Echo 06 『 時の振り子 』
黒塗りの高級車の車内は、エンジンの微かな唸りだけが低く満ちていた。尻を預けた革張りの座席は、じんわりと体温を吸って湿度を帯び、高級車特有の、あの重く甘い芳香が微かに鼻をくすぐる。
袖口のシワを指先でなぞって整え、左胸のポケットからスマートフォンを取り出した。液晶から放たれる青白い光が、網膜を刺し、薄暗い車内に彼女の冷ややかな輪郭を焼き付ける。
運転手は背中でその気配を感じながら、言われるがままに目的地へと滑り出した。
彼女は短く、肺の奥まで酸素を詰め込むように息を吸い、画面をタップした。
「もしもし、こちら八咫烏財団です」
「合言葉は?」
電話口から流暢に答えが返ってくる。
「ヤタカラスカモタケツノミノミコト」
「動きがあったわ。さっそくあなたたちには動いてもらうわよ。場所は既に転送済みのファイルを送っておいたわ」
「承知いたしました、お嬢様」
少女はサイドボタンを押し、液晶画面を閉じた。
「……さて」
彼女は窓の外、網膜を焼く太陽に照らされた明雲神社の方向を見つめた。
「きっとこの運命の歯車は、あなたを狂わせる……もう少し踏ん張ってね」
———
その頃、明雲神社
千切れた葉と砕けた石の礫が頬を鋭くかすめ、火薬のような焦げた匂いと衝撃波が、肌の産毛を逆立たせる。
「ふっ、予想通りだったな」
綾華は、風を裂くような身のこなしで攻撃をかわし、俺にそう告げた。
「どういう意味だ」
彼女の瞳には、冷徹な警戒心が刺すような光となって宿っていた。
「甘奈に最後に会ったのはいつだ?」
淀む視界と、脳を直接掻き回されるような眩暈の中で、俺は千切れかけた理性をつなぎ合わせようとした。
「甘奈……あの……入院から……グアッ……フゥッ……頭が痛い……」
耳の奥で、金属をこすり合わせたようなキーンという高音が鳴り響き、頭蓋骨を内側からノミで叩き割られるような激痛が走る。
(甘…奈…誰だ…?甘奈って誰なんだ?)
「ちっ、面倒だな。制御不能か...」
綾華の拳が、みぞおちの奥にある内臓を、直接握りつぶすような重い衝撃となってめり込む。そのたびに、肺の中の空気が強制的に絞り出され、喉の奥がヒュッという音を立てる。
「手加減しろと言われているのでね。ただ、容赦はしないぞ」
「ガハッ…お前に指示を出したのは誰だ?」
「それは機密事項だ。だがすぐ会えるだろうさ」
「お前らの狙いは何だ?」
綾華は一度、冷たい空気を深く吸い込み、肺を硬くしならせた。
「『 時の振り子 』というやつが、この世に存在する」
「は?」
「『 時の振り子 』は、お前のような人間の憎悪などの感情や魂を喰い荒らして栄養を得ている。君に残っているその残滓は『 時の振り子 』にとってみれば天敵になる」
「それがどういう意味だってんだよ!」
「だから私たちは君を監視し管理し、生き永らえさせなければならない。君を観察し続けた研究結果を元に、我々は『 運命のオートマタ 』を破壊する」
(理解が追いつかない。脳細胞が熱を持ち、処理しきれない情報の濁流で思考が泥濘に沈んでいく。)
「だからそれが俺にどう関係するって言うんだよ!!!」
「君が知る必要はない。君が大人しくなるまで叩くだけだ」
(胃のあたりからせり上がる、焼けるような理不尽への怒り。俺が一体何をしたって言うんだ。)
風を切る音さえ置き去りにして、綾華の右腕が胸に突き刺さる。
「グフッッ…息が……できない……」
肺の細胞一つ一つに、氷のように冷たく鋭い針を千本同時に打ち込まれたような激痛。口の中に生ぬるい鉄錆の味が広がり、せき込むたびに粘り気のある熱い血が、指の間をドロリと伝い落ち、掌を真っ赤に染めていく。
「気絶できると思っていたんだがな……しぶといな」
綾華の右拳から、陽炎のような熱気が立ち上る。
「すまないが、私も雇われている身なのでね。暴走した君を止めなければならない」
彼女の硬く冷たい掌が、俺の頭を鷲掴みにした。地面から足が離れ、重力が消える。三半規管が狂い、自分の身体がどこにあるのかすら曖昧になる浮遊感。
絶体絶命。その時、彼女の左拳が放たれようとした瞬間——。
「ッ!!!!!!」
網膜を焼き切るような閃光が視界を横切り、直後、鼓膜を突き破るほどの爆音が世界を真っ白に染めた。背中に、巨大な鉄塊に叩きつけられたような衝撃が走り、身体がくの字に折れる。
「ガァ"ハァ"!!!」
左耳からすべての音が消失し、世界が奇妙に静まり返る。頭の中をミキサーでかき混ぜられたような感覚に意識が遠のく中、俺は綾華がその身を呈して俺を庇っているのを見た。
———
——— 綾華視点
一瞬のことだった。
肌を刺すような異質な空気のざわめきに、私の本能が警報を鳴らした。
(何か来る……!)
その光の矢は、由記を殺そうとしていた。
「危ないっ!!」
咄嗟に彼を地面に押し倒し、覆いかぶさる。
眼前のコンクリートがドロドロとマグマのように溶け落ちる様が見えた。数十メートル離れているはずなのに、肌を焦がすような灼熱が押し寄せ、全身から不快な汗が噴き出す。背中をかすめたその熱量は、私の脊髄に戦慄を刻みつけた。
「あらぁ、外しちゃったぁ」
空中に浮遊するその女は、獲物の手足を毟る瞬間を楽しみにしているような、残虐な悦びに濡れた瞳でこちらを見下ろしていた。
「久しぶりねぇ、綾華」
その脳を麻痺させるような甘ったるく気だるい声。全身の毛穴が収縮し、鳥肌が立つような本能的な拒絶感が走る。
「私の名前を、気安く呼ぶなっ!!!!」
私は、指先に感じるコンクリートの冷たく硬い感触を槍へと変え、怒りに任せて投擲した。
だが、手応えはない。
「もう〜久しぶりの挨拶なのに、つれないねぇ」
女は余裕ありげに湿った舌で唇をなぞり、足を組み直してこちらを挑発する。
この「バイアス」の質……胃を掴まれるような嫌な予感が、直感となって駆け巡る。
「貴様が“やつ”の眼を醒まさせたのか?」
「どうかしらねぇ、どっちかというと目覚めるのを手助けした感じぃ?」
「やつは重要人物だ。ここで我々の邪魔はしないでもらいたい」
「私だってぇ、こんなめんどっちぃことやりたくないんだけどさぁ。ほらぁ上からの命令は絶対ってやつ? だからあんたに構ってる時間も惜しいってわけ」
女が、泥のように倒れている彼を値踏みするような視線で一瞥し、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「そこに倒れてる男が私たちの目標なんだけど、うちって無駄な争いが嫌いなんだよねぇ」
喉の奥が乾くような緊張感が走る。
(……時間稼ぎか。戦闘は避けられなさそうだ…)
「わざわざ手負いの人を攻撃するのも、なんだかいけ好かないしぃ」
「……それでどうしたいんだ?」
「え〜? 分からない? もう脳みそまでカチコチになってしまったのかなぁ?」
「あんたらがこの男を気安く扱っていい理由にはならんぞ」
「あらぁあらぁ? さっきまであんなに一方的な攻撃で気絶までさせちゃって〜、綾華ちゃん矛盾してない?」
「っ、ふざけるのも大概にしろ!!」
奥歯を噛み締め、怒りで指先が微かに震える。
「あ、怒ったぁ? ごめ〜んごめ〜ん。でもそうねぇ。今ここであなたを見逃してあげる代わりに、その男を寄こしてよ」
躊躇いなど、最初から私の辞書にはなかった。
「断る」
女の口角が、獲物を追い詰めた猛獣のような狂気で釣り上がる。
「え? 聞こえないなぁ? まさかこのまま逃げ切れるとでも?」
言い終わるより早く、私は鉄くずを弓矢に変え、弦を引き絞る筋肉の緊張を矢へと乗せて解き放った。
「人が話してる間は、最後まで聞けって習わなかったぁ?! アハハハハハハ!!」
耳を劈く狂笑。
無差別に降り注ぐ瓦礫が、周囲のビルや家屋を豆腐のように容易く粉砕していく。私は彼の身体を背負い、その重みを背骨で受け止めた。
「『 パーセキュート ゴッドレイン !!!!』 」
神の槍が降り注ぐような破壊。それだけではない。
吸い取られた精気が女の力となり、大気が彼女の支配下に置かれていくような圧迫感が肌にまとわりつく。
「つまんないなぁ、じゃあこうしちゃおうかっ。えいっ」
巨大なビルの残骸が、太陽を遮る巨大な影となって頭上から降りかかる。
「っ!!!!!!!」
全身の神経を衝突のベクトルへと同調させ、衝撃を逃がす。だが、彼女の追撃は止まらない。
「はっ、まるでメスゴリラじゃないか」
私は渇いた喉で挑発を投げた。
「なぁに、それで挑発したつもりなの?」
「あんた、サキュバスのくせに誘惑が下手くそだもんな」
血管が浮き出るほどに激昂した女の顔が紅潮し、ワナワナと震える。
「あんまり怒らせると……どうなっても知らないわよっ!!!!!!!」
瓦礫が流星群のように空を埋め尽くす。
私は、背負った彼の手のひらの、頼りないほどに冷え切った感触を強く握りしめた。
「お前の力を借りるぞ」
空を覆い尽くすほどの瓦礫が降り注ぐ。
私は一歩も引かなかった。私の眼に狂いはない。彼こそがこのくそったれな世の中を変える革命の鍵。力を借りるということは代償を伴う。だが今はこれがベストな選択。
全身に電撃が走り出す。ありったけの声を絞り出し、私は叫んだ。
『 ロード インバーテッド !!!!』
「へ?」
瓦礫の山が、不自然な軌道を描いて反転し、重力の鎖から解き放たれたように女へと突き刺さる。
彼の能力——それは暴力を振るわず、世界の摂理そのものを「反転」させる。だが代償として、身体的・精神的ダメージが鏡写しのように重くのしかかる。
私は彼を背負って帰ろうとしたその時
ガコッッッッッ———
「...ふぅ、どうやらまだ返してくれないみたいだ」
瓦礫の間から、ドクドクと拍動する赤黒い血潮が噴き出し、それがヌルリとした光沢を持つ触手へと変貌していく。
「ちっ、自己再生か。しぶといやつめ」
私は瓦礫の影を伝って移動し、触手の攻撃から逃げる。
しかし今ここで攻撃しようと離れてしまえば、彼女の思う壺だ。彼女の狙いは彼であり、彼の能力までもが吸い取られてしまえばとんでもないことになる。
「せめて核を攻撃できれば...」
足元から、粘つくような不快な音がした。赤黒い肉塊から、無数の「目」が生え、こちらの毛穴の一つ一つを監視するように凝視している。
「しまっ……!!!!」
油断した。足首に絡みつく、吸盤のように肌に吸い付く触手の生温かい感触。四肢から力が奪われ、髄液を直接啜られるような、芯からの脱力感に襲われる。
「くそっ、こんな時に!!!」
(せめて、彼だけでも……!)
周囲の空気が一気に緊張するのを感じた。彼女に違いない。人型の血潮が、目の前に立っていた。
「ふぅ...なかなかやってくれるじゃない」
かなりまずい。彼女はすぐに再生するとでもいうのか。底知れない焦りで身体が震えた。
「まぁ、まだ不完全体だけど、これでもイける...さて」
彼女は一呼吸おいた。その吐息はまるで野獣そのものだ。
「わたくしの出番ですわよ!!!」
心臓を冷たい手で直に鷲掴みにされたような、根源的な恐怖。触手が容赦なく肌を割り、粘膜を凌辱する不快な刺激。私のプライドが、そのヌルついた愛撫によってズタズタに引き裂かれていく。
「アハッ、いつまで耐えられるかなぁ?」
肺が圧迫され、酸素が途絶える。脳が痺れる感覚が幾度も波のように押し寄せ、視界が白濁していく。
「お楽しみはまだまだこれからよっっ!!!」
内臓の壁を直接こすり上げられるような、吐き気を催す刺激。視界の隅で赤い星が散り、意識が、深い闇の底へと沈んでいく。
「それじゃあ一気にラストスパートイこっか」
触手が脈動し、粘り気のある赤濁した液体が、身体の奥底まで容赦なく注ぎ込まれ、溢れ出していく。
「グッ……ウ……ゥ……グ……」
(……見るな……私のこんな姿を……)
私は力尽き、ゴミのように放り出された。
「抵抗する人間を嬲るのもなかなか悪くないわね。…じゃあ、彼を連れていきましょうか」
(ダメだ……そいつに……触れるな……)
指先一つ動かせない絶望。遠ざかっていく意識の淵で、私は消えゆく彼の影に向けて、感覚を失った手を空しく伸ばした。




