14ー1 悪い噂と《黒女神崇拝会》
「……おや? 師匠?」
数日後、騎士団の団営にエルフリーデを訪ねてきた者があった。
団営の入口から、門番と二三言葉を交わして塀の内側に入って来た老人を見て、彼女は足を止める。
その男は、白髪に白いヒゲ。長い髪は後ろでひとまとめにしてある。年齢は、彼女の祖父といってもいいくらい。しかし、背筋はしっかりと伸び、風采もいい。若々しく年をとった印象の彼は、騎士団の事務所の前で雑務をこなしていた愛弟子に気がつくと、軽く手を上げる。
大きな木箱を運んでいたエルフリーデは、すぐに箱を壁のそばに置いて彼のもとへ駆けより恭しい一礼。
「おはようございます。おいでになったのですね」
「ああ、おはようエルフリーデ。……変わりないか?」
「はい。師匠こそ腰は大丈夫ですか? 明日になれば、わたしが家まで参りますのに……何かございましたか?」
彼の名はゴットロープ・ランセル。槍の使い手で、エルフリーデの師である。
師は城下で武道の道場を開いているのだが、現在は身体の調子が悪く、弟子らに道場を任せて引退。
腰を痛めてからは何かと難儀しているようで。最近では、エルフリーデが週に二回彼のもとを訪れ、あれこれと世話を焼く側となった。
ゆえに、彼が団営まで来ることはとても珍しい。
と、ランセルは彼女を心配そうに見て言った。
「エルフリーデ……何かあったかはこちらの台詞だ」
何やら苦々しい師の顔に、エルフリーデはキョトンとする。
「街で噂になっているぞ。お前が侯爵家で横暴な振る舞いをしたとな」
「ああ……その件で心配してきてくださったのですか」
師の言葉に。エルフリーデは苦笑しつつ、ありがとうございますと礼を言うが、ランセルの顔は渋い。
「礼など言っている場合か……? 皆口々に言っておったぞ。お前は結婚もまだなのに、もう侯爵夫人になったつもりでいて、わがもの顔で侯爵の情人や使用人たちを虐げたとな。悪人面の用心棒まで連れて邸に押し入り、威張り散らしていたと」
「悪人面の用心棒?」
エルフリーデはその話を聞いて噴き出す。
「それは、もしかしなくてもグリゴア兄上のことですか。悪人面とは可哀想に。ふふふ」
まあ、確かに彼女の兄は身体も大きく顔も岩のようにごつい。あの顔ですごまれたのだから、侯爵家の使用人たちはさぞ怖かったことあろう。エルフリーデは愉快そうに笑い、ランセルの手を取る。
「師匠、ただの噂ですよ。きっと何か誤解があったのでしょう」
しかしランセルは、目の上の真っ白な眉を歪めて心配顔。
「違うであろう……エルフリーデ。これは、意図的に流された噂だぞ……? お前も分かっているはず」
「……ふふ」
師の指摘に、しかしエルフリーデは笑うだけ。
その噂のことは、とうに彼女の耳にも入っていた。
第四騎士団は、治安維持のため城下町をつねに行き交っている。その活動中には、もちろん市井の噂も耳に入ってくるもの。
城下に広まったその噂は、どうやら誰かが悪意を持って広めたものらしい。
やけに侯爵家の内部事情に詳しく、おまけに、城下と社交界でほぼ同時に広まった。その伝達の速さを考えても、作為的なものであることは確か。
まあ、先日のいきさつを考えれば、犯人は自ずと予想できる。
しかしエルフリーデは、怒るほどのことでもないと考えていた。
彼女の目的は、あくまでも王太子の命に従い、アクスルの呪いを解くこと。
侯爵家に入ることでも、世間によく思われることでもない。
「あの方の呪いが解けるのなら、悪評ごとき取るに足りませんよ」
エルフリーデは笑いながら言うが、しかしランセルの顔は不安げ。
「だが……本当に大丈夫なのか? お前はそう言っても、貴族には評判も大切だろう。縁談話が流れてしまうのでは? 王太子殿下に与えられた縁談だったのだろう? このままではお前が責められるのでは?」
王家の命令というものは、それだけ重い。
命を受けた者は、それを粛々と実行するべきであって、もし自らの過ちでそれをふいにしてしまったら、当然罰を与えられる。……王太子のそばで、そういった失態をおかした者たちを、これまで冷酷に処してきたのは、他でもない、アクスルである。
そういった事情が、どうやら師を不安がらせているようだった。
そんな老師の懸念は、もちろんエルフリーデにも分かっていた。ゆえに彼女は、あえていつも通りに微笑んで見せる。
「大丈夫ですよ。たとえ罰があるにせよ、釈明の機会はあるはず。丁寧にお話すればきっと分かっていただけます。でも……そうですね……」
師をなだめながら、彼女は頭にアクスルを思い浮かべる。
「その前に……アクスル卿にも、ぜひ釈明しておきたいところ……なんですけどね……」
エルフリーデは、ため息をつく。
あれから二日。彼女はあの日以来、まだアクスルと会うことができていない。
王太子が知らせてくれる話によれば、彼はまだ仕事を休んでいるとのことだが。身体のほうは熱も下がり、呪いについても特に変わりはないそう。相変わらず、徐々に進行はしているが、エルフリーデのおかげで後退した呪いは、今はまだ鎖骨を超えてはいない。
……ただ。それでもやはり、呪いは進み続けているのである。ゆえに彼女は、またすぐにでもアクスルに会いたいのだが……。
仕事の合間に幾度か侯爵邸を訪れてみても、彼は二日連続で不在。
エルフリーデは、出会った日の逃亡っぷりを思い出し、考える。
(……もしや……避けられている……?)
ただでさえ、怖がられていたようなのに、そこにさらに悪評が耳に入ったのなら、やっぱりあんな女、妻にするのは嫌だとか思われているのかもしれない。
少々落胆したエルフリーデは、己の手を持ち上げて見る。
たくさんマメができ、破れ、また……というサイクルを何年も続けた手のひらはとても固い。それは、彼女の誇りであり、努力の証でもあった。
でも今は、そこに幸せな記憶が加わった。
数日前、そこに与えてもらった言葉を思い出すと、なぜか心がとても弾む。
「? どうした?」
急に手のひらを見つめて黙りこくった愛弟子に、師が不思議そうな顔。と、顔を上げた弟子の顔を見て、ランセルは、おや……という表情。
エルフリーデは微笑んでいた。
今度の笑顔は、先ほどの師を安心させるための笑みなどではなく、心からの、花のような笑顔であった。
「いえ、なんでも」
エルフリーデは、めげずにまた彼に会いに行こうと思った。そうしてくすぐったそうに笑う弟子を、師は物珍しげな顔で眺めている。




