6-2
目の前にはっきり見えた、天界の門。
今にもその中に吸い込まれてしまいそうな心地の彼を包み込むのは、エルフリーデから放たれるかぐわしい香り。
石けんとほのかな汗の匂い(……と、血の匂い……)を鼻腔に感じ、アクスルは胸がときめきで満たされると同時に──恐怖した。
──彼女の崇高な香りを、自分ごときが吸っていいのか……? そんなことは……冒涜では……?
偏屈なアクスルには、とても許せなかった。
自分が彼女の放つものを、なんの代償もなく、対価を払うこともなく、気やすく体内に取り入れることも。彼女が使っている石けんの情報を、こうして易々と手に入れてしまうことも。(※匂いだけで分かってしまった……)
(エ、エルフリーデ様……一番お安い石けんをお使いなのですね……さすが、経済的でいらっしゃる……♡)
……なぁんてことでついうっとりしかけた彼は、ハッとして己の危機に愕然とした。
このままでは、本当に幸せ過ぎて天国へ直行便が出る。
愛しの彼女の腕の中で死ぬのならそれも本望とも言えるが……。腑抜けきった、だらしない顔を彼女にさらし、気持ちの悪い男として生涯記憶されてしまうかもしれないと思うと……面白いくらいに怖くなった。
もしそんなことになって、彼女の顔に、自分に対する嫌悪をわずかでも見つけてしまったら……それこそ彼は絶望してしまう。
と……そのようなわけで。
彼は情けなくも、昨日は彼女から逃げ出すほかなかったのである。
アクスルは痛感した。自分はやはり彼女のそばには存在していられない。
(……無理だ……どう考えても絶対に無理だ……わたしが彼女の夫など……)
考えるだけで非常に頭が痛かった。
王太子などは『とにかく神託の通りの娘ならいい』というような頭らしいが、とんでもない。
エルフリーデ・バルヒェットは、武人たちの間ではその名を知らぬ者のいない人物。
彼女はよく国内外の武術大会にも出場しているが、その折に披露される、鋭くも美しい槍技と、高潔な人柄に魅せられる者は多い。
要するに……彼女には、アクスルのようなファンが大勢いる。
その一部が、例の《黒女神崇拝会》。
彼らの間には、偏愛に満ちた崇高なる不文律があった。
《何ごとも、エルフリーデ様に迷惑をかけてはならない。
どんなに彼女が尊くても、美しくても。武術に勤しむ彼女の集中を乱すような行動はご法度。
応援は影から静かに行うこと。その生活にはみだりに踏み込んではならない。
彼女を煩わせるような輩は万死に値するし、彼女の生活、その幸せを邪魔するようなことは、けして許されない。
そして何より、彼女を推すにふさわしい自分であれ》──と。
もし、彼女が人前に立つ歌姫のような人気商売であったのならば、会員たちも表立って彼女を盛り立てようとしただろうが、彼女はそうではない。
彼女の静穏な生活に、黄色い声を上げて踏み込んではならない。彼らは、彼女の強さを愛すると同時に、その高潔な姿勢を愛しているのである。
アクスルは、呪い受けてからはじめて、声が出なくて本当によかったと思った。
昨日、もし自分に声が出ていたら、彼は間違いなく彼女の前で大声を上げた。
危うく偏愛に満ちた黄色い悲鳴を彼女に聞かせるところであった。そんな耳障りな雑音で、彼女の耳を汚すわけにはいかない。




