18-3
苦しそうに首を押さえたアクスルの手の下から、何か……どろりと黒い液体のようなものがしたたり落ちていた。
アントンは、一瞬それを血と見違えて戦慄。
一目散に友に駆け寄って、しかし次の瞬間、彼はギクリと足を止める。
……それは、血などではなかった。
アクスルの首に刻まれている異形の痣から、何かがじわじわと漏れ出している。
得体の知れない黒々とした液体が、友の首を這い、そこから気化した霞がゆらゆらと天井にまで立ち上る。霞はしだいに形を成して。その一番先に、黒く、歪で、節くれだった手のひらのようなものを見つけ、リシェルが呆然とつぶやいた。
「な、何、これ……」
そんな娘を、アクスル傍らにたどり着いたアントンが怒鳴る。
「リシェル! 君はいったい何をした⁉」
「え……し、知りません……わたしは何も知りません!」
ここでやっと我に返った娘は怯えた顔で後退る。
自分は何も知らない。こんなものとは関係がない。自分は何も悪くないのだと金切り声をあげ、と、その瞬間。彼女の悲鳴に反応したかのように、霞が彼女に襲い掛かった。
しかしリシェルは、それが自分に向かってくることが理解できない。
それは、《神託の花嫁》たる自分の威光に焼き尽くされて、華々しく消えていくはずのものだった。
(な……なんで……?)
現実を受け入れられないリシェルは呆然と立ち尽くし、自分に振りかざされる異形の手をポカンと見つめるばかり。逃げるそぶりもない令嬢に、アントンは愕然として叫ぶ。
「リシェル嬢⁉」
しかしそのときだった。
霞の下から延びたアクスルの手が、彼女を強く突き飛ばす。
「っきゃ⁉」
床に転がったリシェルは肩をしたたか打つも、辛くも霞の鋭利な爪からは逃れていた。
霞に襲われた床には、えぐられたような痛々しい裂け目。それを見たリシェルは、絶句。
飛び出したアクスルの後ろでは、王太子が真っ青な顔で悲鳴をあげている。
「アクスル⁉ アクスル! え……衛兵! 解呪士殿を! 早く解呪士殿を呼べ!」
怒鳴った王太子は、そのまま果敢にもアクスルに駆けより、首を押さえてあえいでいる友の身体を支える。
そんな主を、アクスルは『危ない』『近寄るな』と言うように腕で押し返そうとしているが……。
幸いなことに、異形の霞はリシェルが彼のそばを離れると、いくらか怒りを収めたようだった。
そこへ解呪士が駆け込んできて、状況を見た老爺はすぐに王太子に変わりアクスルを介抱しはじめる。彼が異形をなだめる呪文を唱え、場が騒然とするなか。ただ一人、床の上で魂が抜けたように呆然としたままだったリシェルが、ぽつりともらす。
「……そんなはずない。わたしが……わたしが《神託の花嫁》なのよ……こんなの、おかしい……絶対に、何かの……間違いよ……」
彼女は周囲が混乱する中をよろよろと立ち上がり、人知れずその場を立ち去っていった。
そうしてようやく場が落ち着いたころ。解呪士が呆れと憤りのこもったため息を吐いた。
「……まったく無知ですな。状況も知らぬ者に施させた聖印のせいで、呪いが暴れだしてしまった。あれではまったくの逆効果! せっかく呪いをなだめて進行を抑えていたのに……あのご令嬢のせいで、呪いの核なる異形を怒らせてしまった。聖なるものならなんでも魔に効くわけではありません! あんな子供だましな聖印程度で祓えるなら……わたしがとっくに解呪できておりますよ!」
腹立たしげな老爺の言葉に、横たわるアクスルのそばで王太子は悲痛な顔。
「そ、それでアクスルは? 大丈夫なのか⁉」
「殿下、呪いはそもそも強い怒りや怨念でできています。それを逆なでしては、この先どんな不測の事態が起こるともわかりません。今すぐにでも《神託の花嫁》を連れてくるべきです。そうでなければ……」
言って老爺は言葉をにごす。それが何を示唆しているのかは、王太子にもすぐに分かった。アントンは涙をこらえながら言葉をしぼりだす。
「しかし、エルフリーデ嬢はいまだ牢の中だ……」
王太子はさいさん第三騎士団に彼女との面会を求めているが、騎士団長が頑なにそれを拒む。
その理由は、被疑者の精神状態が非常に悪化していて、牢獄内で暴力的にふるまっているからだという。
『あの者は、現在近づくものには誰彼構わず暴力をふるい、非常に危険な状態です。なんといっても、武道大会で優勝するような猛者ですからねぇ。あのような狂暴な者には、高貴なお方を会わせるわけにはいきません』
そう述べる騎士団長の顔には、わざとらしさがあった。
同じ理由で、家族たちも面会を断られて。取り調べも進まないため、拘留し続けるしかないという。
もちろん、アクスルたちはその言い分を信じてはいない。
あの気性の穏やかなエルフリーデが、牢に入れられたからといって狂暴になるなどあるだろうか。
つまり、第三騎士団は、彼女をアクスルに会わせないように画策している。
それが何者の意向によるものなのかは分からないが、それが分かったとて、彼らに時間がないことは変わらない。
「どうすればいいんだ……」
このままではアクスルは、捕えた証人たちの到着を待たず、命を落とすかもしれない。そして、同じくエルフリーデも、カトリーナを害した罪で処罰されてしまうかもしれない。
と、焦り、途方に暮れる王太子のかたわらで横たわっていたアクスルが、不意によろよろと身を起こす。
「アクスル⁉ 起きるな、寝ていろ!」
しかし男は首を振り、紙とペンを要求。首を横に振るとき、先ほどの傷が痛んだのだろう。顔をつらそうにしかめていたが、彼はけして寝台に戻ろうとはしなかった。
『……殿下、こうなっては、もはや手段を選んではいられません』
その顔には、苦痛の汗がにじみ、息は荒い。
けれども琥珀の双眸には、何が何でもエルフリーデを解放したいという固い決意が鮮明に輝いていた。




