第11話 母の温もりと、言葉なき父の背中
ガルドの工房から王城へと戻ったアベルは、自室のバルコニーに出て、静まり返った王都の夜景を見下ろしていた。
フェザーン王国の夜は美しい。街路を照らす魔力灯の柔らかな光が、まるで地上に降り注いだ星屑のように連なり、遠くの防壁まで穏やかな瞬きを繰り返している。二十年という歳月をかけて、父と母が、そして仲間たちが血の滲むような努力で築き上げた絶対的な平和の証だった。
明日には、この美しい王都を離れ、未知なる荒野へと足を踏み入れることになる。
アベルは手すりに寄りかかりながら、ガルドから受け取った純白のミスリルナイフを月の光にかざした。
驚くほど軽く、手によく馴染む。魔法で炎や風を飛ばすことはできない自分でも、自身の肉体に降ろした魔獣の力に呼応して、この物理的な刃が最適な形状へと変わってくれる。これならば、器用貧乏な自分でも戦えるかもしれない。
そう微かな希望を抱く一方で、アベルの胸の奥底には、未だに黒く重い不安が渦巻いていた。
特命部隊のリーダーという重圧。
半端な自分の決断一つで、キップやベリア、そしてシオンの命を散らしてしまうかもしれないという恐怖。
本当に自分に務まるのだろうか。偉大な英雄たちの名に泥を塗り、世界を絶望に突き落としてしまうのではないか。
「……こんな夜更けに、ため息なんて吐いて。明日の出立に響いてしまうわよ、アベル」
ふと、背後から優しく、鈴の音のように透き通った声が聞こえた。
振り返ると、バルコニーの入り口に、色素の薄い銀髪を夜風に揺らしながら、母であるセリアが静かに微笑んで立っていた。
露出の少ないクラシカルなローブを身に纏う彼女は、三十代後半となった今でも、かつて世界を救った時と変わらぬ神秘的で浮世離れした美しさを保っている。
「母さん……。まだ起きていたんだ」
「可愛い息子の旅立ちの前夜だもの。母親としては、心配で眠れないわ」
セリアはゆっくりと歩み寄り、アベルの隣に並んで手すりに身を預けた。
彼女から微かに漂う、古い書物と優しい香のような匂いに、アベルの張り詰めていた心が少しだけ解れていく。
「ごめんなさい、母さん。……俺、やっぱりすごく怖いんだ」
アベルは手の中のナイフを見つめたまま、ぽつりと本音をこぼした。
王の前でも、親友の前でも見せなかった、一人の脆い少年としての本音だった。
「父さんは俺を信じると言ってくれた。ガルドさんも、俺の半端さを武器にしろとこのナイフを打ってくれた。でも……いざ明日出発するとなると、足が竦む。俺は父さんのように強くないし、母さんのように神々を降ろして奇跡を起こすこともできない。ただの、普通の人間に毛が生えた程度の力しかないんだ」
アベルの言葉には、長く暗い劣等感の影が落ちていた。
誰もが最強の夫婦の子供として、彼に無意識の期待を寄せる。その期待の眼差しが、時にどれほど彼の心を縛り付けてきたか、セリアは誰よりも理解していた。
セリアは静かに手を伸ばし、アベルの頬にそっと触れた。
その手のひらは、同化召喚という禁忌の術を操る恐ろしい召喚師のものとは思えないほど、柔らかく、温かかった。
「アベル。あなたは、ヴァンになる必要はないのよ」
セリアの深く紫色の瞳が、アベルを真っ直ぐに、慈愛に満ちた光で見つめていた。
「あの人は特別なの。痛覚がなく、どれだけ肉体が引き裂かれようとも前に進み続けることができる、ある意味で狂った戦士だった。だからこそ、孤独だった私の召喚術を受け入れ、世界を変えることができた。でも、あなたは違う」
セリアはもう片方の手をアベルの背中に回し、自分よりもずっと背が高くなった息子を、子供の頃と同じように優しく、力強く抱きしめた。
「あなたは痛みを知っている。自分の痛みを恐れ、他人の痛みに寄り添うことができる。キップが泣いた時、あなたは決して彼を見捨てようとはしなかったでしょう? それは、ヴァンにも、私にも、天才のシオンにもできない、あなただけの本当の強さなの」
母の温もりに包まれ、アベルの瞳から堪えきれずに一筋の涙がこぼれ落ちた。
「完璧な力なんてなくていい。あなたのその不器用な優しさが、痛みを分かち合うその心が、必ず仲間を繋ぎ止め、世界を救うわ。だから、自信を持って行きなさい」
「……うん。うん……っ」
アベルは母の細い肩に額を預け、声を出さずに泣いた。
偉大な英雄ではなく、一人の母親としての限りなく深い愛情。それが、アベルの心にまとわりついていた劣等感という呪いを、完全に溶かして消し去ってくれたのだ。
しばらくして、涙を拭って顔を上げたアベルは、凭れていた手すりから身体を離した。
その顔にはもう、先ほどまでの迷いや恐怖はない。次世代を担うリーダーとしての、清々しい覚悟が宿っていた。
「ありがとう、母さん。俺、行ってくるよ。親父や母さんの影を追うのはもうやめる。俺は俺のやり方で、仲間と一緒にこの世界を護ってみせる」
「ええ。気をつけてね、アベル。……あなたの帰りを、いつまでも待っているわ」
セリアの優しい微笑みに見送られ、アベルはバルコニーを後にした。
自室へ戻るため、夜の静寂に包まれた王城の回廊を歩く。月明かりがステンドグラスを通して、石造りの床に色とりどりの影を落としていた。
その長い回廊の中腹で、アベルは不意に足を止めた。
前方から、重く、静かな足音が近づいてくる。
暗がりから姿を現したのは、派手な王の衣装ではなく、実用的な軽鎧を身に纏った巨漢。国王ヴァンであった。
「父さん……」
アベルが背筋を伸ばし、立ち止まる。
ヴァンは無言のまま、ゆっくりとした歩みでアベルの目の前までやってきた。
言葉を交わすことはない。父はただ、静かに右手を上げると、その大きく無骨な手のひらで、アベルの肩を一度だけ、バンッと力強く叩いた。
痛いほどの強さ。
しかし、そこには過酷な旅路へと向かう息子への、言葉では到底表しきれないほどの巨大な期待と、男としての信頼が込められていた。
アベルが顔を上げると、ヴァンはもうアベルの横を通り過ぎ、回廊の奥へと歩き去っていくところだった。
振り向くことのない、言葉なき巨大な父の背中。
それは「自分の道は自分で切り拓け」という、不器用すぎる英雄からの最高の激励だった。
「……いってきます、父さん」
アベルは、叩かれた右肩にそっと手を当て、その熱を確かめるように強く握りしめた。
振り返ることはしない。
手の中にある変幻自在のナイフと、不器用な親たちが託してくれた温かい愛と信頼。それだけを胸に刻み込み、若き王子は迷いのない足取りで、夜明けの待つ自室へと歩みを進めていった。




