第17話 残された者たちと、泥濘の潜入
開け放たれた馬車のハッチから、荒野の冷たく乾いた風が容赦なく吹き込んでくる。
アベルはハッチの縁を強く握りしめたまま、土煙を上げて敵の砦へと単身で突き進んでいくシオンの白い背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった。
「ふざけるんじゃないよ、あのすかした優等生!」
静寂を破ったのは、操縦席から立ち上がったベリアの怒声だった。彼女は背中の巨大なミスリルハンマーを乱暴に掴み取り、顔を真っ赤にしてハッチへと向かって歩き出す。
「リーダーの命令を無視して単独行動だと!? 自分がどれだけ強いか知らないが、あんな我が儘が戦場で通用するもんか! アベル、あたしがあの馬鹿の首根っこを引っ掴んで、今すぐここに引きずり戻してきてやる!」
「駄目だ、ベリア。待ってくれ」
アベルはハッチの前に立ち塞がり、ベリアの太い腕を両手でしっかりと押さえ込んだ。
「どきなよアベル! あいつをこのまま行かせたら、部隊が完全にバラバラになっちまうだろ!」
「今から追いかけて、奴を力ずくで止めようとすれば、敵の陣地のど真ん中で身内の乱闘騒ぎを起こすことになる。そうなれば完全に敵に気づかれ、村人たちが人質にされるか、猛獣の檻が解放されてしまう」
アベルの声は、怒りに震えそうになるのを必死に抑え込み、努めて冷静さを保とうとしていた。
「シオンの剣技と召喚術なら、そう簡単には死なない。あいつが正面から砦に突っ込んで敵の注意をすべて引きつけてくれている間に、俺たちは当初の予定通り、村人たちを救出する。……俺たちの本来の目的は、敵将の首を取ることじゃない。この村の命を一つでも多く救うことだ」
アベルの真っ直ぐな瞳に見つめられ、ベリアはギリッと奥歯を噛み締めた後、大きく舌打ちをしてハンマーから手を離した。
「……わかったよ。あんたがリーダーだ、あんたの指示に従う。でも、後であいつの頭は絶対に一発ぶん殴ってやるからね」
「ああ。俺も一緒に殴らせてもらうよ」
アベルは小さく苦笑し、ハッチを閉めて車内の空気を落ち着かせた。
そして、居住区画の隅で不安そうに尻尾を丸めている親友の獣人へと向き直る。
「キップ。お前はこの馬車に残って、いつでも動けるように待機していてくれ。村人たちは極度の栄養失調と過労で倒れる寸前のはずだ。助け出したらすぐに温かいものを口にできるように、スープの準備を頼む」
「う、うん……。わかった。アベルもベリアも、絶対に死なないでよ。俺、一番美味しいシチューを作って待ってるから」
キップの震えながらも懸命な言葉に、アベルは力強く頷いた。
戦場で待つ者がいる。帰る場所がある。それだけで、アベルの心にまとわりついていた不安の霧が少しだけ晴れるような気がした。
「行こう、ベリア。……俺たちの戦い方を、見せてやる」
アベルとベリアは馬車の裏口から音を立てずに外へ出ると、身を屈めながら、村の裏手へと続く岩場地帯を進み始めた。
荒野の灰色の土は、魔界の瘴気を吸い込んで不気味な粘り気を帯びており、足を踏み出すたびに泥濘のように靴底へ絡みついてくる。空気を満たすのは、魔獣の獣臭さと、鉄が錆びたような血の匂い。この村全体が、魔王軍の幹部である『猛獣使いのザザ』の邪悪な魔力によって、ゆっくりと死の世界へと作り変えられようとしているのが肌で感じられた。
岩陰を縫うようにして進み、二人は村の裏側の境界線へと辿り着いた。
そこには、巨大な獣の骨と黒い鉄線で粗末に組み上げられた防壁がそびえ立っている。
アベルは岩の隙間から身を乗り出し、再び村の内部の様子を注意深く観察した。
シオンが向かった巨大な砦は、村の正面入り口側に位置している。ここからでも、砦の方角から微かに氷の魔法が爆ぜる音と、魔物たちの怒号が聞こえ始めていた。シオンの単独行動による強襲が始まったのだ。
「……あいつ、本当に一人で正面からやり合ってるね。敵の陣形が、明らかに砦の方へと集中し始めてる」
隣で様子を窺っていたベリアが、小声で呟く。
「シオンが敵の目を引きつけてくれている今がチャンスだ。……見ろ、裏手の採石場だ」
アベルの視線の先。
村の裏手に広がるすり鉢状の採石場では、数十人の村人たちが足枷を嵌められ、魔王軍の前線基地を造るための巨大な石材を運ばされていた。
見張りに立っているのは、手枷に鋭い刃物を仕込んだ小鬼の魔物たちと、鎖に繋がれた数頭の巨大な四つ足の魔獣だ。砦の方角の騒ぎに気を取られているのか、見張りの魔物たちの視線は散漫になっていた。
しかし、その労働の光景は、先ほど遠眼鏡で見た時よりもさらに悲惨なものだった。
すぐ近くで見ると、村人たちの衣服はボロボロに引き裂かれ、露出した肌には無数の鞭の痕が赤黒く腫れ上がっている。
「歩け! 立ち止まるな、この下等生物ども!」
一匹の見張りの小鬼が、足をもつれさせて倒れ込んだ若い母親に向かって、容赦なく鞭を振り上げた。母親は、胸に抱えていた小さな子供を庇うようにして身を丸め、恐怖に顔を引き攣らせている。
鞭が振り下ろされる寸前、アベルの胸の奥底で、かつてないほどの激しい怒りの炎が燃え上がった。
(『貴様らはそこで、泥に塗れた村人たちの手を引いて逃げ回っていればいい』)
脳裏に、シオンの冷ややかな嘲笑が蘇る。
確かに、自分はシオンのように空から無数の氷の礫を降らせ、一瞬で敵を殲滅するような派手で完璧な魔法は使えない。大将の首をたった一人で討ち取るような、絶対的な武力もない。
だからこそ、アベルの戦いは常に泥臭く、リスクを伴う。
だが、目の前で理不尽に踏みにじられている命を見捨てることだけは、絶対にできない。
それが、自分の弱さを知り、他者の痛みを誰よりも知るアベル・アッシュクロフトという男の、決して譲れない根幹であった。
「ベリア。俺があの見張りの小鬼たちと猛獣をやる。ベリアは防壁の一部をハンマーで壊し、村人たちが外へ逃げられるルートを確保してくれ」
アベルは腰に帯びた『フェザーンのナイフ』を静かに鞘から引き抜いた。
まだ魔獣を同化させていない、純白のミスリルが鈍い光を放っている。手によく馴染むその物理的な感触が、アベルの心を限界まで研ぎ澄まさせていく。
「わかった。でも、アベル。あんた、魔法で遠くから攻撃できないんだろ? あんな開けた場所で見張りに近づく前に、猛獣に気づかれて吠えられたら終わりだよ」
「心配ない。俺の半端な力を、最大限に活かす方法がある」
アベルは低く深く息を吐き出し、自らの肉体に眠る魔力波長を練り上げ始めた。
魔法で炎や雷を飛ばすことはできない。しかし、己の肉体そのものを器として力を降ろす『同化召喚』ならば、音も光も立てずに、己の身体能力だけを劇的に変質させることができる。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『深き土のモグラ』」
アベルが這うようにして地面に片手をつき、極めて小さな声で詠唱を紡ぐ。
茶色の魔法陣が足元に微かに展開され、泥と土の特性を持つ中級の魔獣の幻影が、アベルの胸の中心へと音もなく吸い込まれていった。
「ぐっ……!」
全身の骨がミシミシと軋み、筋肉が不自然に膨張するような激痛がアベルを襲う。
しかし、アベルはその痛みを歯食いしばって耐え抜き、肉体に『土の魔獣』の特性を完全に同化させた。
すると、アベルの右手に握られていたフェザーンのナイフが、主の肉体に宿った土の魔力と共鳴し、鈍い金属音と共に変形を始めた。三十センチほどの細い刀身が、分厚く、幅の広い『掘削用の短剣』へと物理的に姿を変えたのだ。
「行くぞ……!」
土の特性を宿したアベルの肉体は、岩と泥で構成された採石場の地面に、まるで水に潜るようにして同化していった。
気配を完全に殺し、分厚い短剣となったナイフを地面に突き立てながら、見張りの小鬼たちの足元へと、泥の海を泳ぐような特殊な歩法で音もなく接近していく。
シオンの派手な魔法戦闘とは対極にある、泥に塗れた地を這うようなゲリラ戦。
半端な王子が、その優しさと知略を武器にして、囚われた村人たちを救うための静かなる反撃が、今まさに幕を開けようとしていた。




