22-3
気分は、どこか見知らぬ宇宙にでも放り出されたような心地。
千々に散ってしまった思考が、一向に戻ってこない。
あのとき……彼の目の前には、愛しい女神の顔が確かにあった。長いまつげに縁どられたまぶたが、しっかり閉じられていた。その表情は、どこか勇ましく。アクスルは思い出すだけでも惚れ惚れとする。
しかし、それはとても現実とは思えぬ出来事であった。
(ぇ──? わたしの……妄、想……か……?)
だとしたら、なんて無礼な妄想だろう。
よもや、自分がそんな……彼女と唇を重ねるなんていうありえない妄想をするなんて。まだ、この愛すらまともに請うていない状態で、自分が、よりによって彼女の唇にふれるなど、あるわけがない。
呆然とするアクスルは……ここでふいに、どこからか、地割れのような振動が迫ってくることに気がついた。
断続的に、身体を揺さぶってくるような、大きな振動。その音は、どくどくと耳にうるさいほどに響く。
(これは、いったいなんなんだ……?)
困惑しながら、彼は気づく。なんだか身体がとても熱い。まるで身体中の血液がすべて溶岩となり、ふつふつと沸き、今にも噴火のときを待っているかのようだ。
(な……なぜ……?)
原因はなんだと考えはじめると、徐々に思い出される。
頬に添えられた手。その手が首筋に流れ、グッと引きよせられたこと。そして、ふわりと花のような香りがして、下からすくいあげるように唇に振れ、彼の呼吸を止めたもの……。
「⁉」
間近に迫ったエルフリーデの顔を思い出したアクスルは、その瞬間、脳を貫かれるような衝撃を受けた。それは、彼が受け止められる許容量を遥かに超えるダメージ。
もう、尊いとか、冒涜だとか、そんなことは頭にも浮かばない。
とにかく、負荷過多。精神にも、肉体にとっても。それは現在の彼にとっては、受け止めきれぬ破壊力。
と、ここで遠くから誰かの声。
「──ちょ……アクスル様! アクスル様! 正気に戻ってください! このままでは、記念すべき瞬間を、白目を剥いて見過ごしちゃいますよ!」
「⁉」
ロリーの必死の呼びかけに我に返ると、彼はいつの間にか椅子に座っていて、ペンを握っている。
そして、向かい側の席では、先ほどの紳士が、何やらの書類を机の上でトントンと揃えていた。
「はい、ではこれで結婚契約は成ったということで」
(……え?)
「ありがとうございました登記官殿」
ポカンとする彼の隣からは、満足そうな紳士に礼を言う者が。
「急なお願いを聞いていただき、感謝しております」
「いえいえ。槍の黒女神様のためならこれし──えへん。いえ、お祝い申し上げます。おめでとうございます、アクスル卿、バルヒェット嬢」
途中、何かをせきでごまかした登記官は、末永くお幸せに、と、頭を下げた。しかし、彼のアクスルを見る視線には、どこかイガイガしたものを感じた。
……あれ、この男、《黒女神》の集会で見たことがあるような……と、思ったとき、アクスルは、ここでようやくハッとして事態に気がついた。
「⁉」
どうやら……彼は、意識がもうろうとしている間に、エルフリーデに言われるまま、結婚登記のための書類に署名をしてしまっていたようだった。
登記官が恭しく鞄にしまった書類に、確かに自分の筆跡で名前が記してあるのを目撃したアクスルは、目をむいた。
「⁉ ⁉」
ど、どうなっているんだ⁉ と、驚愕のまなざしで隣を見ると、彼と同じく椅子に座っていたエルフリーデが、にっこりと笑う。
「よかったです。すぐにそちらも証人となってくださる方が来てくださって」
「⁉」
ぎょっとして振り返ると、王太子アントンと、彼を支持する大臣が、「え、えへ……」という気まずそうな顔で彼を見ている。
「お、おめでとうアクスル!」
「おめでとうアクスル卿! し、式の時はぜひ呼んでくれ!」
目を泳がせつつ言う二人に、アクスルは愕然。大臣は愛想笑いを浮かべながら、そそくさと逃げていった。(※アクスルが怖い)
残された王太子は、やはりアクスルには愛想笑いだが、その視線がエルフリーデのほうへ向かうと、彼のまるい瞳は何故か敬愛に満ちている。それは《黒女神崇拝会》のメンバーが彼女を見る目にそっくりだった。
「⁉ (殿下⁉ ど、どいうこうことだ⁉)」
いまだ状況が理解できていないアクスルがうろたえていると、そんな彼の肩を誰かがガッシリとわしづかむ。
……ここまで押し黙って状況を見ていたエルフリーデの父マリウスである。
「⁉」
「……アクスル卿、娘を、頼みましたぞ……」
ずっしり告げる父の顔は、笑っているようで、笑っていない。その表情は、隣に立つ次兄ライノアも同じ。二人とも、どこか威圧的な顔でアクスルを見ている。
屈強な二人に両側から迫られたアクスルもどこか及び腰で、そんな男たちの攻防を見た三男マイルズは、やれやれという顔。
これにはエルフリーデがいい顔をしない。
「父上、兄上、アクスル卿を威圧しないでください。この方は小鹿のように繊細なんですから」
そう父たちを牽制して追い払ったエルフリーデは、呆然とするアクスルに微笑む。
「アクスル卿、これで、晴れて我らは夫婦ですね。これからはわたしが守って差し上げますからご安心を。……旦那様」
首を傾けて、にっこりそう呼ばれた男の驚きは、まさに壮絶であった。




