ころを掴み取った。
そして、かつてフェザーン王都の誰からも「美しく完璧だ」と称賛されたその手で、ただ無我夢中に、獣の頭部に向かって不格好に石を何度も何度も叩きつけた。
ガンッ! ガッ、ガンッ!
「死ね! 離せ! 私は、天才のシオンだぞ……!」
泥と血を撒き散らしながら石を打ち据えるその姿には、もう流麗な剣士の面影など微塵も残っていなかった。ただ死の恐怖に怯え、泥に塗れて這いずり回る、一人の無力な人間の醜い足掻き。
彼が最も見下し、忌み嫌っていた『洗練されていない泥臭い戦い』を、他でもない彼自身が泣き叫びながら行っているのだ。
数度目の打撃が運良く魔獣の眼球を捉え、獣が短い悲鳴を上げてシオンの腕から牙を抜いた。
その隙を見逃さず、シオンは泥水の中を這うようにして後ずさり、壁際まで後退して激しく息を喘がせた。
左腕からは止めどなく鮮血が溢れ出し、泥水と混ざり合ってどす黒い染みを作っている。
シオンは震える右手で石ころを握りしめたまま、周囲を囲む十体以上の魔獣たちを絶望的な目で見つめた。
魔獣たちはすぐに襲いかかってくることはしなかった。
獲物が完全に心を折り、抵抗の意思を失うのをゆっくりと楽しむかのように、じりじりと包囲の輪を狭め、飢えた涎を垂らしている。
遥か上部の通気孔からは、この迷宮の主であるザザの歪んだ哄笑が、シオンを嘲笑うように響き渡っていた。
「どうした、エリート剣士様。お前の自慢の魔法を見せてみろよ。それとも、その泥に塗れた石ころがお前の新しい召喚獣か?」
ザザの嘲笑が、シオンの耳にこびりつく。
シオンは自分の手の中にある、血と泥に塗れた石ころを見た。
これが、今の自分の武器。魔法を封じられ、細剣すら手放してしまった自分に残された、唯一の抗う力。
「ああ……、あぁ……」
シオンの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
痛い。怖い。死にたくない。
完璧に計算された戦術も、誇り高きプライドも、この暗闇の泥濘の中では何の役にも立たない。
自分は天才などではない。ただ環境に恵まれていただけで、想定外の暴力の前では、アベルよりも遥かに脆く、弱い存在だったのだ。
シオンは膝を抱え、獣たちが一斉に飛びかかってくるその時を、ただ震えながら待つことしかできなかった。
* * *
シオンが泥濘の底で絶望に呑み込まれていた頃、アベルもまた、次なる死の罠に直面していた。
冷たい地下坑道を足を引きずりながら進んでいたアベルの視界から、突如として『道』が消え去った。
ザザが仕掛けた巨大な落とし穴。いや、それはただの穴ではない。坑道の床そのものが斜度八十度近い滑り台のように下方へと急激に傾斜しており、その表面は特殊な魔法の油で磨き上げられたようにツルツルと滑る岩肌になっていた。
そして、その遥か数十メートル下の底には、錆びついた巨大な鉄の槍が無数に上を向いて配置された、残酷な剣山が待ち受けていた。
「しまっ……!」
気づいた時には、すでにアベルの身体は滑る床へと投げ出され、漆黒の虚空へと真っ逆さまに滑落を始めていた。
指先を引っ掛けるような僅かな凹凸すら存在しない。このまま落ちれば、間違いなく串刺しになって絶命する。
落下の無重力感の中で、アベルは瞬時に己の肉体に魔法陣を展開した。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『深き土のモグラ』!」
激痛と共に土の魔獣の剛力が肉体に宿り、右手のフェザーンのナイフが分厚く重い『掘削用の短剣』へと姿を変える。
アベルは落下しながら身体を捻り、滑る岩肌に向かって、その分厚い刃を渾身の力で突き立てた。
ガガガガガァァァッ!!
ミスリルの刃が硬い岩肌を削り、火花が暗闇に散る。凄まじい摩擦と落下のエネルギーが、アベルの右腕の関節を容赦なく引きちぎろうと暴れ狂う。
「ぐあぁぁぁっ!!」
肩の筋肉が悲鳴を上げ、亜脱臼するような激しい痛みにアベルは絶叫した。
しかし、彼は絶対に右手の柄から指を離さなかった。
数秒の壮絶な摩擦の後、分厚い短剣は岩肌に深く食い込み、アベルの身体は底の剣山まであと数メートルという空中で、ギリギリで停止した。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
宙吊りになった状態で、アベルは全身から滝のような冷や汗を流し、激しく息を喘がせた。
下を見れば、錆びた鉄槍が鋭い切っ先を突き出している。上を見上げれば、滑り落ちてきた遥か高い場所に、本来の坑道の入り口が小さく見えた。
落ちることは免れた。しかし、状況は絶望的だった。
壁はツルツルに磨き上げられており、土の魔獣の力をもってしても、刃を突き立てながら上まで登っていくことは不可能に近い。右腕の筋力も限界であり、これ以上この体勢を維持し続けることはできなかった。
「……シオンなら、こんな状況、鼻で笑って魔法で飛んでいくんだろうな」
アベルは千切れそうな右腕の痛みに耐えながら、ぽつりと呟いた。
だが、自分には直接的な魔法はない。できるのは、この肉体に痛みを伴う力を降ろし、それに呼応する物理的な刃の形を変えることだけだ。
「上等だ。俺の半端な力で、この絶壁をぶち抜いてやる」
アベルは冷静に頭の中で手順を組み立てた。
今、刃を抜けば再び落下する。その落下の僅かな時間の間に土から風へと同化を切り替え、落下速度以上の推進力で上へ向かって跳躍するのだ。失敗すれば、鉄槍の餌食になる。
「行くぞ……!」
アベルは岩肌から掘削用の短剣を引き抜いた。
再び始まる恐怖の落下。アベルは即座に同化を強制解除し、立て続けに印を結んだ。
「『土』を解除! 我が肉体を器とし、その力を現せ……『疾風の鎌鼬』!!」
激しい筋肉の痙攣。吐血。
連続同化による内臓が破裂するような激痛を気合いでねじ伏せ、肉体に風の魔獣の敏捷性を満たす。
ナイフが音を立てて『風の刃を纏う曲刀』へと変形した。
「ハアァァッ!」
アベルは落ちていく身体の体勢を空中で強引に制御し、滑る岩肌の壁面を両足で強烈に蹴りつけた。
風の魔獣の力が爆発的な瞬発力を生み出し、アベルの身体は弾丸のように真上へと打ち出される。
壁を蹴り、反対側の壁を蹴る。ジグザグの軌道を描きながら、風の刃を纏う曲刀を推進力の補助として空気を切り裂き、一気に絶壁を駆け上がっていく。
それは、天才の魔法のように優雅でもなく、圧倒的な武力でもない。
ただ己の身体を極限まで痛めつけ、泥臭く物理の法則に足掻き続けるだけの、不格好な跳躍。
ガッ!
最後の一手。アベルの左手が、坑道の縁の岩をしっかりと掴み取った。
そのまま腕の力だけで身体を引き上げ、安全な地面へと転がり込む。
「ごほっ! がはっ……ああっ!」
地面に倒れ込んだアベルは、全身の骨が砕けたような痛みに身悶えした。
連続同化の代償はあまりにも大きく、もはや立ち上がることすら困難なほどに肉体は限界を迎えていた。
だが、彼の握りしめている純白のナイフは、一切の欠けもなく、主の不屈の闘志に寄り添うように静かな輝きを放っていた。
「まだだ……。まだ、止まれない……」
アベルは血まみれの手で岩壁を掴み、ふらふらと立ち上がった。
どれだけ無様でも、どれだけ痛みに顔を歪めても、前へ進む。
自分の弱さを知っているからこそ、アベルの心は決して折れない。
最下層の闇の底で恐怖に震える孤立した天才と、泥を這いながら確実な一歩を刻み続ける半端なリーダー。
迷宮の闇を切り裂くアベルの歩みは、ザザの張り巡らせた死の罠を越え、ついにシオンの待つ最奥部へと近づきつつあった。




