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(どうしたら……どうしたらいいんだ⁉ どうしたら、わたしがエルフリーデ様を嫌ってなどいないと……いや! あなたは誰かに嫌われるようなお方ではないと……素晴らしいお方なのだとお伝えできる⁉)
そのうえで、婚姻など恐れ多くて絶対に無理だと伝えなければならないのだから難しい。
これまでは、ただただ遠くから崇めていればよかったものが、その神仏が目の前に降臨し、あまつさえ、その尊き存在の伴侶となれと言われてしまっては。
これは、現実か⁉ 自分の妄想ではないのか⁉ もしや自分は、今だ呪いで昏睡中で、すべては夢なのでは……⁉ と。どうにもそちらの説のほうが、真実味があるのである。
それなのに。昨日の別れ際、彼女に『逃げないでくださいね』と微笑まれた記憶は鮮明。あの瞬間の胸の高鳴りは、今でもまだ続いている(……から困っている)。
『好きすぎる』が、胸に大量につまり、破裂して。今にも理性を吐いてしまいそう。
(ああああああああっ!)
アクスルは、どうしようもない自分に愕然。普段真面目なやつほど、色恋に狂うとヤバい……を、地で行く。まさに、冷徹で厳格なアクスル・クヴァント崩壊の危機であった。
昨日の面会以降、彼はずっとこんな調子で……そりゃあ、同僚たちが『お願いだから、もう休め⁉』と、言いたくなるはずである。
彼はそんな自分に、周りが恐々としながらも、同情しているなんてことには気がつく余裕などない。
憐れ、うろたえるにもほどがあるアクスルは、よろめきながら……侯爵邸から遣わされた迎えの青年の助けをかりて、なんとか家路につく。
「ア、アクスル様大丈夫ですか……⁉」
褐色の髪がきれいにカールした青年ロリーは、心配そうな顔で必死にアクスルを支えてくれている。だが、彼はその言葉にかろうじて頷いてやるだけで精いっぱい。
振り払っても、振り払っても。脳裏には、昨日見た愛らしいスカート姿のエルフリーデが、まるで妖精のように躍る。
『逃げないでくださいね?』『逃げないでくださいね?』と、その幻に歌うように繰り返されては。彼の体温は上がりっぱなし。今にも失神してしまいそうで。
そうして自宅である侯爵家のタウンハウスに着いたときには、彼はさらにヨロヨロ。
妄想上のエルフリーデは、片時も彼を放してはくれない。……いや、単に彼が彼女のことを考え過ぎなのだが。
しかし、そうしてやっとの思いで帰宅した男を出迎えたのは、家族のあたたかい歓迎……などではなかった。
「……あらまぁアクスル。お前、どうしたの、その顔は」
エントランスに入った瞬間、なんとも優雅でのんきな声がふってきて、アクスルはぐっと顔をしかめる。
声の主は階段上にいた。彼と同じ色の髪をきれいに結いあげ、いかにも今からどこぞに出かけますという恰好の貴婦人。
彼の母ウルカである。
彼女は贅を凝らした階段を、しゃなりしゃなりと優雅に降りてくる。その表情には、呪いを受けた息子を案じるような気配は、カケラもない。
それどころか、息子の青い顔を見ると、母はわずらわしそうに眉をひそめた。
そんな母の顔を見たアクスルは、いっきに夢から現実に引き戻されたような気がした。
心に冷気を取り戻してしまった彼は、曲がっていた背をすっと伸ばし、苦悩を胸の奥に引きずり戻す。表情は鋭く引き締まって、冷徹を整った。この変わりようには、彼をここまで支えてきたロリーがあっけにとられている。
(……いたのか……)
アクスルは、思わず渋い顔をしてしまう。こんな時間に、この母がこちらの邸にいるとは思っていなかった。
と、そんな息子の目に気がついたのか、母が皮肉に笑う。
「あら、いては悪い? わたしは一応ここの女主人よ」
フンッと鼻を鳴らす顔には含みがあった。一応、というのは、彼女は確かに侯爵夫人で、アクスルの母ではあるが、現在彼女は侯爵とは別居中。王都の高級住宅街に別邸を持っていて、そちらで愛人と暮らしているのである。
ただし、彼女の夫である侯爵も、彼女とは別の女性を長らく家に囲っていて、どうやらそちらが本命らしい。
もちろん彼らの息子であるアクスルには、とうに分かっている。
政略結婚で夫婦になった父と母は、愛し合っていないのだ。
と、侯爵夫人は、もうアクスルからは興味が失せたのか、彼の顔を見ることもなく扇をあおぎながら玄関のほうへ急ぐ。
「迷惑そうな顔をしないでちょうだい。すぐに出ていくわ。今日は夜会だから装飾品をとりにきただけよ。それに、たまには邸のようすを見ておかないとね。放っておくと、すぐにあの女が好き勝手するから」
夫人が侮蔑をこめて吐き捨てると、まるでその言葉に応じるように、誰かが声をエントランスに響かせた。
「あらあらあら、奥様。あの女ってわたくしのことですか?」
今度は階段横の廊下から、別の女性が現れた。後ろに女中を連れた四十代半ばくらいの女である。
髪は波打つ栗色で、それを華やかにまとめ上げている。派手な紫色のワンピースには、胸もとに大きな宝石がいくつも付いたネックレス。それはアクスルの父から贈られた最上のジュエリーで、まるで権力の証のようであった。
彼女の登場に、アクスルの母の顔が不愉快そうに歪み、そんな二人と居合わせてしまったアクスルも内心苦い。
(……よりによって……最悪だ……)
この二人、母ウルカと父の愛人カトリーナは、年中いがみ合っている。
巻き込まれると、散々なのである。
しかし女はそんなアクスルの心境にも、自分を冷たく睨む奥方にも意に介さず。アクスルに余裕の笑みを向ける。
「あらお珍しい。アクスル様、お帰りだったのですね。お出迎えもせず失礼いたしました」
見え透いた言葉だった。
彼が帰宅することは、邸から馬車を呼びよせた時点で分かっていたはずである。
もとより彼女は、侯爵夫人の息子たるアクスルを歓迎してはいない。
むしろ、仕事ばかりで王城に連日泊まりこむ彼を、これ幸いと思っているのは明白で。
現在侯爵邸は、侯爵夫人であるウルカと、侯爵の愛人カトリーナの闘争で、使用人たちもそれぞれの派閥をつくり分裂中。
侯爵の正当なる妻たる侯爵夫人派。寵愛を受けるカトリーナ派。そして、それとは別に、二人を静観するかたちで侯爵に従う者と、それらの諍いに関わりたくないアクスルを支持し、守ろうとする者たちがいる。
ただ、アクスルを守ろうとする者たちは、どちらかというと少数派。その多くは、子供の頃からの彼を知る乳母やその家族たちで、皆優しく善良。したたかな女主人と、高慢な侯爵の愛人が覇権を争う侯爵邸内では、あまり立場は強くなかった。
と、カトリーナがチラリと侯爵夫人を見る。
「奥様は……また夜会ですか? お盛んですこと。あんまり散財して旦那様にご迷惑をかけないでくださいね?」
その言葉には、むしろそうなって離縁されればいいのにというトゲが露わ。
しかしアクスルの母も負けてはいない。
「あらあら、あなたは相変わらず下品な服を着ているのねぇ。かわいそうに、生まれが下賤だと、品というものが理解できないのね。今度わたしが何か見繕ってあげましょうか? いくらかゆったりした服を届けてあげるから、わたしがここに保管している上等なドレスにだけは手を出さないでちょうだいね。あなたが着たら、やぶけてしまうわ」
この言葉に、夫人よりふくよかなカトリーナはカッと怒りを露わにする。
「なんですって……⁉ ばかにして……旦那様に言いつけてやる!」
「ああら、怖い怖い。相変わらず、侯爵にすがりつくしか能がないのねぇ。母親がこんなありさまでは、息子が出来損ないでも仕方がないわね」
「な……この……っ尻軽女!」
「ほほほ、羽虫が何かわめいているわ」
「………………」
二人のののしり合いを聞きながら。アクスルはもはや顔が能面のようである。




