第14話 未知なる荒野へ
フェザーン王都を囲む、天を突くほどに巨大な純白の防壁。
その分厚い正門をくぐり抜けた瞬間、車輪の下から伝わってくる感触が、滑らかな石畳から、ゴツゴツとした土と岩のそれへと劇的に変化した。
「おおっと! 揺れるよ、しっかり掴まってな!」
操縦席に座るベリアが、太い腕で複数のレバーを同時に操作しながら声を張り上げる。
水陸両用魔導馬車の六つの巨大な車輪が、道なき荒野の段差を強引に乗り越え、ズシンッと重い衝撃が車内に響き渡った。バルガンが設計した極太のサスペンションが衝撃の大半を吸収してはいるものの、未開の荒野の悪路は彼らの想像以上に険しかった。
見渡す限りに広がるのは、背の高い赤茶色の草が生い茂り、奇岩が点在する広大な平原。王都の美しく整備された街路樹や、規則正しく並んだ魔力灯はもうどこにもない。
これが、フェザーン王国の外側に広がる、魔物たちが跋扈する未知なる荒野であった。
「ちょっ、ちょっと待ってよベリア! もう少し静かに走れないのか!?」
車体の後部に設けられた居住区画兼厨房から、悲鳴のような声が上がった。
特製のエプロンを身につけたキップが、両手で巨大な鍋を必死に抱え込みながら、豊かな獣の尻尾を逆立ててパニックを起こしていた。
「無茶言うんじゃないよ! 親方の組んだ変速ギアは癖が強いんだ! まだこの巨大な車体の重心感覚に慣れてないんだから、多少の揺れは我慢しな!」
「我慢できるか! さっきから仕込み用のジャガイモが床を転がり回ってるし、火の魔石コンロの火力が揺れで安定しないんだよ! このままだと、お昼ご飯がただの煮崩れた野菜の残骸になっちゃう!」
キップは泣きべそをかきながら、転がっていくジャガイモを足で押さえつけ、右手でおたまを振り回し、左手で鍋の蓋を抑えるという曲芸のような動きで厨房を死守している。
そんなキップの必死の抵抗も虚しく、再び馬車が大きな岩を乗り越えた瞬間、棚に積まれていた香辛料の小瓶がカチャカチャと音を立てて落下しそうになった。
「あああっ! 俺の特製スパイスが! 誰か、誰か手伝ってええっ!」
「悪いキップ、今手が離せない!」
「うるさいなあもう! 男なら少しくらい味が薄くても気合いで食いなさいよ!」
操縦席と厨房の間で、絶叫と怒号が飛び交う。
結成されたばかりの特命部隊の車内は、大魔王の軍勢が待ち受ける死地へ向かっているという緊迫感など微塵もない、まるでまとまりのないドタバタ劇の舞台と化していた。
「……やれやれ。大魔王もさぞ呆れていることだろうな」
その騒音の中心で、ただ一人、周囲のドタバタから完全に切り離されたように静かな空間を保っている男がいた。
居住区画の隅に置かれた革張りの長椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んでいるシオンである。
彼は揺れる車内でも一切姿勢を崩すことなく、分厚い魔導戦術の専門書を広げていたが、あまりの騒がしさに耐えかねたように、パタンと本を閉じて冷たい溜息を吐いた。
「フェザーン王国が誇る特命部隊の初陣が、芋を追いかける料理人と、運転に手こずるドワーフの珍道中とは。これでは魔界軍と戦う前に、馬車の中で自滅するのではないか?」
「なんだとすかした優等生! 文句があるならあんたが運転してみな! この複雑な魔力流の制御がどれだけ大変か思い知らせてやる!」
「お断りだ。私の役割は戦場で敵を完璧に殲滅することであって、馬車の運転手ではない。せいぜい安全運転に努めることだな」
「ぐぬぬっ、その減らず口、あたしのハンマーで叩き割ってやろうか!」
「ひぃぃ、お願いだから車内で暴れないで! スープが、俺のスープがこぼれるぅぅ!」
口論を始めるベリアとシオン。その間でオロオロと泣き叫ぶキップ。
三人三様のカオスな空間を、アベルは少し離れた補助席に座り、壁に背中を預けながら黙って見渡していた。
(本当に……バラバラだな)
アベルは呆れたように小さく息を吐き、腰に帯びた純白のミスリルナイフにそっと手を触れた。
つい数時間前まで、自分はこの個性的なメンバーを束ねるリーダーとしての重圧に押し潰されそうになっていた。王都の民衆からの巨大な期待、父や母の偉大な功績という影。それらを背負い、部隊を完璧に統率し、誰も死なせずに魔界の扉を破壊しなければならないと、必死に肩肘を張っていた。
だが、目の前で繰り広げられるこの騒がしい日常風景を見ていると、自分が抱えていたリーダーとしての気負いが、なんだかひどく滑稽なものに思えてきたのだ。
エリート軍人のように統率の取れた部隊。無駄口を一切叩かず、ただ黙々と死地へ向かう冷徹な戦士たち。
もしこの馬車の中がそんな息の詰まるような緊張感で満たされていたら、自分はとっくにプレッシャーで胃に穴を開けて倒れていただろう。
「あははっ……」
不意に、アベルの口から小さな笑い声が漏れた。
最初はくすくすとした笑いだったが、やがてそれは我慢しきれない大きな笑い声へと変わっていった。
「アハハハハッ! なんだよそれ、キップ! ジャガイモ踏んづけてるぞ!」
アベルが腹を抱えて笑い出すと、口論していたシオンとベリア、そしてパニックを起こしていたキップが、一斉にぽかんとした顔でリーダーを振り向いた。
「あ、アベル? どうしたんだい、急に笑い出したりして。ついにプレッシャーでおかしくなっちまったのかい?」
ベリアが本気で心配そうな声を出す。
「ち、違うよ。おかしくなんてなってない」
アベルは目尻に浮かんだ涙を拭いながら、大きく息を吸い込んだ。
「ただ、お前らを見てたら、すごく安心したんだ。大魔王の軍勢とか、世界を救う特命部隊とか、そんな重い看板を背負わされてるのに、お前らは王都にいた時と全然変わらない。……俺も、無理して完璧なリーダーを演じる必要なんてないんだなって」
アベルの言葉に、車内は一瞬の静寂に包まれた。
キップはジャガイモを踏んだ足をそっとどかし、ベリアは照れ隠しのように鼻の頭を擦った。
シオンは呆れたように肩をすくめたが、その口元にはほんのわずかながら、悪くないと言うような微かな笑みが浮かんでいた。
「勘違いするなよ、アベル。私は変わらないのではない。常に完璧なだけだ。貴様もリーダーを名乗るなら、早くその無能な笑顔を引っ込めて、地図を開いて次の野営地までのルートを確認しろ」
「はいはい、わかってるよ。ええと、キップ、手伝うからその転がった野菜を拾おう」
アベルは補助席から立ち上がり、キップの足元に転がったジャガイモを拾い上げて厨房の籠へと戻した。
「ありがとう、アベル。……あのさ、お昼ご飯、少し遅れそうだけど、最高のシチューにするから待っててくれよな」
「ああ、楽しみにしてる。ベリア、最初のチェックポイントである古びた橋まではあとどのくらいだ?」
「親方の地図通りなら、今の速度で後二時間ってところだね! よし、エンジンも温まってきたし、少しペースを上げるよ! しっかり掴まってな!」
再び馬車の車輪が力強く土を蹴り上げ、魔導エンジンが頼もしい唸り声を上げる。
特命部隊を乗せた水陸両用魔導馬車は、土煙を巻き上げながら、見渡す限りの荒野を真っ直ぐに突き進んでいく。
これから彼らを待ち受けるのは、大魔王の幹部たちが支配する血と絶望の戦場だ。
しかし、若き異端児たちを乗せたこの小さな鉄の箱の中だけは、まるでピクニックに向かうような温かい日常の会話と、不思議な居心地の良さに満ち溢れていた。
未熟で、バラバラで、どうしようもなく人間臭い。
だからこそ、どんな絶望の闇の中にあっても決して折れることのない強靭な光。
次世代の若者たちによる、世界を取り戻すための果てしない旅路が、今、確かな轍と共に始まったのである。




