19-5
その者は物も言わず、リシェルをジッと見下ろしていた。
異様な空気を感じてとっさに身構えていたエルフリーデは、暗闇に浮かぶ顔を見てハッと息を呑む。
「アクスル卿⁉」
愕然とした彼女は、思わずうろたえて口走る。
「あなた──小鹿の心臓なのに……こんなところに来て大丈夫なのですか⁉」
その言葉を聞いて、周囲には一瞬怪訝な空気が漂った。
……え? 小鹿の心臓がなんだって……? と。
しかしエルフリーデはそれどころではない。
リシェルに頬を打たれてもずっと毅然としていた彼女は、アクスルが心配なあまりオロついた。
この独房はお世辞にも清潔だとは言えない。呪いで身が弱っているはずの彼が、踏み入っていい場所とはとても思えなかったのである。
けれども彼女に凝視されているアクスルは、その顔を見てほっと安堵の表情。リシェルに向けていた冷たいまなざしが和らいで、ほろりと笑った顔に、エルフリーデは一瞬言葉を失くす。
と、そのそばから消え入りそうな声が聞こえた。
「ア、アクスル様……」
アクスルの前に立っているリシェルが、震えて彼を見ていた。
するとすぐにアクスルの視線は彼女に戻り、その目は凍てつくような冷気をまとう。
言葉はなくとも敵意の露わな瞳に、リシェルは涙をにじませる。
彼に聞かれてしまった。とても、淑女の言葉とは思えぬ言葉の数々を。アクスルの目は、それを責めているようだった。
「ア、アクスル様、違うんです、これはその……あの女がわたしを挑発するから──」
リシェルは懸命に取り繕うとするが、アクスルは、そんな彼女を無視し独房の中へ入っていった。
「あ……」
自分のそばを素通りしていった男が、独房の奥で目を丸くしたままの娘のほうへまっすぐに歩いていく。
その娘は薄汚れているのに、アクスルはためらいなく彼女のそばへ。
「……、……、……」
自分の方へ向かってくる青年の姿に、エルフリーデは、しばし胸にこみあげるものに何も言うことができなかった。
ずっと彼らの安否を知りたいと思っていた。
その彼が、瞳も逸らさずに自分のほうへやって来てくれる。
エルフリーデは、途方もなく安堵して、瞳には涙が浮かぶ。
……しかし、彼女はすぐに気がついた。アクスルの顔色がとても悪い。
足取りも、どこか引きずるように重そうだ。
「アクスル卿、あなた……」
ハッとした彼女が言った瞬間、目の前までやってきたアクスルがふらついて。エルフリーデは慌ててその背を支える。と、続いて誰かが独房の中へすべりこんでくる。
気がつくと、リシェルを連れてきた看守が床に転がっている。どうやら、後ろからやってきた褐色の髪の青年が、看守を昏倒させたらしい。
「アクスル様……」
彼はアクスルに何事かをささやくと、エルフリーデの前へやって来て頭を下げる。
「バルヒェット様、お願いできますでしょうか」
真剣な目で請われたエルフリーデは、すぐに理解して重く頷く。
悠長に挨拶を交わしているような場合ではない。やるべきことは、わかっていた。
エルフリーデは、つらそうなアクスルをその場に座らせて、褐色の髪の青年が開いたアクスルの襟の中を見る。瞬間、彼女は息を呑み、あえぐようにもらした。
「これは……こんなに進んだのか……」
アクスルに刻まれた異形の手は、もはや心臓の位置までもうほんのわずかという場所まで来ていた。その距離は拳一つ分もない。
エルフリーデは苦悩を浮かべながらも、すぐにその痣に手を伸ばす。……と、そのときだった。
「⁉」
背後から、ドンッと何かに体当たりされたような衝撃。
……何者かが、彼女の腕に飛びついてきた。
「な……」
「やめて! やめなさい! やらせないわよ! それは私の役目なんだから!」
リシェルだった。
令嬢は泣きわめきながら、必死の形相でエルフリーデの腕を両手でつかんでいた。と、褐色の髪の青年ロリーが彼女を怒鳴る。
「リシェル様⁉ おやめください! 何をなさるんですか!」
青年は顔を真っ赤にしてリシェルをエルフリーデから引き離そうとしているが、泣きじゃくった娘は固くエルフリーデにしがみつく。
「……」
「絶対にやらせない! 絶対に、やらせ──」
そう彼女がわめいた瞬間のこと。リシェルの身体が、ふ……っと宙を舞う。
「え⁉」
ポカンとした娘の顔が、独房の天井をあっという間に横切っていく。
エルフリーデが──自分の腕につかみかかっていた娘の顔を、無言で見ていたエルフリーデが。彼女の首裏をつかみ、軽々と放り投げていた。
リシェルが死に物狂いでしがみついていたはずの腕は、信じられないほどの剛腕で一息の間に解かされて。そして次の一瞬には、令嬢の身体は一回転し。彼女はそのまま廊下へ放り出される。
そこには、エルフリーデの、アクスルを害する者に対する容赦のなさがにじみ出ていた。
令嬢を投げ飛ばした娘は、廊下に転がった女を一瞥することもなく、アクスルに向きなおる。
アクスルは苦しそうにうなだれている。荒い呼吸は、半分は周りに自身のつらさを気取らせまいと堪えているせいのように見えて、エルフリーデは堪らない。
「アクスル卿……よろしいですか?」
努めて冷静に訊ねると、青年の視線が彼女を見る。
こんな困難の最中でも美しい色の琥珀の瞳は、彼女に(触れてくれ)と、求めているようだった。
エルフリーデは、小さく頷くと、素早く痣に指を滑らせた。




