第22話 砕け散る自尊心と、泥を這う覚悟
永遠にも似た暗黒の地下空間。
そこは、シオンがこれまで積み上げてきた「完璧な天才」という虚像を、ゆっくりと、しかし確実にすり潰していく残酷なすり鉢であった。
「……はぁっ、はぁっ……!」
重い泥濘に足を取られながら、シオンは泥まみれになった細剣を無我夢中で振り回していた。
刃が獣の硬い毛皮を切り裂き、生温かい血の飛沫がシオンの青白く美しい顔にべったりと張り付く。これまでの彼であれば、敵の血の一滴すら自身の軍服につけることはなかった。離れた安全な場所から召喚獣を使役し、魔法で敵を縛り、計算し尽くされた軌道で致命傷だけを奪う。それが彼にとっての「戦闘」だった。
しかし、空間の魔力を強制的に霧散させる封魔石の壁に囲まれた今、彼の戦術は根底から崩壊していた。
「グルルァァァッ!」
背後から跳躍してきた漆黒の猟犬のような魔獣が、シオンの右肩に鋭い牙を突き立てる。
「がああぁっ! 離せ、この薄汚い獣がっ!」
シオンは絶叫し、細剣の柄で魔獣の鼻先を滅茶苦茶に殴りつけた。魔獣が怯んで牙を抜いた瞬間、肩の肉が大きく裂け、鮮血が泥水の中にボタボタと滴り落ちる。
痛い。恐ろしいほどに痛い。
シオンは激痛に顔を歪め、後ずさりをしながら必死に呼吸を整えようとした。だが、濃密な血の匂いに狂乱した魔獣たちは、休む間など一秒たりとも与えてはくれない。
前方から二体の魔獣が同時に飛びかかってくる。シオンは迎撃のために細剣を突き出したが、刃は一体目の魔獣の頭蓋骨に深く食い込み、不快な音を立ててそのまま抜けなくなってしまった。
「くっ、抜けろ……! 動け!」
泥に足を取られた状態で剣を引き抜こうと力んだその時、二体目の魔獣の巨大な前足が、シオンの胸ぐらを強烈に薙ぎ払った。
シオンの細い身体は紙屑のように吹き飛ばされ、再び冷たい泥濘の中へと無様に叩きつけられる。
肺から酸素が強制的に絞り出され、泥水を飲み込んで激しく咳き込んだ。
手放してしまった細剣は、数メートル先の泥の中に突き刺さっている。武器すら失い、丸腰となったシオンを、十体以上の魔獣がじりじりと包囲の輪を縮めて囲み始めた。
(嘘だ……。こんなことが、あってたまるか)
泥に塗れた手を震わせながら、シオンは後ずさる。
頭の中を駆け巡るのは、フェザーン王都での華々しい記憶だった。宰相ローランの厳しい剣術指南も、近衛隊長ガロの実戦訓練も、彼は誰よりも早く、完璧にこなしてきた。大人たちから「フェザーン随一の天才」と称賛され、次世代のリーダーは自分であると疑わなかった。
あの器用貧乏で、いつもおどおどと他人の顔色を窺っているアベルになど、自分が劣っている要素は一つもないと本気で信じていたのだ。
だが、現実はどうだ。
魔法という絶対的な優位性を剥ぎ取られただけで、自分はただの一匹の魔獣相手にすらまともに立ち回れない。
痛みに対する耐性もなく、予測不可能な事態に対する応用力もない。
泥に塗れて這いずり回り、死の恐怖に歯の根が合わないほどガタガタと震えている。
「私に……近づくなぁっ!!」
シオンは泥を掴み、狂乱したように獣たちに向かって投げつけた。だが、そんなもので飢えた獣の足が止まるはずもない。
先頭の一体が大きく口を開け、シオンの喉笛を食いちぎろうと跳躍する。
迫り来る凶悪な牙を前に、シオンはついに両腕で顔を覆い、恐怖に顔を引き攣らせて悲鳴を上げた。天才の傲慢なプライドが、暗闇の底で完全に砕け散った瞬間であった。
* * *
一方、迷宮坑道をさらに深くへと潜っていたアベルの行く手にも、ザザの仕掛けた新たな絶望が立ちはだかっていた。
「……なんだ、これは」
アベルの目の前に広がる坑道は、異常な光景に変貌していた。
壁面や天井にびっしりと張り付いているのは、ただの岩や苔ではない。人間の腕ほどの太さがある、赤黒い脈を打つ不気味な『植物の魔物』の蔦だった。
それらは坑道を完全に塞ぐようにして複雑に絡み合い、微かな振動や熱を感知して蠢いている。ザザが地下の防衛用に配置した、吸血性の寄生植物の巣であった。
少しでも不用意に近づけば、無数の蔦が獲物に巻き付き、全身の血を瞬時に吸い尽くしてしまうだろう。
物理的な斬撃で切り開こうにも、その数はあまりにも多すぎる。
だが、アベルの歩みは止まらない。
シオンが生きている時間を稼ぐために、ここで立ち止まるという選択肢は彼には存在しなかった。
「……やるしかない」
アベルは深く腰を落とし、自身の肉体の奥底で眠る魔力波長を研ぎ澄ませた。
魔法で焼き払うことができないなら、己の肉体と物理的な刃だけを頼りに、この死の蔦の海を強行突破する。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『疾風の鎌鼬』」
痛みを伴う詠唱と共に、風の魔獣の特性がアベルの肉体に同化する。
右手のフェザーンのナイフが、流線型の『風の刃を纏う曲刀』へとスライド変形した。
アベルは呼吸を止め、極限の集中力と共に寄生植物の巣へと身を躍らせた。
ヒュンッ!
アベルの接近に気づいた数本の太い蔦が、鞭のようにしなって襲いかかってくる。
アベルは風の敏捷性でそれを紙一重で躱し、曲刀の鋭い刃で蔦を物理的に斬り裂いた。切断面から緑色の体液が噴き出すが、それを避ける間もなく、今度は四方八方から数十本もの蔦が一斉に殺到してきた。
「シィッ……!」
風の刃を纏う曲刀を旋風のように振り回し、迫り来る蔦を次々と斬り落としていく。
しかし、斬っても斬ってもキリがない。次第にアベルの回避空間が狭まり、ついに一本の太い蔦がアベルの左足首に深く巻き付いた。
「ぐっ!」
蔦に生えた無数の鋭い棘が肉に食い込み、アベルの血を貪り始める。
そのまま強烈な力で天井の方へと引きずり上げられそうになった瞬間、アベルは瞬時に思考を切り替えた。
「『疾風』を解除……!」
空中で風の魔獣との同化を強制解除する。
全身の筋肉が痙攣し、内臓が捻れるような凄まじい反動の痛みがアベルを襲うが、彼は血を吐きながらも次の印を結んだ。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『深き土のモグラ』!」
茶色の魔法陣と共に、今度は土の魔獣の重く強靭な特性がアベルの肉体を満たす。
アベルの身体は岩のように硬く、そして重くなり、引きずり上げようとしていた蔦の張力を完全に上回って地面へと着地した。
それと同時に、右手の曲刀が分厚く巨大な『掘削用の短剣』へと一瞬で質量を変える。
「ハアァァッ!」
アベルは土の剛力を腕に込め、自身の左足に巻き付いていた分厚い蔦を、掘削用の短剣で力任せに叩き斬った。
ブチブチと嫌な音を立てて蔦が千切れ、自由を取り戻す。だが、土の同化状態では俊敏に動くことができない。
周囲の蔦がアベルを完全に包み込もうと巨大な塊となって迫り来る。
アベルは再び同化を解除し、息を呑む暇すらなく風の魔獣を降ろした。
「『疾風の鎌鼬』!」
土から風へ。重さから速さへ。
ナイフが掘削用の短剣から曲刀へと甲高い音を立てて変形する。
筋肉と神経が悲鳴を上げ、両目から血の涙が滲むほどの限界を超えた連続同化。アベルは自身を削りながら、生まれた僅かな隙間を縫うようにして、風の速さで蔦の群れを強行突破していく。
斬り裂き、絡め取られそうになれば重さで引き千切り、再び速さで駆け抜ける。
魔法による一掃ができない以上、この泥臭く痛みに満ちた肉体の酷使だけが、彼を前へ進める唯一の手段だった。
ズバァァンッ!
最後の一際太い蔦の壁を曲刀で十字に斬り裂き、アベルはついに寄生植物の巣を抜け、坑道の奥へと転がり込んだ。
「ごほっ、がはっ……!」
冷たい岩肌にうつ伏せに倒れ込み、アベルは胃液と血の混じった嘔吐物を撒き散らした。
全身の骨が軋み、筋肉は痙攣して言うことを聞かない。
痛覚があるアベルにとって、この同化の連続切り替えはまさに命を削る行為だ。身体中の細胞が「これ以上はやめろ」と激しい警鐘を鳴らしている。
だが、アベルは震える腕で地面を支え、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がった。
右手に握られた純白のナイフが、主の強い意志に呼応するように微かな熱を帯びている。
「……これくらい、どうってことない」
泥と血に塗れた顔を上げ、アベルは暗闇の奥を力強く睨みつけた。
自分は半端者だ。シオンのように涼しい顔で敵を倒すことなんてできない。
泥を這い、血を流し、無様に足掻くことでしか活路を見出せない器用貧乏。
だが、だからこそ。この程度の痛みや泥濘で、心が折れることなど絶対にない。
偉大な父と母の影に怯えながらも、何度も傷つき、何度も立ち上がってきたアベルの精神力は、誰よりも強靭に鍛え上げられていたのだ。
「もう少しだ、シオン。……絶対にお前を、生きて連れ帰る」
アベルは足を引きずりながら、再び迷宮の深淵へと向かって歩みを進める。
砕け散った天才の自尊心と、泥を這う半端者の覚悟。
魔王軍の幹部が冷酷に見下ろす死の遊戯盤の下で、二人の運命の糸は、確実に交わる時を迎えようとしていた。




