20-5
牢から解放されたエルフリーデは、そのまますぐにある場所へ。
しかし彼女は何日も閉じ込められていたうえ、まともに食事もとっていない。
迎えに来た兄たちは彼女を心配し、先に身体を回復をさせてからにしてはどうかと提案したが、彼女は頑として譲らなかった。
そうしてその者と再会を果たしたとき、彼女は深い安堵と後悔で思わず涙した。
顔に拳を押し当て、声を殺して嗚咽する妹を見て、兄らはとても戸惑っていた。
エルフリーデが涙を家族に見せたのは、母親が亡くなったとき以来。本当に久しぶりのことだった。
案の定、そんな妹の後ろでは、感情豊かなグリゴアがもらい泣きで大号泣。
そうして立ち尽くしてすすり泣く娘に、そのひとはかすれた声で言う。
「あらあら……エル様ったら……わたしなら大丈夫だから泣かないで……」
真っ白な寝台に横たわっていたのは、アンナだった。
これはお互い様だったかもしれないが、すっかりやつれた彼女の顔を見て、エルフリーデはいっそうつらそうな顔。しかしアンナのほうは、やっとこの娘の顔を見られたとあって、とても嬉しそうな顔だった。
ここは王城の医務室。
あの日、カトリーナの下敷きにされ、頭を強く打って怪我をした彼女は、ここで保護され、王太子の庇護下で治療を受けていたらしい。
話によれば、彼女ははじめ意識不明で、第三騎士団によって団営の医務室に運ばれた。
しかしその後、容態が安定すると、監視をつけていたアクスルが速やかにこちらにうつしてくれたそう。
もちろん、それはアンナを守るため。
彼女はあのとき、すべてを見ていた。
彼女に証言をされては困る者たちが、きっと彼女を狙うだろうと考えたのである。
そして案の定、彼女は危うく侯爵の手の者に連れ去られそうに。
けれどもそこは、第四騎士団がアンナの周りを固めて絶対に譲らなかった。
エルフリーデの父や兄、他の団員や職員たちが代わる代わる彼女を守り、ああだこうだと理由をつけては、隙あらば彼女を第三騎士団の支配下に置こうとする者たちを、絶対によせつけなかった。
そうした皆の連携で、無事王城で治療を受けることができた彼女は、先日やっと目が覚めたばかりだそう。
その話を聞いたエルフリーデは、心底申し訳なくて、悲しくて。でも、アンナがこうして無事であったことは本当にうれしくて。彼女のことを、皆が守ってくれたこともありがたくて……。
とにかく色んな感情が押し寄せて、とてもではないが、あふれる涙を止めることができなかった。
「本当に……すみません、わたしが、策に乗せられ、油断したばかりに……」
膝にほとほとと涙を落としながら言うと、アンナは、何言ってるの! と、エルフリーデの手のひらをぺちぺち叩いた。
「世の中悪い奴がいるんだから! エル様のせいじゃないわよ!」
アンナの声はまだ弱々しかったが、でも口調は以前と同じ。屈託のない話し方が、なんだかとても懐かしく感じられて。やっと、外に出られた実感がわいて。エルフリーデはまた無言で涙した。
「……、……、……」
医務室で静かに泣く娘の姿を、入り口の影からそっと見守っていたアクスルは、ふと背後に気配を感じて振り返る。
そこに微笑んで立っていたのは、オリス・ハルトマン。今日は、近衛騎士の制服を身に着けている。
「こんにちは。アクスル卿」
「………………」
その笑顔に、一瞬目を細めたアクスルではあったが、彼は、今回のエルフリーデ救出の功労者である。複雑な思いはあったが、彼は小さく頭を下げた。
オリスに会話を求められ、二人は医務室のそばにある談話室へ。
そこは広く開放的な空間で、王城の医務室で長期に治療を受けるものの家族が利用するためにつくられた広間であった。
アクスルは、その一番奥の席にオリスと座る。彼らの間にあるテーブルには、筆談用の紙とペンが用意された。
まず、アクスルが書く。
『このたびは、本当にありがとうございました』
その文字を見て、オリスが笑う。
「いいえ、わたしも当然バルヒェット嬢をお助けしたかったですからね」
彼の『当然』という言葉には、小さな含み。きっと、アクスルに協力を依頼されずとも、自分は動いたと言いたいのだろう。
アクスルもそのことには気がついたが、口の端を持ち上げるだけに留める。
少なくとも今は、彼に何か言うつもりはない。
『第三騎士団の副隊長を動かしてくださったとか』
「はい。彼はわたしの知己でして。前々から第三騎士団の団長の、長としての資質については相談を受けていたのです。でも、あの男はさまざまな貴族と繋がっていて、糾弾が難しかった。ですから今回のことは、組織の正常化を図りたかった彼らにとっては渡りに船だったでしょう」
どんな組織でも、上が横暴であれば、下にはひずみが生まれていく。
第三騎士団も、団長がその地位を利用し、貴族たちと懇意にしていたせいで、不満を持っていた者たちは多かったようだった。
アクスルたちは、《黒女神崇拝会》の会長と、オリスを介し、その筋からも第三騎士団内の情報を得ていた。
そうしてカトリーナとの結託や、賄賂の享受、そのほかの貴族や富豪との癒着。部下に対する暴力的な行動や、団規則の違反などで訴えられた第三騎士団団長は失職。騎士位を剥奪され、現在は王城下の牢獄に。
罪が多すぎて量刑が確定しておらず、まだ王都にはいるが、いずれ遠方のより強固な監獄にでも送られることだろう。
これらの不正をアクスルが暴いたことで、その主たる王太子は国内での評価を大いに上げることになった。彼の勢力が弱まることを願い、アクスルの呪いに乗じようとしていた者たちにとっては、さぞ悔しい結果であろう。
と、ふいに、アクスルの顔を穏やかにながめていたオリスがつぶやく。
「……実に複雑な気分です」
彼は己の前にあるテーブルに視線を落とし、静かにため息を吐く。
「あなた方の侯爵家は、いまだ内部に様々な問題を抱えておいでです。あのようなことがあって、父君は、諸悪の根源たる情人を切り捨てましたが……あなたと父君は関係が悪化なさった。その不和は、ご家庭内に暗い影を落とすでしょう」
その指摘には、アクスルも沈黙。
確かにそのとおりである。
父の性根は変わらないし、両親はアクスルを愛してはおらず互いに自分勝手。カトリーナがいなくなっても、領地には父の新しい愛人が。
アクスルは息苦しさを感じて、思わず天井を仰ぐ。
生まれついた家の悩みは、これまでもずっと彼に重くのしかかっている。そう簡単に浄化されるようなものではない。
そんな彼を、顔を上げたオリスは真っすぐに見て、はっきりと言った。
「正直なところ、わたしは今でもバルヒェット嬢は、わたしと婚姻したほうが幸せになられるだろうと思っています」
瞬間、アクスルが奥歯を噛む。
反論のしようがない。アクスル自身も、自分の家の冷たさをよく心得ているのだから。
しかし、ここでオリスは、ふっと苦笑。
……実は。アクスルが《黒女神崇拝会》の会長に協力を依頼し、エルフリーデへの熱烈な愛情を吐露したとき。オリスもあの場にいたのである。
あの日の夜、彼はもともと会長と会う予定だった。迎えをやったのに、会長が誰かに連れていかれたと報告されたオリスは、すぐにその行方を追う。
捜索させると、会長はアクスルらと城下町のある会員制のサロンに入ったという。もちろん彼はその場へ駆けつけた。
そこは《黒女神崇拝会》が、いつも会合で使っている場所。(※サロンのオーナーも《黒女神崇拝会》の会員)
オリスはオーナーに話をつけ、彼らの話を物陰から聞いていた。
……知っておきたかったのだ。
この件で、アクスル・クヴァントがどのような立ち位置でいるのか。
エルフリーデを糾弾しているのは彼の父の愛人。
そして牢に入れられた彼女が、身内にすら会えないよう命じているのは彼の父。
その息子たるアクスルが、エルフリーデの味方なのか、それとも敵なのか。
そして、彼女に『結婚します』と笑って決断させた男が、いったいどんな人物なのかを、オリスは心の底から知りたかった。
……あのときに見た、アクスルの真摯な訴えを思い出したオリスは切なそうに微笑み、その顔を見たアクスルは、不思議そうに卓上の紙にペンを走らせる。
『オリス卿?』
「ふふ……いえ、なんでもありません」
青年は諸々の苦さを呑み込み平静な顔を作ると、目の前で怪訝に眉をひそめている男に逆に問うた。
「それで? お二人は、ご結婚なさるのですよね?」
いつごろですか? と、続けようとして──……ここで彼は言葉を切る。
彼の問いかけを聞いた瞬間、アクスルの顔色がザッと変わった。
「……おや?」
微笑んでいたオリスが、キョトンと瞬く。
その目の前で、アクスルが──テーブルに沈んだ。
ゴツッと鈍い音がして。木の卓上に苦しげに爪を立てはじめた男に……オリスは不審。
「……クヴァント殿?」
どうしたのですか? と、問うも。アクスルの背は、なぜかぶるぶる震えている。
……どうやらこの男。これまで必死過ぎて忘れていたが……。
ここにきて、再びエルフリーデが、自分の最推しの女神だということを、思い出してしまったらしかった……。




