16-2
何故なんだ⁉ と、エルフリーデ。
「だって後ろから抱き着いてくださったんだぞ⁉ もうわたしに心を開いてくださったのではないのか⁉」
「だ、抱き着かれた⁉」
その告白に、グリゴアが目をむいているが、レオンもエルフリーデも取り合わなかった。
「ええ♡⁉ バックハグぅ⁉ アクスル卿も真面目な顔してやるねぇ!(……よくエルの背後をとって、投げ飛ばされなかったな……)」
エルフリーデは自分の髪を一束握りしめ、さめざめと嘆く。
「あの方の気持ちが分からない……好かれているのか⁉ 嫌われているのか⁉ 怖がっていないというのは本当か⁉ それともやっぱり怖いのか⁉ どっちなんだ⁉」
エルフリーデは心底思った。恋愛は……難しすぎる!
はっきりあの方の気持ちを知りたいと苦悩する妹の顔は、とても思いつめていた。そんな妹の珍しいようすに、グリゴアとレオンも戸惑いのまなざし。二人とも、こんなに何かのことで思い悩む妹をはじめて見た。
彼女はいつも頼もしく、問題が起こっても、たいていいつも淡々としている。あっけらかんとして、『なんとかする』『人は人』『挑むだけ』などと豪語しては、有言実行。取り乱すことはそうそうない。
そんな彼女が、焦がれるように他人の気持ちを知りたいと焦れているなど。天変地異もいいところである。
どうやらこれは、と、兄らは目を見交す。妹は本当に、アクスル・クヴァントに“恋”をしているらしい。
──そうして同じ夜。
侯爵邸のアクスルの私室では、男が一人、床の上に倒れていた。
今回は長椅子にすらたどり着けなかったらしく、絨毯張りの床に、行き倒れたようにうつぶせで横たわり、ピクリとも動かない男。そのそばでは、褐色の髪の青年従者ロリーがうろたえまくっている。
「アクスル様⁉ ど、どうなさったのですか⁉ 生きてますか⁉」
(………………)
アクスルは、家人の声を聞きながらも、身動きができなかった。もう限界であった。彼はまたやってしまったのである。
(……また……エルフリーデ様愛しさのあまり、重罪を、犯してしまった……っ!)
アクスルは己の所業を悔いていた。恥じていた。そのあまり、気が遠くなって、このありさま。
彼は今、憧れと崇拝、そして愛の狭間で激しく揺れていた。推す者としての使命感と、愛する者としての嫉妬や焦がれる気持ちの間で悶え苦しんでいる。
エルフリーデの言葉に感動した結果、思い余って、断りもなく彼女に抱きついてしまった。それは無礼なだけでなく、彼の聖域を侵す行為。そんな衝動的な自分が、とうてい信じられない。
(……常軌を、逸している……)
冷血犬アクスル。これはまたしばらく、立ち直れそうにない……。本当に、難儀な男である。
その知らせを受けて、同邸内では、溜飲を下げているものがあった。
「若旦那様は、またお倒れになったようです。原因は呪いなのかどうなのかは分かりませんが……」
その報告を側仕えから聞いて、カトリーナは、はっと鼻を鳴らす。
「そう、いっそそのまま地獄に堕ちればいいのに……!」
恨みがましい言葉には理由がある。彼女は本日、侯爵のそばにつけている使用人から、どうやら侯爵がアクスルからの手紙で、彼女が侯爵に任されていた事業で大損をしたことを知ったらしいと報告された。
侯爵はすぐに王都に戻る算段のようで、そうなれば、彼女は相当な叱責を受けるだろう。
カトリーナはイライラと爪を噛みながら吐き捨てる。
「アクスルめ……知っていて今まで黙っていたのね……! いつでも切り札にできるよう、ずっと情報を握っていたに違いないわ! 小賢しいっ! まったくどうしてくれるのよ! あの人は財産のことにはうるさいのに……!」
カトリーナは、部屋の中を落ち着かぬようすで行き来する。
「どうしよう……何か……あの人の怒りを収められるような手柄とか……それか、アクスルたちに、もっと大きな失敗をさせるか……」
もしここで、アクスルや正妻ウルカが何かもっと大きな失態を犯してくれれば、侯爵からの自分への怒りも少しは軽くなるかもしれない。
しかし、恐ろしい形相で思考を巡らせるカトリーナに、側仕えは危機感を抱いたようだった。
「奥様、おやめになったほうがいいです。ただでさえ……」
そう言って、女は周りを気にしはじめた。その目には怯えがある。
「これ以上何かして、やぶ蛇になったらどうするんですか? 今は大人しくしておいたほうが……」
「うるさいわね! そんな悠長に構えていたらこの邸から追い出されてしまうわ! そんなことになったら、あの女がどんなにわたしをバカにするか……そうよ。絶対にだめ! やっぱりなにか策を講じないと……旦那様がわたしを憐れんで、うやむやになるような手だてを何か……」
「でも……ウルカ様も若旦那様も警戒心が強くてそうそうボロは出しません……焦りすぎは身を滅ぼします」
悲壮になだめる側仕えは、この侯爵邸で、ずっとカトリーナに手を貸してきた。彼女に何かあれば、自分も無事ではいられないとあって必死である。
が、いら立ちが最高潮のカトリーナは、彼女のそんな保身を感じキッと目を吊り上げる。爪をきれいに整えた手が、側仕えの頬を容赦なく打った。その手にはめられていた大きな宝石のついた指輪が、女の頬に血の筋をつくる。
「っ!」
「わかってるわよ! 黙ってなさい、考えられないでしょう!」
側仕えは、床の上で頬を押さえてうずくまったが、カトリーナは彼女を怒鳴る。
しかし側仕えの言う通り、これまでカトリーナは散々クヴァント家の母子のことを探らせてはいるものの、慎重な彼らはとてもガードが固い。なんとか弱みを握ろうとしても、いつも大した情報は得られないのである。
「まったく憎たらしい! いっそ、二人とも死んでくれればいいのに……っ」
カトリーナは、心底それを望んでいた。
最近、彼女の後ろ盾である侯爵は、領地の邸で若い娘を囲いはじめたらしい。それを彼女にわざわざ教えてくれたのは、なんとウルカ。それは嫌がらせ以外の何物でもない。当然カトリーナは嫉妬に狂ったが、ウルカは平然としていた。
彼女は平気なのだ。もともと名家の出のウルカには、強力な実家の後ろ盾があり、しかもアクスルという侯爵の後継ぎ息子がいる。
だから侯爵は、どんなに不仲でも絶対に彼女とは離縁しない。そのつながりが、侯爵家を支えているのである。
しかしカトリーナは違う。侯爵の寵愛を失えば息子にすがるしかないが、その息子も放蕩息子で頼りない。
イエルは幼少の頃、優秀な兄と比べられ、『もっと頑張りなさい!』『どうしてアクスルみたいにできないの!』と、母親に叱られ続けた挙句、勉強を嫌い、あまり邸には近よらなくなった。
カトリーナはギリギリと悔しげに爪を噛む。その指を飾る指輪に、側仕えの血がついていることなど、意に介しもしない。
「……それでもイエルが爵位を継ぐことができたら! きっとアクスルなんかよりももっと立派になってくれるはずなのよ!」
思うままにならぬ現状が悔しくて仕方がない。ウルカのことも、領地に囲われはじめたという新しい愛人のことも、憎くて仕方がなかった。もし事業の失敗の件で侯爵に見捨てられ、新しい女が自分にとって代わりでもしたらと思うと、彼女の焦りはひどくなるばかり。
なんとかしなければとカトリーナは苛立つ。だが、ウルカもアクスルも、とても手ごわい。
……と、ここで彼女はハッとした。脳裏にある者の顔が浮かぶ。
「そうだわ……あの者たちがダメなら……」
言って、彼女はにやりと笑う。
新しく、いい標的ができたではないか。
しかもその者は、アクスルの命を握っているのだ。
カトリーナはその思いつきに、とたん有頂天に。般若のような顔が一転、清々しく笑う女は側仕えに命じた。
「……あの男に手紙を書くわ。すぐに届けさてちょうだい。もちろん密かによ」




