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万能で半端な召喚魔法戦士、魔界討伐の旅に出る〜偉大な英雄を両親に持つ王子は、最高の仲間と共に己の刃を鍛え上げる〜  作者: 八咫 日本


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第21話 泥濘の絶望と、痛みを喰らう刃

光すらも泥に沈むような、要塞砦の最下層。

粘り気のある冷たい泥水に膝まで浸かりながら、シオンは荒い息を吐き出し、震える手で細剣を構え続けていた。

「ハアッ……、ハアッ……!」

かつてフェザーン王都の修練場で、いかなる猛者相手にも乱れることのなかった彼の呼吸は、今や限界を超えた肺の悲鳴となって暗闇に響いていた。

完璧に仕立てられていた純白の軍服は、見る影もなく引き裂かれている。泥と自らの血で赤黒く染まった布地が、氷のように冷たい地下の空気を通して、彼の体温を容赦なく奪い去っていく。

暗闇の奥から、低く、おぞましい獣の唸り声が幾重にも響き渡る。

赤い眼光が十、二十と、シオンを取り囲むように浮かび上がった。ザザが飼い慣らす凶暴な野良魔獣の群れだ。

シオンは奥歯を噛み締め、迫り来る一体の魔獣に向けて細剣を突き出した。

剣技そのものの冴えは失われていない。刃は正確に獣の眉間を捉え、その命を絶つ。しかし、引き抜こうとした瞬間、足元の泥濘がシオンの靴底を滑らせた。

「しまっ……!」

体勢が崩れたほんのコンマ一秒の隙。シオンのような天才にとって、それは本来あり得ない致命的なミスだった。

別の魔獣がその死角から飛びかかり、分厚い爪がシオンの左腕を深々と抉り取った。

「ぐああぁっ!!」

肉を裂かれる強烈な激痛に、シオンは悲鳴を上げて泥水の中へ転がった。

痛い。熱い。自分の身体が破壊されていく恐怖。

彼はこれまで、完璧な戦術と圧倒的な召喚魔法によって、敵を寄せ付けることすらなく勝利を重ねてきた。だからこそ、生身の肉体にこれほどの傷を負うこと自体が、彼にとっては初めての経験だったのだ。

這い上がろうとするシオンの視界の端で、地下迷宮の壁面に埋め込まれた『封魔石』が不吉な紫色の光を放っている。

シオンは絶望的な思いで、自身の内にある魔力を振り絞った。高位の幻獣でなくともいい。せめて下級の精霊でも、指先から放つ氷の礫一つでもいい。

しかし、練り上げた魔力は体外へ出た瞬間に封魔石の空間干渉を受け、惨めなほどあっけなく霧散してしまう。

「なぜだ……。私の完璧な計算に、こんな泥に塗れた結末など存在しないはずだ……!」

魔法という最大の武器を奪われ、計算し尽くされた空間支配も通用しない。

理不尽なまでの暴力と数、そして悪路という不確定要素。

自分が半端者だと見下していたアベルは、いつもこんな泥臭く、痛みに満ちた戦場を想定して足掻いていたというのか。

シオンの胸の内に巣食っていた傲慢なプライドが、暗闇の中で音を立てて砕け散っていく。獣たちの牙が、無力となった天才の身体を完全に食いちぎろうと、一斉に飛びかかってきた。

     * * *

同じ頃、最下層へと続く迷宮坑道の中腹。

アベルは泥だらけの顔を拭うこともせず、立ちはだかる次なる絶望的な罠を前にして、静かに息を整えていた。

ザザの仕掛けた罠は、極めて悪辣なものだった。

坑道の先、数十メートルにわたって床が大きく陥没しており、そこには紫色の不気味な泡を立てる『猛毒の泥沼』が広がっている。落ちれば一瞬で肉を溶かされるだろう。

さらに悪いことに、沼の上部の天井には無数の巨大な岩が不安定な状態で吊るされており、アベルが少しでも強い振動を立てれば、一斉に崩落して彼を沼の底へと叩き落とす仕掛けになっていた。

「魔法で空を飛んで越えられれば楽なんだろうけどな」

アベルは誰に言うともなく呟き、自嘲気味に口角を上げた。

彼にはシオンや母セリアのような、直接的な魔法で状況を解決する力はない。

だが、彼には痛みを喰らい、その身を獣へと変える覚悟があった。

「我が肉体を器とし、その力を現せ……『疾風の鎌鼬』!」

アベルは胸の前で印を結び、鋭い詠唱を紡ぐ。

翠緑色の魔法陣が展開され、風の魔獣の幻影がアベルの胸の中心へと飛び込んだ。

全身の筋肉が無理やり引き伸ばされ、骨が軋む激痛。アベルは顔を歪めながらも、その痛みをすべて推進力へと変換する。

キィィンッ!

肉体に宿った風の魔力波長に呼応し、右手に握られた『フェザーンのナイフ』が生き物のようにスライドする。

分厚い掘削用の短剣から、軽量で鋭利な『風の刃を纏う曲刀』へと物理的な形状変化を遂げた。

「シィッ!」

アベルは風の敏捷性を得た肉体で、坑道の壁面へと跳躍した。

毒の沼に触れることなく、壁の僅かな凹凸だけを蹴って、重力に逆らうようにして壁走りを開始する。

しかし、その動きが引き起こした僅かな風圧と振動が、ザザの仕掛けた天井の崩落トラップを作動させてしまった。

ゴゴゴゴォォォッ!

頭上から、アベルの身体を押し潰すほどの巨大な岩の雨が降り注いでくる。

回避する足場はない。下は致死の毒沼だ。

常人であれば絶望して目を閉じる状況。しかし、アベルの思考は極限状態の中で氷のように澄み渡っていた。

「『疾風』を解除……!」

空中に身を投げ出した状態のまま、アベルは風の魔獣との同化を強制的に解除する。

身体の軽さが急激に失われ、激しい反動で全身の毛細血管が悲鳴を上げる。口から血が飛沫となって散るが、アベルは一切の躊躇なく次の詠唱を叩きつけた。

「我が肉体を器とし、その力を現せ……『深き土のモグラ』!!」

空中で再び茶色の魔法陣が展開され、土の魔獣の重く強靭な特性がアベルの肉体を支配する。

筋肉が岩のように硬く膨張し、右手の曲刀が一瞬にして巨大で分厚い『掘削用の短剣』へとその物理的な質量を激変させた。

迫り来る数トンの巨岩。

アベルは空中で身体を捻り、土の剛力を宿した右腕で、分厚いナイフを下から上へと渾身の力で振り抜いた。

ガァァァァンッ!!

凄まじい衝撃音が坑道に響き渡る。

アベルの物理的な刃が巨岩の重心を正確に捉え、土の特性による圧倒的な破壊力で、巨大な岩を粉々の砂利へと粉砕したのだ。

砕け散った岩の破片が毒沼に降り注ぐ中、アベルはその反動を利用して対岸の固い地面へと重々しく着地した。

膝をつき、激しい咳込みと共に再び血を吐き出す。

短時間での強引な同化の連続切り替え。それはアベルの肉体に、ナイフで内臓を切り刻まれるような凄まじい負荷をかけていた。

「ハアッ……、ハアッ……」

アベルは震える足に鞭を打ち、掘削用の短剣を杖のようについて立ち上がった。

どれだけ泥に塗れても、どれだけ血を流しても、立ち止まるわけにはいかない。

この暗闇の底で、かつて自分を見下していた傲慢な天才が、今まさに命を散らそうとしているのだから。

「今行くぞ、シオン。……一人で死ぬなんて、リーダーの俺が絶対に許さない」

アベルは口元の血を乱暴に拭い、再び迷宮のさらに深い闇へと、その確かな一歩を踏み出していった。

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