13-2
男はここではたと我に返り、紅潮させていた顔を再び真っ青に。
(……、……、……っさ……最悪だ……! わたしのむさくるしい部屋に、あの気高いエルフリーデ様が⁉ は⁉ わたしの手は……きれいだったのか⁉)
夢うつつに彼女に触れてしまったとき、自分の手がどれだけ清潔だったのかには、まったく自信が持てない。もし、汚れていたら……汗がついていたとしたら。
(いや、そもそも……わたしの寝間着姿……!)
アクスルは羞恥のあまり、今度は泣きたくなった。体調不良だったとはいえ、彼女にそのしどけない姿を見られたのかと思うと……恥ずかしすぎて絶望だ。
この苦悩にアクスルは、その苦しみをぶつけるような勢いで抗議文を書いた。
それは、彼女をここに通した執事や看護人たちに向けたもの。
『なぜあの方をここにお通しした⁉ こんな魔境に立ち入っていいような御身ではないのだぞ⁉ あの方の清らかさが汚れたらどうしてくれる⁉』
自分の実家を魔境とか、汚れるだとか。どんだけ自分ちが嫌いなんだよ……と、皆思ったが。アクスルの剣幕の前では、誰も何も突っ込めやしない。
ただ、執事から、エルフリーデが、彼の母に見舞いの許可を得ていたこと。そして、どうやら彼女が、父の愛人に絡まれたようだと聞くと、アクスルの顔からは血の気が引き、その身からは憤りが噴き出した。その形相に、執事たちが怯えている。
(……あの女……許せん……)
もちろん簡単に彼女の見舞いを許した母にも、なんてことをしてくれたと思ったが。しかし、カトリーナに対する怒りは、それを遥かにしのぐ。
これまでは、この家で母と諍いを起こし、たびたび騒ぐあの女を、あれでも弟の母だと思って見逃してきた。しかし、その厚顔さがエルフリーデに及ぶのなら、絶対に許してはおけない。
アクスルの顔に、冷徹補佐官と呼ばれるにふさわしい怜悧さが戻った。
彼は、父と母、そしてカトリーナの愛憎には関わりたくないゆえ静観してきたが、いざというときに彼らを追及できる情報はしっかりと握ってある。もちろん、当事者たちは何も気がついていないだろうが。
アクスルは、寝台を降りて、腹心を呼ぶよう執事に申し付けた。
──ただ。
どうやらカトリーナの排除を考えはじめた男は……自分が、エルフリーデの手のひらに書いた一文のことは、うっかり忘れているらしい。
その夜、ある邸宅の宴に招かれたアクスルの母は上機嫌だった。
彼女の予想通りカトリーナは、アクスルを見舞った娘に因縁をつけにいったらしい。
「まったく浅はかな女よ。あのお嬢さんは、どう見ても普通のご令嬢ではないのに、夫の権威を笠に着て適当に偉ぶるなんて……ふふ、いい気味」
今頃は、侯爵に泣きすがるような手紙でも書いているところだろうか。それとも、自分をあしらった娘を恨んで陥れる策でも練っているか。
「ふふ、本当に面白いことになったわ」
夫人が笑いながらワインのグラスを傾けると、となりの婦人が「バルヒェット家といえば、」と話を向ける。
「あら、ご存じ?」
ウルカが応じると、相手の婦人は「もちろんよ」と微笑む。
「あの家は爵位は低いけれど有名よ。当主が優秀なだけでなく、息子と娘もかなりできるから、それぞれが父親の手足のように動いて次々に功績をあげているわ。次男は王家の近衛だし、娘も女だてらに王立武道大会の常連で、いつも上位の成績。その界隈ではかなり人気なの。わたしも夫と共に何度も大会を見に行ったけど、すごいわよ。スラリとした手足で槍を扱う姿は優雅で、それでいて、その強さは大男にも勝る」
「あらまあ、そうだったの」
情報通の友人の話に相槌を打っていると、正面側に座っていた婦人も話に加わってくる。
「わたしも聞いたことがあるわ。ほら……慈善家で有名なハルトマン家の奥様」
「ハルトマン……公爵家の?」
「そう。あの方も、彼女にはかなり惚れ込んでいるらしいわ。でもね、彼女は夫人がいくら茶会や宴に誘っても、職務があるからと言って絶対に出てこない。それなのに公爵夫人はその子を咎めもしない。かえって高潔な彼女らしいと褒めたたえて骨抜きよ。今回の神託で、お宅のご嫡男が彼女と結婚することになったと知って、公爵夫人はとても残念がっておられるわ。どうも……ご自分のご子息と結婚して欲しかったらしいわね」
「へぇ……」
その話を聞いて、夫人は余計に愉快そうである。彼女は息子には興味がないが、息子が自分の権利を守ることには興味がある。公爵夫人が一目置くような妻を息子が迎えれば、息子にとっても自分にとっても有益だ。
それにしても、と、彼女は肩を揺らしてカトリーナを笑う。
「そんな子に正面から向かっていくなんて。本当に馬鹿な女。ま、やると思ったけれど!」
婦人たちの間には、くすくすと忍び笑いが広がっていく。
それぞれ政略結婚で貴族に嫁いだ婦人たちばかりである。皆、境遇が似ていて、ほとんどの者が夫に愛人や側妻がいる。愛人の失態という話題は、彼女たちの間では特に盛り上がるネタだった。
アクスルの母は笑う。
「でもこれで、あの女の敵意はしばらくあの子に向くわね。まわりが静かになっていいわ、ふふ」
「あら……でもいいの? あの愛人はなかなか陰険なのでしょう? 王太子殿下から与えられた縁談よ? 愛人とやりあわせていいの? 殿下に不興を買うかも……」
友人は少し不安そうな顔をしたが、ウルカはどこ吹く風。天井を眺めながら優雅に笑い、扇をゆらす。
「いいのよ。人のいい王太子殿下なんて、どうとでも丸め込める。それに、あんな女にやられるくらいなら……あの娘も大した人間じゃないもの」
わたしはせいぜい高みの見物をさせてもらうのよ、と彼女は微笑んだ……。




