17-2
まるで全身の血がすべて凍ってしまったかのようだった。
絶句している間に、震える手に握られていた紙が指をすり抜けてどこかへ飛ばされていった。
……恐れていたことが、起こってしまった。
風に押されてたやすくふらついたエルフリーデが馬車に手を突くと、そこへアンナが通りかかった。
「……あら? エル様まだ行っていなかったの?」
どうやら団営の表を掃除しに来たらしい。ほうきを手にした彼女は、黒髪の娘の放心したようすに気づき、駆けよってくる。
「……どうしたの? 何かあった?」
心配そうな彼女に腕をとられ、エルフリーデは声を絞り出す。
「……アクスル卿が……、侯爵邸で……行かねば……」
「! エル様待って!」
そうとぎれとぎれに言いながら、足をもつれさせるように駆けだした彼女を、とっさにアンナが引き留める。
エルフリーデの顔は真っ青だった。
普段は呼吸ひとつ乱すことなく大槍を振るう娘が、今は呼吸を乱し、悲壮な顔をしている。
これにはアンナもすぐに何かを察したようで。
彼女はエルフリーデの手を取り、力強く請け負う。
「侯爵邸ね⁉ わたしもついていくわ! ほら、早く馬車に乗って!」
アンナは箒を団営の中に放り出すと、エルフリーデを急き立てて共に馬車に乗り込んだ。
「大丈夫よエル様、あなたがいたらあの方の呪いは解けるんでしょう? 大丈夫、大丈夫よ……」
車中でアンナは、ずっと凍り付いたようなエルフリーデに声をかけ続けてくれた。
肩を抱き、背中をさすって。隣によりそってくれる温かさが有難い反面、強い後悔の中にいたエルフリーデは、彼女に上手く言葉を返すことができない。
まさに今、アクスルが苦しい思いをしているのかと思うと、どうしても気が焦り、いろんな後悔が胸を苛む。
もっと早くに彼と話せていたら。
嫌われていてもいいから、ずっとそばを離れず呪いを監視していれば……。
(……いや、きっと、まだ間に合う……まだ、望みはあるはず……!)
エルフリーデは馬車に揺れる己の膝の上で、固く拳を握りしめ細く長く息を吐いた。
いまだ正体不明の呪いとは、どう戦えばいいのかもよく分かってはいない。
けれども相手がどんな存在でも、立ち向かう前に怯えていてははじまらない。
エルフリーデは、戦いに備えるような気持ちで、己の中で暴れる後悔や、アクスルを失うかもという恐怖をなんとか抑え込む。
それでも不安は完全には消えず、冷静になろうとすればするだけ、それを拒むような冷や汗が全身に伝った。こんなに自分を御せないことは、母の臨終のとき以来、本当に久しぶりである。
エルフリーデは、とにかく一心に祈った。
(アクスル卿……どうかご無事で……)
焦燥感をこらえた苦しい道中の末、なんとか馬車が侯爵邸にたどり着くと。エルフリーデは、停車を待つことなく車中から飛び出るように外へ出る。すると、この間の執事とは違う男が彼女たちを出迎えた。
「お待ちしておりました」
「あの、アクスル卿は……なぜ急変なさったのですか⁉ 解呪士はなんと……⁉」
「その、なぜ急変なさったかは、わたくしどもには分かりません……若旦那様はもう意識もなく、呪いの印は……もう、心臓の真上です」
「⁉」
それを聞いたエルフリーデは、堪らず男に懇願。
「お願いです! 今すぐあの方に会わせてください!」
「……少しお待ちください。今奥様に許可を……」
そう応え、男は邸の奥へ消えていった。その後ろ姿を、エルフリーデは歯噛みしながら見送る。
本当なら許可などなくとも、もう押し入ってしまいたいような心地ではあったが……幸いすぐにエントランスにカトリーナが現れる。
「ああ、いらしてくださったのね……」
カトリーナは、先日の横柄な態度が嘘のように沈んでいる。エルフリーデは、焦燥感をなんとかなだめ、礼を尽くす。
「カトリーナ様……あの、アクスル卿に会わせていただけますか……?」
エルフリーデは、できるだけ冷静に、上ずりそうになる声を押さえてその婦人に頼んだ。先日の一件もある。もし断られたらどうしようかと思ったが……意外にもカトリーナは彼女の頼みを退けなかった。
……しかし。
「いいでしょう。……あの子も、もうどうなるかわかりませんものね……」
「っ」
涙をぬぐうようなしぐさをしながらつぶやかれた言葉に、エルフリーデは息を呑む。
まるで、最後の別れを許しましょうと言うような、そんな意味に聞こえた。
その言葉が怖くて、呆然とする。しっかりしてと言ってくれるアンナの声が、とても遠かった。
エルフリーデは、「こちらへ。ご案内いたします」と、目を伏せながら言ったカトリーナに、先導されるまま、階段のほうへ。気持ちはどんどん急くのに、一段一段に足を持ち上げるのが、信じられないくらいにつらかった。
……と、長い階段を上がる途中、カトリーナが足を止める。
どうやら何かに長いスカートのすそが引っかかったらしい。進み続けていたエルフリーデは、彼女を追い越した場所で足を止め、彼女を振り返る。
「どう、なさいました……?」
「ごめんなさいね、アクスルが心配で足元をよく見ていなかったみたい……すそがひっかかった拍子に靴が脱げてしまったの」
申し訳なさそうなカトリーナに、エルフリーデは手を伸ばす。
早くアクスルのところに行きたい気持ちがあって、状況を深くは考えなかった。
「お気を付けください、わたしにつかまって──」と、その時だった。
カトリーナに腕を差し出して、彼女の下をついて来ていたアンナに視線をやって。彼女の靴を探してくれと頼もうとした、その時。
カトリーナがふいに、エルフリーデの肩越しに階段の上を見た。
「……あら? アクスル!」
「⁉」
その声に驚き、エルフリーデはとっさに階上へ視線を走らせる。
しかし、その先には彼の人の姿はない。
「、アクスル、卿……?」
これには彼女は戸惑って。
「カトリーナ様……? いったいどこに──」
あの方が……? と、視線を戻した、その瞬間。手を差し伸べていた婦人が突然「きゃああああ!」と、甲高い声で大きな悲鳴を上げた。




