23-3
彼女を襲った異形の爪を、アクスルが身を挺して防いでいた。
白い寝台のうえに広がりゆく鮮血を見たエルフリーデは戦慄。しかしその瞬間、アクスルの身から離れた異形の腕が、さらに彼に向かって振りかざされるのが見えた。
エルフリーデはとっさに腕の中の子犬をマイルズのほうへ放る。迷わず足首に装備してある短刀を抜きさり、渾身の力で床を蹴ると、アクスルに向かって振り下ろされる異形の腕をめがけてその白刃を鋭く突き出す、が……。
「!」
彼女の繰り出した短刀が、異形に届くことはなかった。
確実にその身を捉えていたはずが、刃がすり抜けてしまったのである。まるで霞を斬ったような感触に、エルフリーデは愕然とする。
攻撃が効かない。これではアクスルを守れない、と、身体に怖気が走る──が。
彼女の手と短刀が異形と重なって見えた瞬間に、それは振り上げていた腕を驚いたように引いた。禍々しい腕は、そのまま怯えたようにアクスルの首の輪の中に戻っていってしまう。
この光景に、エルフリーデは唖然。
(これは………………)
脳裏に何かが引っかかっていた。
何か──この不可解な存在について、思い出されなければならない欠片が記憶のどこかにある気がして──……。
しかし、エルフリーデにはその何かについて考える暇はなかった。
彼女のそばでは、彼女をかばったアクスルが血を流して倒れている。
エルフリーデはすぐに我に返り、彼のそばへ駆け寄る。
アクスルは、ぐったりとまぶたを閉じて動かない。
異形の刃に倒れたアクスルは、すぐに王城内の医務室に運ばれた。
幸い急所は外れていたが、彼の意識はまだ戻っていない。
エルフリーデは、彼が異形に貫かれた瞬間のことを思うと、言いようのない苦しみに胸が焼かれるようだった。
「エル……大丈夫か?」
「……兄上……」
医務室の前でうなだれる妹に、マイルズが悔やむ青い顔で、深々と頭を下げる。
「悪かった。俺がシュバルツを連れてきたばっかりに……」
うなだれた兄にエルフリーデは苦しい息を吐いて、いいやと首を振る。
「兄上が悪いわけでも、あの子が悪いわけでもない……。わたしがもっと機敏に動けてさえいれば……」
そうすれば、アクスルに自分をかばわせることもなかった。いや、そもそも、自分が無理に彼と婚姻し、アクスルを倒れさせなければ。
後悔に苛まれる妹に、マイルズは、それは違うと言いかけるが。彼の言葉を固い顔でさえぎって、エルフリーデは声を潜めて言う。
「兄上。ひとまずあの子を団営に連れて帰ってくれ。この件には、あの子が関わったことを伏せてほしい」
あの子、とは、子犬のシュバルツのこと。
アクスルは王太子の大切な補佐官。シュバルツのせいで怪我をしたとなれば、子犬など処分してしまえと糾弾される可能性は大いにある。
もちろんエルフリーデだって、彼が傷ついたことに責任を痛感しているし、悲しいが……。
「あの子は……わたしが託されたんだ。これ以上危険な目に会わせるわけにはいかない……」
可愛がっていた子犬を、泣きながら『助けてあげて』と自分に託した少女のことを思い出すと、たとえそれがアクスルのためでも差し出したりはできなかった。大変な事態になってしまったが、あの無垢な命が悪いわけではない。
「責任はわたしが取る。兄上は、とにかくあの子を守ってやって」
しかしマイルズは、それはできないと反発。
「いや、こんな時に兄貴が妹を置いて帰れるかよ! お前がシュバルツを連れて団営に帰れ。俺が……」
言いかけたマイルズが、妹の表情を見て言葉を切る。
エルフリーデは、これまで兄が見たことがないような必死なまなざしをしていた。
「……兄上、わたしは、アクスル様のそばを離れたくない」
苦しそうで、まるで、そんなことをしてしまえば自分が死んでしまうとでも言っているかのような顔。
お願いだから、と、絞り出すような声で懇願されて、マイルズは戸惑い沈黙。
妹の目には固い決意があった。その悲痛さに、兄は迷いながらも頷くしかなかった。
この妹の意思の固さは兄としてよくわかっている。これはきっと、彼がどんなに言葉を尽くしても、折れはしないだろう。そして、無理やり連れ帰ろうとしても、その武力を駆使して全力の抵抗をされる。
マイルズは、奥歯を噛みながらも妹の決意に屈す。
「……わかった。だが用心しろ。また呪いが襲ってくるかもしれねぇし、誰かにアクスル卿に怪我をさせた責任を取れと言われるかも……」
「わかっている」
「すぐに誰かをよこすからな、待ってろ」
「ああ」
エルフリーデが頷くと、マイルズは不安そうに、しかし素早く子犬を連れて退城していった。
その姿を見送りながら、エルフリーデはアクスルのことを考える。
──あのとき。
自分をかばってくれた彼の顔を、彼女は一生忘れることができないだろう。
あの、必死に自分の無事を祈る男の顔。
『──大丈夫ですか⁉』
そう問う声が、確かに聞こえたのだ。音にならずとも、声に出ていなくても。彼は痛みを受けながらも一心に彼女を案じていた。
その瞳を思い出すと、エルフリーデは胸が張り裂けそうだった。
これまで、戦士たち、賊たちから身に受けた、どんな強烈な一撃よりもそれは痛かった。
思わず廊下の壁にすがる。彼を待ち、しっかり立っていなければと思うのに、悲しさが全身に覆いかぶさってきて、重くて重くてまっすぐ立っていることができない。
と、そこへ、医務室からロリーが飛び出してくる。
「っ若奥様! アクスル様の意識がもどりました!」
「!」
その報せに、途端あえいだエルフリーデの顔がグッと歪む。
「……、……よかった……」
胸が震え、手が震え、声が震えた。
小刻みに揺れる青白い頬には、透明なしずくが幾重にもすべり落ちていった。
──翌日。
国王の執務室では、第三王子が傍らに立つ王太子を尊大に横目で見ながら、大げさな口調で言い放っていた。
「殿下、あの娘は本当に《神託の花嫁》なのですか?」
その言葉には、大いなる棘がある。




