19-7
……
……
……
……それからどれだけの時間が経っただろうか。
耐えがたいような対峙の時を、ただ、ひたすらひたすら魔物と睨みあっていると。
彼女の前にいた異形が、ついに根負けしたように、ふっと煙のように姿を消した。
と、同時に苦しそうな鳴き声が辺りに響く。
……ギャッギャッ
……ギギギ
……グルル……
重なり、恨みがましく騒々しいそれは、やはり獣の声のようだった。
悔しそうに鳴く声が、徐々に徐々に遠ざかっていくのを聞いていると、闇に閉ざされていたエルフリーデの視野もしだいに光を取り戻していった。
「あ……」
気がつくと、彼女の目の前にはアクスルの顔。
彼を支えていたはずが、いつの間にか逆に彼に支えられていたらしい。
エルフリーデにはすでに時間の感覚が失われ、どれほどの時間を異形と対峙していたのかは分からなかったが……。緊張から解き放たれた身は、まるで徹夜の行軍でも終えたかのような疲労感。全身は冷や汗だろうか、粗末な囚人服がじっとりと濡れていた。
(ああ……あれは去ったのか……)
まずは心底ほっとして──しかし彼女はここではたと気づく。
アクスルに横抱きにされ、彼に握られた彼女の手のひらが、その首筋に触れていた。
そんな自分の体勢を見て、エルフリーデは一瞬とても慌てる。今の彼女の状態は、正直悲惨。
汚れ、汗、臭気。どれをとっても愛しい人にさらしたいものではなく……。
この羞恥で、よけいに汗が出るのを感じ、この感覚に彼女はとても戸惑った。
何せ、エルフリーデは、こんな感情をほかの誰かに抱いたことがない。
戦えば身は汚れて当たり前。戦士として堂々としていていいはずが……こと、アクスルの視線を感じると、感じたことのない居心地の悪さに顔が熱い。
ほとほとと額に汗し、エルフリーデは「す、すみません」と、彼から離れようとした。
しかし、距離を取ろうとした瞬間アクスルがスッと動く。
「!」
後頭部と背にそっと添えられた手。
そのまま軽く引き寄せられて、包み込まれるように抱きしめられた。
あたたかい感触に目を瞠るエルフリーデの耳には、アクスルの安堵するような息づかい。まるで、その呼吸と共に、彼女を深く胸に取り込もうとするような抱擁だった。
そして、もう片方の耳は、彼の胸に触れ、その下にある確かな鼓動を伝えてきた。
その響きを聞いた瞬間、彼女の頬にぽろりと雫が落ちた。
まるで夢からさめたような気分だが、彼が無事であるということに、果てしなく安堵した。
エルフリーデは、泣き笑いのような顔で問う。
「アクスル卿……大丈夫ですか?」
すると確かに彼が頷く。
彼の腕の中で顔を上げると、その首筋に刻まれた異形の痣は、ふたたび腕を縮めたように短くなっていた。今にも心臓に達しそうだった手は、首の輪の真下。
それを見たエルフリーデは全身で息を吐く。
ひとまずは、危機は脱したということらしかった。
と、ここでそばにいたアクスルの従者が言う。
「アクスル様、そろそろ……」
引き上げ時を知らせる言葉に、アクスルは一瞬苦しそうな表情。
しかし判断は早く、彼はもう一度だけエルフリーデをぎゅっと抱きしめてから彼女と視線を合わせる。
ゆっくりと動く唇が言う。
『かならず、お助けします。待っていてください』
音はなかったが、瞳から訴えられる強い気持ちはエルフリーデには伝わった。
彼女はにっこりと微笑む。
「ええ、お待ちしております」
清々しくエルフリーデが返すと、その言葉を受けたアクスルは、切なそうな表情で彼女の手の甲にキスをした。
そうして彼は、後ろ髪引かれるような苦悩の顔をしつつ、床に転がった看守を担ぎ、独房を出ていった。
廊下に転がり気絶しているリシェルのことは一瞥したが……従者らしい青年に合図をすると、彼に彼女を担がせる。
……どうやら、自分では絶対にリシェルに触れたくもなかったらしい。
「………………」
看守の持っていた鍵で牢を施錠し、ぺこりと頭を下げて、令嬢を担いでいった従者の青年を見送ると。独房内は、再びしんと静まり返った。
エルフリーデは、そこでひとりほっと息を吐く。
──わかっている。
現状では、アクスルは、彼女を連れて出たくてもできないのである。そんなことをしてしまえば、エルフリーデの立場は余計悪くなるだろう。
でも、彼女は一向にかまわなかった。
もしかしたら、この騒動で、第三騎士団の者たちには、また何か罰を与えられるかもしれない。
でも、彼がここまで来てくれたおかげで、自分はアクスルの一助となれた。
それだけで、これは罰を受けても十分に価値のあることだと嬉しかった。
そうエルフリーデが理解したとおり。アクスルたちが、彼女を連れ出せなかったのには訳がある。
もちろんそれは、エルフリーデの汚名をそそぐため。
ここで彼女を脱獄させては、無実の彼女を、永遠に犯罪者にしてしまいかねない。
ゆえに、アクスルは彼女を置いて第三騎士団の牢をあとにした。
そうして彼女に命の猶予を授けられた彼が乗り込んだのは、王都にある彼の母の別邸。
「あらあらまあ、迷惑だこと」
アクスルの母は、息子出迎えて優雅に笑う。
「あなたったら、わたしの家にあんなものを運び込んで、いったいどうするつもり?」
と、アクスルの代わりに従者が答える。
「もちろん、拷問です」
なんでもないことのように言った青年を、ウルカは声を響かせて高笑い。
「ああそう。面白そうね。よかったらわたしにも見学させてちょうだい」




