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「⁉ ア、アクスル⁉」
「む」
実は、その男は、現在ある事情により声を失っている。
しかし、言葉はなくとも、彼の驚愕と動揺は誰の目にも明らかだった。
魂を失ったような顔は、今にも破裂しそうなほどに赤く、身体の震えが尋常ではない。気を失う寸前という顔の補佐官に、王太子は仰天した。
「アクスル! し、死ぬな! 呪いか⁉ 呪いのせいなのか⁉ 苦しいのか⁉」
「……殿下、落ち着いてください」
慌てふためく王太子に声をかけ、エルフリーデは腕の中でブルブルしている男に、
「ご無礼つかまつります」と、いくらか穏やかな声で語り掛ける。
普段から父のもとで騎士たちにまじって訓練をしている彼女は、力には自信があった。
誰かを抱え上げるなどたやすいもの。彼女の兄などは、『鍛えてやるぞ!』なんてことを言いながら、彼女の背に容赦なくおぶさってくる。それを担ぎつつ、足腰がふらふらになるまで訓練場を走って周回するのが日課。彼女には、アクスルはさほどの重さに感じなかった。
エルフリーデは思った。アクスル・クヴァント卿が、兄のように筋肉の塊でなくてよかった。そして彼女は彼を安心させようと、少し微笑んで言った。
「しばし御辛抱を。すぐに医官のところへおつれし……」
ますと言いかけた、そのときのことだった。
では、いざ……! と、足を踏み出した瞬間。彼女の腕のなかで放心していた男が死に物狂いというようすで彼女の腕から逃げていった。
「……おや?」
エルフリーデは、空になった腕をポカンと見つめ、瞳を数回瞬く。
逃げていったアクスルは、そのまま目の前のテーブルに飛びつくと、そこに用意してあった紙に、必死の形相で何かを書きなぐった。
「ア、アクスル……?」
どうした、大丈夫かと近よって行った王太子に、彼はそれを勢いよく突きつける。
そこに書かれていた言葉は……、
『彼女だけは! 絶対に! 絶対に無理です! 結婚など! 何があってもできません!』
……であった。
「う……? な、何⁉ あ! お、おいアクスル⁉」
アクスルの書いた文字を読んで、え? という顔の王太子。ポカンとするそんな主君を置いて、アクスル・クヴァントは、そのまま王家の客間から一目散に逃げていった。
その逃走ぶりを見て……その場にいた誰もが言葉を失う。
先出のとおり、アクスル・クヴァントは、若いながらにこの王国において、もっとも冷徹といわれる男である。
幼い頃から仕える王太子と彼の利益を守り、そのためならば、どんな冷酷な手をも平気で使う。
王太子に近よる者には、すべからず厳しく接し、自分にも他人にも、いっさいの妥協や間違いを許さぬ、忠実なる王家のしもべ。それがアクスル・クヴァントであった。
そんな彼の姿勢は、彼に守られる王太子や、王太子の身内からは非常に信頼されているが、その一方で彼の厳格さは、他の者たちを非常に恐れさせた。
もちろんそれは、王太子の政敵に対してはこのうえない脅威。
悪意のある者は、陰で彼のことを『王太子殿下の冷血犬』などと揶揄しているようだ。……が。
その、人にも己にも厳しいという男が、大切なはずの主君を置いて縁談相手の前から逃走。
誰もが一瞬何ごとが起こったのかが理解できず、ただ逃げていった男の背を見ていた。立派な客間の中には、人々の呆然とした空気が重く広がり、誰しもがなんと言っていいのか分からないという表情。
──と、そんな中、変わらず毅然としたまま立っていた当の娘がその沈黙をやぶる。
「……殿下。どうやらわたくしめ、アクスル卿に振られました」
「……うっっっ⁉ ⁉ ⁉」
……なぜか本人よりも王太子のショックのほうが大きそうである。




