19-3
「……たしか……リシェル・ラングヤール嬢……で、よろしかったでしょうか……?」
彼女とは団営で一度顔を合わせただけである。記憶の端にあった名前をなんとか掘り起こすと、あの時と同じように令嬢の顔には侮蔑が浮かぶ。
そこには強い憎しみが宿っているようだった。
憎々しげな視線を放つ顔には憐れなほどにしわが刻まれていた。エルフリーデには、その怒りが分からない。
「あの、なぜこのようなところへお出でに……?」
彼女が牢に入ってから初めての訪問者が、この令嬢であったことが不思議でならない。
エルフリーデは立ち上がって彼女を迎えようとするが、リシェルはそれを「近寄らないで!」と金切り声で制する。
自らここに来ておきながらの、この拒絶。
エルフリーデは驚いて立ち止まり、思わず彼女の顔をジッと見つめた。たった一度顔を合わせただけの自分に、令嬢のこの怒りはいったいどうしたことか。怪訝に思いつつ見ていると、リシェルはエルフリーデを睨みながら吐き捨てる。
「こんな子が……こんな汚らわしい子がアクスル様の《神託の花嫁》だっていうの⁉ みんなどうかしているわ! どう考えたってわたしのほうが相応しいじゃない! 伯父様だってわたしをアクスル様の妻にするとおっしゃってくださっているのに!」
彼女はどうしても納得できなくてここに来た。
ここへ立ち入る許可は、伯父である侯爵に泣きすがってなんとか取ってもらった。
現在、エルフリーデに誰の面会も許されていないのは、侯爵の圧力によるところが大きい。ゆえにその姪であるリシェルには、こんな無理も可能だったというわけである。
……ただ、もちろん正規の手続きは踏んでいないから、公になれば大きな問題となる。
けれども狡猾な彼女は知っている。
騎士団の上役には、金さえ払えば密かに侯爵に融通を利かせる者がいるのである。
その者にとっては、令嬢を密かに団営に招き入れ、その時間の看守をすべて自分に忠実な者に変えておくことはたやすいこと。
そうしてここまで乗り込んできたリシェルは、歯噛みして恨み節。
「なぜわたしでは呪いを祓えないの⁉ こんな牢獄に入るようなクズにできて、慎ましく善良に生きているわたしに、どうして⁉」
言ったリシェルは、先ほど自分で『近づくな』と言っておきながら……驚くエルフリーデのほうへズカズカやってきて、彼女は大きく手を振り上げた。
その動作を見て、これは来るなと思ったエルフリーデではあったが、判断してそれを受ける。
それは、看守の暴行などとはまた違う、吐き出させたほうがいいもののような気がした。きっと避ければこの激情に駆られた令嬢は、さらに憤怒するだろう。
そうして独房のなかには乾いた音が響き……手のひらをエルフリーデの頬に叩きつけるように振るった令嬢はぜいぜいと肩で息をしていた。
まるで、自分のほうが叩かれたような顔をしているな、と、エルフリーデはどこかで思った。
実際、リシェルのなかでは、自分こそが被害者である。
「アクスル様はわたしのものよ! 突然割り込んできたあんたなんかに、あの方は渡さない!」
金切り声で叫ぶ女には、しかし彼女をここに連れてきたらしい看守がいささか慌てている。
「お、お嬢さん、どうかもう少し声を潜めて! 公になったら大変なんですよ!」
「うるさいうるさい! この女には思い知らせてやらなくちゃ気がすまないのよ!」
看守は小声でたしなめるが無駄だった。きっとよほどエルフリーデが憎いのだろう。リシェルの癇癪は止まらない。
「許せないっ! こんな下賤な女がわたしのものを奪おうだなんて! わたしは伯爵の娘で、侯爵に認められたアクスル様の婚約者よ!」
そんな令嬢の様子を。ただただ静かに観察していたエルフリーデは、内心では涙が出そうなほどにホッとしていた。
彼女は先ほど『アクスル様の妻にするとおっしゃっている』と言った。
ということは、少なくとも彼は今はまだ無事。呪いは心臓に達してはいないのだろう。
よかったと擦り切れるような安堵の息を吐きつつ。エルフリーデは、再び自分に向かってこようとし、看守に止められ泣きわめいている令嬢を見て、なるほどと思った。
「……つまり、あなたはアクスル卿の呪いを緩和させることができなかったのですね?」
言った瞬間、リシェルの双眸から憎悪が噴き出した。
だが、エルフリーデはもちろん怯まなかった。
別に彼女を見下そうとしたわけでも、自分の優位性をわからせようとしたのではない。ただ、不思議で仕方がないのである。
「あなたは……アクスル卿を愛してはおられないのですか?」
「っ⁉ 愛しているわよ! わたしが一番あの方を愛しているの!」
鬼のような形相で反論してきたリシェルに、エルフリーデは「ではなぜですか?」と、ごく落ち着いた調子で訊ねる。
「はぁ⁉」
「あなたは、アクスル卿を愛しているとおっしゃるのに、あの方の呪いを退けられるわたしが、ここから出られないことを喜んでいる。それはそのままあの方の危機であるのに。それとも……わたしの他に、呪いを止められる《神託の花嫁》が現れたのでしょうか……?」
しかし、そうならば、彼女の敵意はその者に向かっているはず。
だとしたら、つまり王太子たちは、現状アクスルのために新しい《神託の花嫁》を見つけられていないのだ。そう察したエルフリーデは、焦燥感から自然リシェルに向ける口調が厳しくなる。
「そうでないのなら、わたしがここに拘束され続けることは、アクスル卿のお命にかかわるのですよ?」
彼を愛しているのなら、のんきにエルフリーデを罵っている場合だろうか。
そもそも《神託の花嫁》自体が政略結婚。愛がどうこうという問題ではなく、アクスルの命を守るための策であると、彼女も分かっているだろうに。
しかしそんなエルフリーデの直言は、リシェルを怒らせるばかりだった。
「黙りなさい! 誰に物を言っていると思っているの⁉ わたしは伯爵家の娘なのよ⁉ 下賤の者が偉そう!」
そう真っ赤な顔で睨みつけてくる娘を見て、エルフリーデは虚しさを感じた。少しも話が通じる気がしない。
自分が《神託の花嫁》だとか、そんなことはどうだってよかった。
もし自分のほかに彼を救える者がいるのならば、それでいいではないか。何もかもが、命あっての物種だ。
(アクスル卿……)
彼の青年が心配で。歯がゆくて。
エルフリーデは、ふと、悪魔のささやきとも言える声を聞く。
──どうあっても、アクスルを助けたい。
──なら。
この令嬢を……人質にして脱出を試みてみようか……。
脳裏に浮かんだ考えに、エルフリーデは、自分の精神が一気に冷たく静まり返ったのを感じた。
まるで自分が、暗がりから獲物を狙う獣になったような気分だった。
憤慨している令嬢は、エルフリーデにしてみれば、あまりにもたやすい相手。
背後に棍棒を備えた看守はいるが、彼は令嬢の興奮状態に気取られて、エルフリーデに対する注意がおろそかになっている。
……今ならやれる。
エルフリーデは、そう確信した。
しかし、それは明確に禁じ手。
武器すら持っていない女性を相手に力に訴えるなど。けしてやってはいけないことだと、幼い頃から父に叩き込まれた。
でも、と、また悪魔が囁く。
(……でも、アクスル卿のお命がかかっている……)
彼が今もまだ苦しんでいるかもしれないと思うと、胸が潰れるように痛むのだ。




