第20話 泥濘に沈む完璧と、土を穿つ半端者
光の届かない地下迷宮の最下層。
冷たく湿った岩肌に囲まれたその空間は、血に飢えた野獣たちの荒々しい息遣いと、泥を蹴る悍ましい足音だけに支配されていた。
「ハアッ……! シィッ……!」
暗闇の中、鋭い呼気と共に銀色の閃光が走る。
シオンの振るう細剣が、暗闇から飛びかかってきた巨大な魔獣の眼球を正確に貫き、脳髄を破壊して絶命させた。しかし、剣を引き抜く暇すら与えられず、別の魔獣の分厚い前足がシオンの横腹を強烈に薙ぎ払う。
「ぐはっ……!」
防ぐ間もなく身体を吹き飛ばされ、シオンは魔力を乱す『封魔石』が埋め込まれた硬い壁へと背中から激しく叩きつけられた。
肺から空気が押し出され、口の中に生暖かい血の味が広がる。膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、シオンは壁に手をついて辛うじて立ち上がった。
彼のトレードマークであった純白の軍服は、すでに無残な姿に成り果てていた。
至る所が獣の爪によって引き裂かれ、地下の泥水と自身の血で赤黒く汚れきっている。端正な顔立ちは苦痛に歪み、整っていた銀色の髪も乱れ、額から流れた血が視界を赤く染めていた。
「来るな……下等生物どもが!」
シオンは壁を背にしたまま、迫り来る複数の赤い瞳に向けて左手を突き出し、魔力を練り上げようとした。
「氷結せよ……!」
しかし、手のひらから微かな冷気が発生した直後、周囲の壁に埋め込まれた封魔石が不吉な紫色の光を明滅させ、シオンの練り上げた魔力を空間ごと強制的に霧散させてしまった。
魔法が使えない。外部に魔力を放つことも、頼みの綱である高位の召喚獣を喚び出すこともできない。
その絶対的な絶望感が、シオンの精神を削り取っていく。
(馬鹿な……。私が、この私が、統率の取れていない獣の群れごときに追い詰められているというのか……!)
シオンは震える手で細剣を構え直し、暗闇から迫る魔獣の群れを睨みつけた。
彼はローランの教えを受けたフェザーン王国最高の天才剣士だ。一対一の剣術において、彼に遅れを取る者はそういない。
しかし、ここは理路整然とした修練場ではない。
足場は滑る泥濘であり、視界は最悪。敵は死を恐れず、四方八方から同時に襲いかかってくる。さらに、魔法という最大の武器を奪われたことで、シオンの戦術の根幹であった『完璧な空間支配』は完全に崩壊していた。
『お前の動きは完璧すぎる。相手の攻撃を躱し、無傷で勝つという最も効率的な正解しか選ばねえ』
『計算された完璧さは、予測不可能な事態において最も脆いのです』
不意に、出立の前夜に二人の師から投げかけられた忠告が脳裏に蘇る。
あの時、シオンはその言葉を冷たく切り捨てた。戦場が理不尽だというなら、それを上回る完璧さで蹂躙すればいいと本気で信じていた。
だが、現実の戦場は、シオンの想像を絶するほどに泥臭く、理不尽で、痛みに満ちていた。
敵はシオンの美しい剣技に感嘆することなどない。ただひたすらに命を削り、泥に引きずり込み、喉笛を噛み千切ろうと群がってくるだけだ。
「……認めない。私は天才だ。あの半端者の王子に見下されるような無様な真似は、絶対に……!」
シオンは己のプライドだけを支えにして、絶叫と共に泥濘の地面を蹴った。
向かってくる魔獣の群れへ、捨て身の特攻を仕掛ける。細剣が虚空を切り裂き、血飛沫が舞い上がる。
しかし、彼が一体を斬り伏せる間に、二体の魔獣がその背中と太ももに鋭い爪を立てていた。完璧だったはずの天才の心と身体が、果てしない泥の迷宮の底で、少しずつ、しかし確実に削り取られていく。
* * *
その頃、シオンが落ちた最下層へと続く迷宮坑道の中腹。
アベルは、完全に崩落して土砂と岩で塞がれた行き止まりの前に立っていた。
ザザの部下である小鬼たちが、侵入者の足止めのために意図的に坑道を崩したのだろう。
シオンのように魔法が使える者であれば、爆発系の魔法で一気に土砂を吹き飛ばすこともできるかもしれない。だが、魔法が制限されるこの地下空間において、さらにアベル自身は直接的な攻撃魔法を持たない。
しかし、アベルの瞳に焦りの色はなかった。
「……シオンなら、こんな泥臭い壁、顔をしかめて嫌がるだろうな」
アベルは土砂の壁に手を当て、小さく息を吐き出した。
純白の服を汚すことを極端に嫌い、常に涼しい顔で敵を倒す天才。彼は今頃、魔法を封じられた最下層で、自分の思い通りにならない戦場に直面して激しく混乱しているはずだ。
完璧主義者ほど、自分の計算が崩れた時の脆さは計り知れない。それを、アベルは痛いほど理解していた。
「だから、俺が行くんだ」
アベルは両足を肩幅に開き、深く腰を落とした。
己の肉体に宿した『深き土のモグラ』の魔力波長を、さらに強く、深く全身の神経へと行き渡らせる。
筋肉が限界を超えて軋み、毛細血管が悲鳴を上げる。痛覚が脳を激しく揺さぶるが、アベルはその痛みをすべて力へと変換し、右手に握りしめた『フェザーンのナイフ』へと注ぎ込んだ。
キィィンッ!
鈍い金属音が響き、アベルの肉体の力に呼応して、ナイフが極限までその質量を増していく。
三十センチの刀身が、大岩すらも容易く砕く分厚く巨大な『掘削用の短剣』へと完全に変形を遂げた。その重量は、並の人間であれば持ち上げることすら不可能なほどだが、土の魔獣の剛力を宿したアベルの肉体にとっては、まさに自らの牙そのものだった。
「ハアァァッ!」
アベルは裂帛の気合いと共に、掘削用の短剣を塞がれた土砂の壁へと真っ直ぐに突き立てた。
岩が砕け、土砂が崩れ落ちる。魔法で吹き飛ばすのではない。己の肉体と、それに呼応した物理的な刃だけを使い、文字通り大地を削り抜いていく泥臭い作業。
土煙が舞い、アベルの顔や服はあっという間に泥と埃に塗れていく。
手のひらの皮が剥け、血が滲んでも、アベルは刃を振るう手を決して止めなかった。
半端者と呼ばれ、偉大な両親の影に怯えていた自分。天才のシオンには絶対に敵わないと、心のどこかで諦めていた自分。
だが、この痛みと泥に塗れた這いずり回るような歩みこそが、アベル・アッシュクロフトという人間にしかできない戦い方なのだ。
「待ってろ……シオン!」
ズガァァァンッ!!
アベルの渾身の突きが、ついに分厚い土砂の壁を完全に貫通した。
崩れ落ちる瓦礫の向こう側から、最下層へと続く冷たい風が吹き込んでくる。
アベルは荒い息を吐きながら、土煙の向こうに広がる闇を見据えた。
泥だらけの顔の中で、その瞳だけが、揺るぎないリーダーとしての強い光を放っている。
微かに、本当に微かにだが、坑道の遥か奥底から、刃と牙がぶつかり合う凄惨な音が響いてきた。
シオンはまだ生きている。絶望の中で、あの高すぎるプライドを懸命に保ちながら、一人で戦い続けている。
「絶対にお前を死なせはしない。特命部隊は、誰一人欠けちゃいけないんだ」
アベルは掘削用の短剣を握り直し、泥に塗れた体を前へと押し出した。
理不尽な泥濘の中で崩れゆく完璧な天才と、その泥を全身で受け入れながら前へと進む半端な王子。
決して交わることのなかった二つの極端な刃が、魔王軍の仕掛けた死の迷宮の底で、ついに交差しようとしていた。




