23-2
揚げ足を取られた妹は憮然としていたが。ところで、と、話題を変える。
武術はできても不器用な彼女は、この器用で如才ない兄に口では勝てない。
エルフリーデは視線を落とし、己の腕の中で嬉しそうな顔をして、彼女の頬をしきりになめようとしている子犬を心配そうに見た。
「兄よ、王城にこの子を連れてきて大丈夫か……? 衛兵や王家の使用人の方々に止められなかったのか……?」
「いや、もちろん王太子殿下から許可をもらってるよ! だってさ、今は俺以外の家族はみんな、お前の結婚で動揺してるからさぁ、こいつの世話をまともにできるのは俺だけなんだよ」
まだ子犬だし、心配だし、団営の奴らはガサツであてになんないし、と、続ける兄に、妹は首を傾ける。
「動揺……? どういうことだ……?」
マイルズの話によると。
現在、バルヒェット家では、父も長男も次兄も、突然の娘(妹)喪失に、失意の底だという。
その意味がつかめずエルフリーデはきっぱりと反論。
「そんなわけがないだろう。グリゴア兄上は、まあ、分からないでもないが……。冷静な父上やライノア兄上がわたしの結婚ごときで動揺などするわけがない」
感情的な長兄グリゴアと比べ、次兄は明るい性格だが、近衛騎士を務めているだけあって──というか、グリゴアのような猪突猛進な兄がすぐ上にいるせいか、ライノアは非常に落ち着いた性質である。取り乱したところなどほとんど見たことはなく、騎士団を預かる父は言わずもがな。
しかし、マイルズは首を振る。しみじみとしたその顔に、エルフリーデは怪訝。
「多分……お前が結婚したことで、みんなエルが女だったことを今さら思い出したんだな……ほら、今まではずっと、末弟みたいな感じだっただろ?」
「それは、まあ……その通りだが……いや……しかし、レオン兄上がいるだろう……? レオン兄上なら恋愛脳だから……」
妹の結婚なんて、と、言いかけるも。三兄はイヤイヤイヤと、今度は首と手を素早く何度も往復させている。
「あいつこそ今一番あてになんねぇよ。あいつ『すぐ下のエルが自分より先に嫁いだのは、バルヒェット家の恋愛隊長として許せない!』……とか意味分かんねーことぬかして、町に繰り出して女の子を追いかけてんの」
「…………」※エル、グッと眉間にシワがよる……。
この報告に、末妹は沈黙。まあ、ありそうな話ではあるが……そうやって張り切って異性を追いかけては、そのたび何かと面倒ごとを引き寄せてくるのが四兄という男で。これはまた何かありそうだと、つい表情が険しくなる。どうしてもシワのよってしまう眉間を押さえ、エルフリーデはため息をこぼした。
「……よもや……わたしの婚姻が父上たちにそのような影響を及ぼすとは……」
「そ。だから今うちで頼りになるのは正直俺だけだぞ、心得とけ」
「……」
兄のしたり顔と、思いがけない知らせにエルフリーデが複雑な心境で呆れていると。
ふいに、彼女の腕の中にいた子犬がキャンッと高く鳴いた。
「!」
次の瞬間、彼はエルフリーデの腕の中からとびだして。そのままアクスルの眠っている寝台に着地し、そこに横たわっている男の顔や身体をふんふんと鼻で嗅ぎだした。何かを探すように、鼻先を彼に押し付け、無邪気に、しかしどこか必死にアクスルにじゃれ付きはじめた子犬を見て、エルフリーデは慌てた。
その脳裏にあるのは、王太子アントンから聞いた、令嬢リシェルの話。
令嬢が無理やりアクスルの呪いに触れようとしたとき、異形は彼女を襲ったと。
エルフリーデもその呪いと直に対峙した。あんな恐ろしいものが、もしシュバルツを襲ったら。小さな身体はきっとひとたまりもない。
エルフリーデは無邪気な子犬に素早く手を伸ばし……が、それよりも早く、アクスルの首の輪が反応を見せた。
エルフリーデとマイルズは息を呑む。
子犬がアクスルの首の輪をなめた瞬間、室内に何かの鋭い叫びが響き渡った。
耳を裂くような音は衝撃波となって、エルフリーデと兄に襲い掛かる。
「っ⁉」
顔面に向かってくる鋭い風圧を感じ、エルフリーデはとっさに腕で顔を覆う。と、その腕には切り裂いたような細かい傷が。
鮮血をしたたらせつつも、即座に態勢を整えたエルフリーデはハッとした。
寝台の上で横たわったままのアクスルの首の皮膚上で、呪いの痣がのたうち回っている。
(……っ這い出ようとしている!?)
──何故かとっさにそう思った。
それはまるで、呪いが閉じ込められた檻の中から飛び出そうと、必死にもがいているかのようだった。
青白いアクスルの皮膚の上で黒い異形の腕が暴れると、彼の首は盛り上がり、かと思うと、ひねられたようなあとがつく。そのたびアクスルは苦しそうな顔をして。苦悶の表情を見たエルフリーデは、とっさに彼に駆けよろうとする、が。
この瞬間、アクスルの首から、ついに呪いが飛び出した。
黒き歪な腕が、寝台上でキョトンとしている子犬の身体に向かっていく気配を感じ。エルフリーデは、瞬間的に目標を変え、アクスルに伸ばそうとしていた手をシュバルツへ。小さな身体をつかんで腕の中に閉じ込めた瞬間、また、異形の絶叫が聞こえた気がした。
「⁉」
「エル‼」
兄の悲鳴に重なり、耳をつんざくような、高い、狂おしい怒号が彼女に憎々しげに浴びせられた。
エルフリーデは、ぐっと身体に力をこめる。
腕の中には、小さなぬくもり。この幼く柔らかい身体には、絶対にその刃を届けさせてはならぬと強く思った、瞬間。彼女の背中で鮮血が、散る。
「⁉」
……その光景に。エルフリーデの喉がひゅっと鳴った……。
血にまみれた異形の手が、ロウソクの灯りを受けて、てらてらと鈍く光っていた。
異形の手は、貫いた肉からゆっくりと爪を抜く。その動きは、なぜかフラフラと、ゆらゆらと陽炎のように揺れている。だが、エルフリーデは、そんな異形のようすに気を留める余裕などなかった。
その爪先が貫いていたのは、肩。
……ただし、それは彼女の肩ではない。
刃を受けたのは、寝台で眠っていたはずのそのひと。
闇夜の薄い灯りのなかで、夜着を着た身がゆっくりと崩れ落ちていく。彼の肩口を柔らかく包んでいた布の下からは、すぐに赤々としたしみが現れ。みるみるうちに広がった血が、寝具にまでしたたり落ちていた。
この光景に、エルフリーデは戦慄。
王城の夜を、彼女の生まれて初めての絶叫が貫いた。




