18-2
アクスルが自分を呼んでいると聞いて、リシェルは嬉々として王太子の執務室に向かった。
やはり、彼は自分を好いていてくれたのだ。
(やっぱりね。そりゃあそうよ。だってわたしはこんなに美しいし、アクスル様とは幼馴染でもあるのよ。小さな頃から尽くしてきたんだもの、わたしが花嫁に決まってるじゃない)
彼女は、父親からずっとアクスルに嫁げといわれて大きくなってきた。
そうすれば、兄の家の財産はすべて自分たちのものになるのだと。
彼女の父は、長兄が両親からほとんどの財産を受け継いだのを不満に思っていた。
父が爵位をふたつ所有していたために自分は伯爵位を受け継げたが、侯爵位に比べると当然それは劣る。
継いだ領地の広さも天と地の差。おのずと収入にも格差が生まれ、不満は募った。
ゆえに伯爵は、リシェルが生まれたときはとても喜んだらしい。
いずれは兄の息子に嫁がせて、その財産を管理させるのだ。
そう言われて育ったリシェルも、もちろんそのつもりで、ゆえに彼女は態度が大きい。
だって自分は侯爵家の嫡男の婚約者。未来の侯爵夫人だと自負しているのである。
アクスルに自分以外の女が嫁ぐなど絶対にありえない。
長年思い込めば、それはもう本人にとっては運命だった。
そんな彼女に対し、当のアクスルはいつも冷淡だったが、リシェルはそれを、きっとあれは彼なりの照れ隠しなのだろうと考えた。
だって、世間の誰もが彼は偏屈だと言った。偏屈がゆえに、リシェルに対する愛情も素直に表現できないのだろう。
その証拠に、彼は彼女の家が茶会や宴に招けば必ず来てくれた。
他家のそういった集いには、王太子が関わっていなければ絶対に参加しない人である。
(……それってやっぱり私に会いたいからよね?)
この優越感に、彼女はずっととらわれている。
アクスルは世間では嫌煙される噂も多い男だが、見目もよく、地位も将来性もある男。彼が偏屈だと言われれば言われるだけ、自分はそんな彼に特別扱いされているのだと、彼女は逆に鼻高々だった。
そんな彼を、今更、別の女に渡すなんてできない相談なのである。
(まったく王太子殿下もひどいわ。あの方の忠誠をいいことに、あんな女と婚姻をさせようだなんて! 本当に理不尽よ!)
王太子に何度も抗議したのも、女神神殿に押しかけたのも、エルフリーデに会いに行ったのも、すべてはアクスルを愛のない結婚から救い出すためである。
(わたしが、アクスル様を助けるんだわ……)
そうなれば、アクスルは自分をいっそう愛するようになるに違いない。リシェルはその愉悦に心を躍らせた。
「アクスル様!」
ノックもせずに執務室に飛び込むと、中にいた王太子が驚いた顔をしていたが……勇敢な《神託の花嫁》となった気分のリシェルの目には入らなかった。
王太子の隣の大きな肘掛椅子にアクスルが座っている。その青い顔を見て、リシェルは挨拶もせずに彼のもとへ駆けよった。
「おつらいのですね⁉ なんてお可哀想なの!」
リシェルはそばにいた王太子をキッと睨んで責め立てる。……相手が自分より高位だなんてことは考えなかった。愛の前にはすべてが許されると思った。
「殿下……なぜアクスル様がこんなにおつらそうなのに、わたしと引き離したりするのですか⁉ わたしという《神託の花嫁》がお傍にいれば、こんなことにはなりませんでしたのに!」
言ってリシェルはアクスルの手を取る。……が、その手はすぐに振り払われる。
「……アクスル様?」
目の前の男は肘掛椅子に背を預け、つらそうにうなだれている。それなのに、その男に、思いがけず力強く拒まれたリシェルは戸惑った。ここは『来てくれてありがとうリシェル!』と、愛し気に感激されるはずの場面である。
と、男の指が、そばのローテーブルの上をよろよろと指さす。
「……え?」
少しだけ顔をあげて、鋭い視線で(読め)と言うように促されたリシェルが、紙に困惑の視線を落とすと。そこにはきっぱりとした一文。
『帰りなさい。君はわたしの花嫁ではない』
一瞬ポカンとしていたリシェルの顔が、ゆるゆるとひきつった。
「な、何を言っておいでなのですか……? わたしは《神託の花嫁》で……」
すると、アクスルは、もう一度紙を指さす。
『帰りなさい』
その一文をもう一度示されたリシェルは、しばし何が起こっているのか分からなかった。しかし、目の前の男の冷淡な瞳を見て、徐々に彼が自分を拒んでいることを理解した。途端彼女の顔が真っ青に。彼女はこの屈辱に拳を握りしめる。細い肩がわなわなと震えはじめ、青白かった顔が、今度は怒りのためか真っ赤に。
そんな彼女を見ても、アクスルの表情は変わらない。
生気は薄く、今にも倒れてしまいそうな顔をしているのに、落ちくぼんだ瞳は毅然と輝いていた。
自分がこんなに怒っているというのに、謝ってくる素振りも、気遣う様子もない男に、リシェルは激昂する。
「……アクスル様は分かっておられない……わたしこそが、あなたを呪いから解放する《神託の花嫁》なのですよ!」
先ほどまで、あれだけ『自分こそが彼の花嫁だ』と浮かれていた相手に、リシェルは金切り声を浴びせて──何を思ったか、彼女は突然彼につかみかかった。
「リシェル嬢⁉」
いったい何をと王太子が止めに入るが、その手を振り払い、彼女はぐったりしたアクスルの襟を乱暴に開く。そこにある禍々しい痣を見て、彼女は一瞬顔をしかめたが、見ていなさいとまわりに怒鳴る。
「わたしがこの呪いを、今すぐ消して御覧に入れます!」
王太子が《神託の花嫁》に選んだエルフリーデが、彼の呪いを後退させたという話はもちろん耳に入っていた。
あんな女にできたことが、自分にできないなんてことがあるはずがないと思った。
更には念には念をということで、彼女は女神教会に押しかけたときに、大金をはたいて呪いに効果があるという聖印を手に入れてきたのだ。
そのほかにも呪いを祓うという道具を買いあさって、彼女はこの場に臨んだのである。
すべてはここで自分こそが《神託の花嫁》だと認めさせるため。
そうして彼の妻の座を、侯爵家を手に入れるため。
その思いに囚われた娘は、拒もうとするようにアクスルが持ち上げた手を取り、甘い声でささやきかける。
「アクスル様……今わたしが助けて差し上げますからね……」
そう言ってリシェルは、聖水に浸し、聖なる印を刻んでもらった手のひらで、アクスルの首に手を伸ばす。
その呪いが、彼女の威光に怯えて華々しく消滅するさまを、うっとりと想像しながら。
彼女の指先が、痣に触れた。
「っ!」
その瞬間、アクスルの首の上で一瞬痣が激しく踊る。
アクスルは苦しそうに顔を歪め、リシェルは、やったと思った。
やはり女神教会の聖水と印は効いた。
(──いいえ! これこそわたしの力なんだわ! やっぱりわたしは選ばれた存在なのよ!)
リシェルは、周りで唖然としている王太子たちに、勝ち誇ったように言った。
「ほら! ご覧ください! やはりわたしが《神託の花嫁》なんですわ! あんなみすぼらしい粗野な娘ではなく、わたしこそがアクスル様にふさわしいんです!」
リシェルの高揚しきった声が、室内に高く響いた。
──が。
リシェルがアクスルから視線を逸らせて高笑った瞬間のことだった。
肘掛椅子に押し付けられるようにして呻いていたアクスルが、苦しげにむせはじめる。
「っ!」
ぐっと口を押えた彼の手に散ったのは、真っ赤な鮮血。それを見たアントンが叫んだ。
「っアクスル‼」
「え」
次の瞬間、アクスルの首で苦しそうにうごめいていた異形の痣が、まるで怒り狂ったように暴れはじめた。
痣がうねるたびに、アクスルは苦悶の表情。喉に手をやり、身を折って咳き込む姿に、リシェルがぽかんとしていた。




