物言わぬ花嫁
「お疲れっしたぁ!」
ある冬の日の夜十時、シノブは今日の作業を終え、今まさに帰宅しようとしている。
すれ違う同僚に労いの声をかけ、疲れた体に鞭打って、家路を急ぎ始めた。
実は、シノブは少し前から工事現場の作業員をやっている。
マリの容態は心配であるものの、主治医が「今のところ安定しているので大丈夫だ」というので信じることにした。
そして、今日はマリの誕生日だ。
シノブはバッグを漁り、丁寧に折りたたんだ書類を夜道で広げてみる。
それは、白紙の婚姻届だ。
マリには随分昔にプロポーズしてあるが、いつ結婚しようかという約束までは交わしていない。
だから、結婚するなら今だと思ったのだ。
「プレゼント、よし!婚姻届、よし!あとは…指輪までは、ちょっと間に合わなかったな」
シノブは、マリの魔力について、全く納得していない。
魔力を制御せずに垂れ流していたリュクサこそが、諸悪の根源だと思っている。
だが、いくら彼を恨んだところで、マリが元の姿に戻れる気配もなく、深い絶望と共に現実を受け入れているのだ。
「あいつらのことは、絶対に許せない…」
全てが終わったら、必ず復讐してやると心に決めている。
だが、まずはマリだ。
彼女に残された時間はあまり長くないとわかるからこそ、シノブは恨む心に蓋をして、マリと結婚しようと頑張ってきた。
そうこうするうちに、自宅が見えてきた。
シノブは小走りに玄関まで急ぎ、キーを差し込んで内側へ入る。
しかし、何かが変だ。
暗い家の中を電気で灯してみると、すぐに異変の原因に気づいた。
床が水に濡れているのだ。
「マ、マリ!?」
慌てて靴を脱いで上がり込み、ダイニングキッチンに足を踏み入れたところで、完全に足が止まった。
「マリ…?」
ガスコンロには、焦げて真っ黒になった鍋がグッショリ濡れている。
その上から、水滴が滴っており、上を見てこの家のスプリンクラーが作動したのだなと理解した。
だが、何より信じがたいのが、マリがコンロのすぐ傍で倒れている姿だった。
今日は気分が悪いからずっと寝ていると言っていたのに、なぜ起きたりしたのだろう。
「マリ!マリ!しっかりしろ!」
服が濡れるのにも関わらず、床に膝をついて倒れた彼女を起き上がらせる。
「マリ…?」
彼女には、もう体温も、心音も、そして脈拍もなかった。
あったのは、シノブが数日前に購入したウェディングドレスを纏った亡骸のみである。
「嘘だろ…?まだ、結婚してない…ドレスを着て、誓いの言葉だって交わしてない…なのになんで!なんで今なんだよ!?」
もしも今、リュクサが目の前にいたならば、シノブは迷わず拳を振っていただろう。
「あいつは…一人じゃ立つこともままらなかった…専属医が隣にいないと、何一つできない木偶の某だ…そんなやつがデスルーラーだと?笑わせんなよ、リュクサ・ノクティス!!!」
次第に激昂していくシノブの目からは、絶え間なく涙が流れている。
マリの死を悼むとともに、リュクサへの恨みを募らせているのだ。
「マリ…マリ…ごめん…。俺が家を空けてなければ…俺が、もっとソウルヒーラーで稼げていたら…」
たった一日でもいい。
時を巻き戻せるのなら、そうしたい。
そして、二人で婚姻届を書いて、役所で受理してもらって、束の間だけだが「コウサカ」の姓を名乗れるようになれば、晴れて夫婦だったはずだった。
「マリ!!!!!」
忌まわしいオーラの正体に先に気づいたのは、ノエルだった。
リュクサの魔力を得てから、魔力の機微にいち早く気づけるようになっている。
だから、すぐさまリュクサの隣に立つ。
彼は今しがた、今日最後の魂を送ったところであり、ノエルが近づくと愕然とした表情を浮かべた。
「トクナガさんが…亡くなりました」
「ああ、そのようだな」
ノエルは、リュクサがなぜマリに対する姿勢を硬化させたのかを知っている。
リュクサが話さずとも、魂を通じてわかってしまうのだ。
「彼女の…魂がまだ来ない」
「どうするおつもりですか?」
ノエルは問いかけるが、リュクサは無言のままだった。
デスルーラーは相手が誰であれ、魂の送り先を明かしてはならない。
だからリュクサのこの声も、ノエル以外の誰にも聞こえない。
『彼女の魂は、地獄行きだ』
魂に直接語り掛けられる、壮絶な一つの魂の結末。
事情はどうあれ、リュクサの魔力で一時的に病気を退けた罪は重い。
だから、天国には行けないという意味だった。




