第18話 泥濘からの救済と、地下への道
魔王軍の幹部『猛獣使いのザザ』に支配された辺境の村。その裏手に広がる採石場では、絶望に満ちた強制労働が続いていた。
「歩け! 立ち止まるな、この下等生物ども!」
見張りの小鬼が、疲労で足をもつれさせて倒れ込んだ若い母親に向かって、鋭い刃を仕込んだ鞭を無慈悲に振り上げる。母親は自らの背中で幼い子供を庇い、恐怖に顔を引き攣らせて固く目を閉じた。
鞭が空気を裂いて振り下ろされる。誰もが凄惨な光景から目を背けた、まさにその刹那だった。
ドゴォォォンッ!
母親のすぐ横の泥濘んだ地面が、突然爆発したかのように弾け飛んだ。
土煙と泥の飛沫の中から姿を現したのは、灰色の土に塗れたアベルだった。彼の右手に握られた『フェザーンのナイフ』は、肉体に同化させた土の魔獣の力に呼応し、分厚く巨大な『掘削用の短剣』へと物理的に変形している。
「なっ……!?」
驚愕に見開かれた小鬼の目がアベルを捉えた瞬間には、すでに分厚いミスリルの刃が下からかち上げられていた。
刃が小鬼の手首を鞭ごと正確に物理切断し、そのままの勢いで重い柄が顎を打ち砕く。小鬼は悲鳴を上げる間もなく、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
「貴様、何者だ!」
異変に気づいた他の見張りたちが、一斉にアベルに向かって武器を構える。さらに、鎖に繋がれていた四頭の巨大な魔獣たちが、侵入者の血の匂いを嗅ぎつけて狂ったように咆哮を上げた。
「……シィッ!」
アベルは深く息を吐き出し、胸の中心に宿していた『深き土のモグラ』の同化を瞬時に解除した。
肉体が急激に元の状態へと戻る反動で、全身の筋肉が断裂するかのような激痛が走る。痛覚のあるアベルにとって、同化の解除と再召喚の連続は、まさに自らの命を削るような行為だった。
しかし、アベルは奥歯を噛み砕くほどの気力でその激痛をねじ伏せ、間髪入れずに次の詠唱を紡ぐ。
「我が肉体を器とし、その力を現せ……『疾風の鎌鼬』!」
翠緑色の魔法陣が展開され、風の魔獣の幻影が再びアベルの肉体に飛び込む。
骨が軋む痛みに耐え抜いた瞬間、アベルの肉体は風のような敏捷性を獲得し、右手の分厚い短剣が甲高い金属音と共にスライドして変形を始めた。
刀身が鋭く引き伸ばされ、切っ先から風の刃を噴き出す『流線型の曲刀』へと姿を変える。
「グルアァァッ!」
四頭の魔獣が四方から同時にアベルへと飛びかかってきた。
魔法で遠距離から敵を吹き飛ばすことなどできない。だが、アベルには己の肉体に宿した圧倒的なスピードと、それに完全に適合した物理的な刃がある。
アベルの身体がブレた。
常人の目には残像すら映らない神速の踏み込み。アベルは飛びかかってきた魔獣たちの死角へと瞬時に滑り込み、風の刃を纏った曲刀で、分厚い毛皮に覆われた喉笛を次々と、そして確実に物理的に斬り裂いていった。
ズバァァンッ!
四つの巨大な肉塊が、時間差で採石場の地面に叩きつけられる。
圧倒的な武力で敵を粉砕するシオンの戦い方とは違う。自身の肉体を酷使し、状況に合わせて武器の形を変え、泥臭く敵の急所を突くアベルだけの戦法。
ほんの数秒の間に見張りたちを全滅させ、アベルは曲刀から元の純白のナイフへと戻っていく武器を静かに鞘へ納めた。
「怪我は、ありませんか」
アベルは息を整えながら、地面にへたり込んでいる母親の元へ歩み寄った。
泥だらけの顔を袖で拭い、できる限り安心させるような優しい微笑みを向けて膝をつく。
村人たちは、突然現れた謎の少年に完全に怯えきっていた。魔王軍の幹部が支配するこの村に、外から助けが来るなど到底信じられなかったからだ。
「……アベル! こっちは終わったよ!」
その時、採石場を囲んでいた骨と鉄線の防壁の一部が、凄まじい轟音と共に粉砕された。
もうもうと立ち込める土煙の中から、巨大なミスリルハンマーを肩に担いだベリアが豪快な笑みを浮かべて歩いてくる。遠く砦の方角からは、シオンが暴れているであろう氷の魔法の爆発音がドスン、ドスンと響き続けていた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。俺たちは、フェザーン王国から来た特命部隊です。あなたたちを助けに来ました」
アベルが懐からフェザーン王室の紋章が入った布を取り出して見せると、村人たちの顔に、信じられないものを見るような驚愕と、やがて堰を切ったような大粒の涙が溢れ出した。
「ああ……。神よ、フェザーンの兵隊さんが……」
「助かった、助かったんだ……!」
母親が子供を抱きしめて泣き崩れ、老人が震える手でアベルの泥だらけの手を握りしめる。
その温かい涙に触れ、アベルはシオンの指示に逆らってでも、ここへ救出に来た自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
「皆さん、ここもすぐに敵の増援が来ます。ベリアが壊した防壁の穴から、裏手の岩場に沿って進んでください。少し歩いた岩陰に、分厚い装甲の馬車が停まっています。そこに俺たちの仲間がいて、温かいスープを用意して待っていますから」
アベルが避難経路を説明すると、村人たちは立ち上がり、互いに肩を貸し合いながら防壁の穴へと向かい始めた。
その中で、村の長老らしき白髭の老人が、アベルの前に進み出て深く頭を下げた。
「フェザーンの戦士様。本当に、何と御礼を申し上げてよいか。……ですが、この村を支配しているザザは、狡猾で恐ろしい悪魔です。あのような正面からの襲撃だけで倒せる相手ではありません」
老人は、激しい爆発音が続く砦の方角を不安そうに見つめた。
「ザザは、我々村人に砦の地下深くへと続く『迷宮坑道』を掘らせていました。あの砦の地下は、魔法の力を乱す特殊な鉱石で囲まれた罠だらけの迷宮になっているのです。正面から乗り込んだお連れ様が、もしその地下へ落とされれば……いくらフェザーンの戦士様でも、命はありません」
「地下の迷宮坑道……」
アベルは老人の言葉に眉をひそめた。
シオンの戦闘能力は王国でも随一だが、彼は自分の力を過信しすぎるきらいがある。もし敵将のザザが最初から正面衝突を避け、シオンを罠に誘導していたとしたら。魔法を乱される地下迷宮に孤立すれば、いくら天才でも無事では済まない。
「その坑道の入り口は、どこにあるんですか?」
「この採石場の奥、あの大きな木の扉の向こうです。そこから、ザザの砦の最下層まで直接繋がっておりますが……中は真っ暗で、恐ろしい魔物が巣食っています」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます。早く馬車へ向かってください」
老人をベリアに託して見送った後、アベルは採石場の奥にある重厚な木の扉を睨みつけた。
「ベリア。村人たちの護衛と、馬車までの案内を頼めるか。俺はあの坑道から、砦の地下へ向かう」
「なんだって!? あんた、まさかあの傲慢な優等生を助けに行くつもりかい! あいつはあんたの命令を無視して勝手に突っ走ったんだ。自業自得じゃないか!」
ベリアが呆れたように叫ぶが、アベルの瞳には一切の迷いはなかった。
「シオンが砦の正面で暴れてくれたから、俺たちはこうして村人を一人も死なせずに救出できた。あいつのやり方は確かにムカつくし、反発もしたけど……シオンは、間違いなく俺たちの仲間だ」
アベルはフェザーンのナイフの柄を強く握りしめた。
リーダーの命令を無視したからといって、死地へ向かった仲間を見捨てることなど、彼には絶対にできなかった。
「それに、俺の半端な力は、狭くて暗い場所でのゲリラ戦でこそ活きる。魔法が乱される場所なら、なおさら俺の物理的な変形武器の方が有利なはずだ」
アベルのその言葉に、ベリアは重い溜息を吐き出し、乱暴に頭を掻いた。
「……ったく。あんたのその甘さと優しさは、ヴァンの旦那そっくりだよ。わかったよ、村人の避難と護衛はあたしとキップで完璧にこなしておく。だからあんたも、絶対に死ぬんじゃないよ」
「ありがとう、ベリア。行ってくる」
アベルは仲間の頼もしい背中を見送ると、採石場の奥にある重い木の扉を押し開けた。
カビと腐敗臭が漂う、底知れぬ闇が広がる迷宮坑道。
傲慢な天才が陥るであろう危機を救うため、そして特命部隊が真の意味で一つのチームとなるため。半端な王子はたった一人で、魔王軍が待ち受ける泥暗の迷宮へと、その静かな足音を響かせていった。




