第13話 王都の歓声と、受け継がれる意志
夜明けの青白い靄が晴れ、東の空から黄金色の朝日がフェザーン王都を照らし出し始めた頃。
秘密裏に王城を出立し、静かに街を抜けようとしていた特命部隊の目論見は、中央広場に出た瞬間に呆気なく崩れ去ることとなった。
「うおおおおっ! 出たぞ、特命部隊の馬車だ!」
「アベル王子! 俺たちのフェザーンを、平和をどうか護ってくれえっ!」
広場を埋め尽くしていたのは、早朝にもかかわらずどこからともなく聞きつけて集まってきた、途方もない数の民衆たちだった。
その光景は、まさにこの二十年間でヴァンとセリアが築き上げた「誰もが平等に笑い合える理想の国」の象徴であった。
人間の商人が声を張り上げ、屈強な魔族の戦士が獣人の子供たちを肩車して手を振っている。美しいエルフの魔法使いが空に向けて祝福の光の粒子を舞い散らせ、ドワーフの職人たちが自慢の工具を打ち鳴らしてエールを送る。かつての旧世界では互いに憎み合い、殺し合っていたはずの異種族たちが、種族の垣根など微塵も感じさせない笑顔で肩を組み、次世代の若者たちの門出を祝うために集結していたのだ。
朝日に照らされる白亜の建造物群。街路樹の鮮やかな緑。どこからか漂ってくる焼きたてのパンの甘い香り。
圧倒的な活気と、絶対的な平和への信頼。ここには、大魔王の軍勢が侵略を始めているという陰惨な空気など一切存在しない。誰もが、自分たちの国と、そして英雄の血を引く若者たちを心から信じきっていた。
「ったく、極秘の出立任務だって聞いてたのに、これじゃ王都中のお祭り騒ぎじゃないか」
操縦席で魔導エンジンの出力を調整しながら、ベリアが呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑う。
分厚いミスリル装甲で覆われた巨大な水陸両用魔導馬車は、群衆が自然と開けた中央の道を、パレードのようにゆっくりと前進していく。
「お待ちください、アベル殿下!」
その時、歓声を押しのけて進み出てきた一人の女性の姿があった。
洗練された上質な絹のドレスを身に纏い、片眼鏡の奥で鋭くも温かい瞳を光らせるハーフエルフの女性。フェザーン王国の国家予算のすべてを握る財務大臣、ルミナである。
「ルミナさん……。見送りに来てくれたんですか」
馬車の上部ハッチから身を乗り出したアベルが驚いて声をかけると、ルミナは誇らしげに胸を張って微笑んだ。
「当然です。国王陛下は極秘だと仰っていましたが、国の未来を背負って立つ若者たちを、誰にも知られず裏口から送り出すような真似、この財務大臣が許すわけがありません。それに……」
ルミナは懐から、金色の装飾が施された分厚い封筒を取り出し、アベルに向かって放り投げた。
アベルがそれを受け取ると、中には王国の紋章が刻印された数枚の特別な証書が入っていた。
「それは、フェザーン王国の国家予算を無制限に引き出せる特級の信用手形です。道中、もし人間の国の商人や、隠れ里の協力者から物資を調達する際はそれをお使いなさい。武器でも、薬でも、飛空艇のチャーターでも、必要なものはすべてこの国が買い上げます」
「国家予算を、無制限に……!? そ、そんな大事なもの、俺なんかが預かっていいんですか!」
あまりの金額の重さにアベルが慌てふためくと、ルミナはふふっと優しく笑い、かつてヴァンと共に世界を巡った商人としての顔を覗かせた。
「フェザーンの莫大な富は、あなたたち次世代の未来を護るためにあるのです。金銭の出し渋りで特命部隊の足を引っ張るような真似は絶対にしません。キップの美味しい料理も、ベリアの馬車の修理部品も、すべて私に任せて、あなたたちはただ前だけを見て戦いなさい」
「ルミナさん……。ありがとうございます、必ず役に立てます」
アベルが証書をしっかりと胸に抱いて頭を下げると、それを見ていた周囲の民衆たちから、さらに割れんばかりの大歓声が沸き起こった。
「英雄の子供たちに祝福を!」
「頼んだぞ、アベル王子! あんたのその腕で、魔界の奴らをぶっ飛ばしてやれ!」
「ヴァン王の剛剣と、セリア様の神の奇跡を、どうか俺たちに見せてくれ!」
飛び交う熱狂的な声援。
誰もが笑顔で、一切の疑いもなく「彼らなら絶対にやってくれる」と信じている。自分たちの平和な日常は、あの頼もしい若き王子によって永遠に護られるのだと。
しかし、その巨大すぎる期待の渦の中心にいるアベルの顔は、歓声が大きくなるにつれて少しずつ強張っていった。
ハッチの縁を掴む手に、じっとりと冷たい汗が滲む。
(違う……。俺は、父さんみたいに強大な力で敵をねじ伏せることなんてできない。母さんのように神々を喚び出して奇跡を起こすこともできないんだ……)
民衆の期待する『英雄の息子』と、実際の『器用貧乏な半端者』である自分との間に横たわる、果てしなく深い溝。
腰に帯びた変幻自在のフェザーンのナイフ。それを使って戦う決意は固めたはずだった。だが、いざこれほどまでの無垢な笑顔と途方もない数の命を背負わされると、どうしても自分の細い肩がその重圧に耐えきれずに悲鳴を上げそうになる。
もし自分が選択を間違えれば、この美しい王都は炎に包まれ、今笑っている子供たちは魔物に引き裂かれてしまうのだ。
「アベル……」
車内の奥からその様子を見ていたキップが、心配そうに声をかけようとした。
だが、それより早く、アベルの背後にスッと歩み寄ってきた白い影があった。
シオンだ。
彼は一切の皺がない軍服の袖を整えながら、ハッチから身を乗り出して固まっているアベルの隣に並び、王都の群衆を冷ややかな目で見下ろした。
「……愚かな民衆どもだ。我々の戦力も、魔界軍の真の恐ろしさも知らずに、ただ血統という偶像にお祭り騒ぎで縋り付いている」
シオンの吐き捨てるような言葉は、歓声にかき消されてアベルの耳にしか届かない。
「シオン、お前……」
「だが、彼らが愚かであることと、我々が果たすべき任務の重さは別だ。お前は、あの盲目的な期待に応えられない自分を恥じて、また縮こまっているのだろう」
シオンはアベルを一瞥し、鼻で笑った。
「勘違いするな、アベル。貴様がどれほど半端者であろうと、今さら誰もそんなことは気にしていない。お前が勝てない敵は私が召喚獣で粉砕し、私が完璧に戦場を支配する。お前はただ、その無能さを自覚したまま、私の背中についてくればいい」
それは相変わらずの傲慢極まりない、見下すような言葉だった。
しかし、その皮肉の中には、不思議とアベルの肩口にのしかかっていた重圧を軽くする響きがあった。一人で世界を背負わなくてもいい。ここには、どれほど性格が悪かろうとも、実力だけは本物の天才がいるのだ。
「前を見ろ、リーダー。それとも、まだ戦いが始まってもいない王都のど真ん中で、恐怖に震えて泣き出したいのか」
シオンの冷ややかな挑発に、アベルはハッと息を呑み、そして、自嘲気味に口角を上げた。
そうだ。自分は半端者だ。一人でこの国を救う英雄になんて、最初からなれるわけがない。
父が言っていたではないか。「一人で勝てないなら、全員で勝つ方法を探せ」と。
「……泣かないさ。お前が完璧に敵を倒してくれるなら、俺はリーダーとして、一番後ろで楽をさせてもらうよ」
アベルが皮肉で返し、前を向く。
その瞳からはもう、重圧に押し潰されそうになっていた怯えの色は消え去っていた。
「ベリア! エンジンの出力を最大にしろ! 一気に王都を抜けるぞ!」
アベルの力強い号令が飛ぶ。
「任せな! 舌を噛むんじゃないよ、あんたたち!」
ベリアが操縦桿を力強く押し込むと、水陸両用魔導馬車の六つの巨大な車輪が石畳を激しく削り、重厚なエンジンが咆哮を上げた。
民衆たちの歓声と拍手が最高潮に達する中、巨大な鉄の塊は圧倒的な加速を見せ、朝日が差し込む王都の正門を一気に駆け抜けていく。
豊かな緑と美しい石造りの街並みが、少しずつ後方へと遠ざかっていく。
特命部隊の若き異端児たちを乗せた馬車は、王都の温かな光を背に受けながら、未知なる魔界軍の脅威が待ち受ける果てしない荒野へと、その重い轍を刻み始めたのである。




