Echo 05 『 交錯する空 』
五月。
若葉の青臭い匂いが風に混じり、陽射しがじわりと肌へ熱を残す季節。俺は、弓道の特別特訓を約束した辻ノ先輩の実家へ向かっていた。
「……それにしても、この階段、多すぎだろ」
神社が実家だとは聞いていた。だが、実際に目の前へ広がる石段は、もはや修行だった。
山の麓には土産物屋や茶屋が並び、復興運動の象徴として整備された観光地らしい賑わいを見せている。その喧騒を抜けた先にある長い石段は、容赦なく体力を削ってきた。足を踏み出すたび、太腿の奥が熱を持つ。制服の背中が汗で張り付き、呼吸が浅くなる。
「ここで食べる蕎麦、美味いんだよなぁ……」
まだ開店前の店先から漂う出汁の香りに、一瞬だけ意識が引っ張られる。
だが、遅刻したら何を言われるか分からない。脳裏に浮かぶのは、あの辻ノ先輩の鋭い眼光だった。ようやく鳥居を潜った頃には、肺が焼けるようだった。肩で息をしながら空を見上げる。
高い。抜けるような青空。吹き抜ける風が汗ばんだ首筋を冷やし、火照った身体から熱を奪っていく。
「……水、飲みてぇ」
喉が乾ききっていた。口の中が砂みたいにぱさつく。
「あの……お水、要りますか?」
背後から声が降ってきた。振り返る。そこには、髪を下ろした「辻ノ先輩」が立っていた。白い巫女服。陽射しに透ける黒髪。手には冷えた麦茶の入った竹筒。俺は反射的に地面へ頭を擦りつけた。
「遅刻して大変申し訳ございませんッッ!!」
砂利が額へ食い込む。だが、返ってきたのは怒号ではなく、妙な沈黙だった。
……あれ?
空気がおかしい。怒られると思っていたのに、気配が柔らかい。恐る恐る顔を上げようか迷っていると——。
「なぁにボサボサしている。さっさと準備して修行するぞ」
頭の上から、聞き慣れた凛とした声。空気を裂くような、あの声だ。俺は驚き顔を上げた。そこには、道着姿の辻ノ先輩。そして目の前には、巫女服姿の「辻ノ先輩」。俺の脳内が完全に停止した。
頭の中で何かがバグる。理解が追いつかない。
片方は腕を組み、不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
もう片方は困ったように微笑んでいる。その空気に耐えかねたように、最初に声をかけてきた巫女姿の彼女が口を開いた。
「……実は、私たち姉妹なんです」
巫女服の少女——妹の方が、柔らかく笑った。
「“あやか”、もう少し髪型に変化をつけろ。紛らわしい」
「姉さん、後輩君にそんな高圧的なのどうかと思いますけど……」
「ふん。私についてこれない軟弱者が悪い。私は去年、弓道と剣道で全国一位になったんだぞ」
「それはそうですけど……」
妹の彼女は苦笑する。
その苦労、少し分かる気がした。
「あやか、お客さんか?」
国造館の奥から現れたのは神主らしき男性だった。白衣に染み込んだ古い木と線香の匂い。穏やかな笑みを浮かべている。
「あぁ、私の学校の後輩だ。弓道部へ入って、私が指導することになった」
いや、違う。正確には、顧問が丸投げしただけだ。
俺は被害者だ。こんなことになるなら、弓道部なんて入らなければよかった……。そう後悔しかけた瞬間、頭の中へ別の疑問が引っかかった。
……待て。
辻ノ先輩が妹を「あやか」と呼び、神主さんが辻ノ先輩を「あやか」と呼んだ……?
脳内が宇宙猫になった。
混乱して固まっている俺を見て、神主が腹を抱えて笑い始めた。
「“あやか”、妹がいるって言ってなかったのか?」
「……言う必要がないと思っただけだ。あくまで先輩と後輩の関係だからな」
辻ノ先輩が珍しく気まずそうに視線を逸らす。
その隣で妹の「あやか」さんは、にこにこと微笑んでいた。
俺は恐る恐る聞いた。
「えっと……つまり、お二人とも下の名前が“あやか”さんなんですか?」
「あぁ、そうだとも」
神主は快活に笑う。
一方で、辻ノ先輩の視線は蛇みたいに鋭くなっていた。
本気で逃げたい。
「私は辻ノ先輩だ。次、下の名前で呼び捨てにしてみろ。その首を矢で射抜くぞ」
冗談に聞こえなかった。冷や汗が背中を流れる。
「あ、姉さんは怖いこと言いますけど、本当は優しいんですよ」
妹の方が慌ててフォローを入れる。
「“あやか”、こいつは遊びで来たんじゃないぞ」
そりゃそうだ。こんな朝早く神社へ来る高校生なんてそうそういない。
「力を持つ者には責任が伴う。扱いを誤れば碌な人間にならん」
ぐうの音も出ない正論だった。
「姉さん、御弓神事では毎年すごい人が集まるんですよ」
妹が誇らしげに言う。
辻ノ先輩は「やめろ」とでも言いたげに顔をしかめるが、耳がほんの少し赤かった。その表情を見て、俺は少しだけ見惚れてしまった。
凛々しい姉。
柔らかな妹。同じ顔なのに、空気がまるで違う。
「何をぼーっとしている! さっさと着替えて準備しろ!!」
怒声が飛ぶ。俺は慌てて案内された部屋へ駆け込み、道着へ着替えた。布地が汗ばんだ肌へ張りつく。
「ここへ立て」
道場へ戻ると、辻ノ先輩が中央で待っていた。俺は以前教わった姿勢を思い出しながら弓を構える。辻ノ先輩は無言で周囲を回る。
床板が軋む音。
張り詰めた空気。
何も言われないことが逆に怖い。
……案外、ちゃんと出来てるのか?そう思い始めた瞬間だった。
ガクンッッ!!
膝へ強烈な衝撃。視界が傾き、そのまま床へ叩きつけられた。
「重心がなってない!! 肩幅まで足を開け! 背筋を伸ばせ!!」
スパルタだ。完全に昭和の体育会系だ。心の中で愚痴りながら、俺は立ち上がる。
「口で理解しても意味はない。身体へ叩き込め。射法八節は確認したのか?」
……しゃほう、はっせつ?
困惑していると、辻ノ先輩が呆れ顔になった。
「はぁ……この私が時間を割いて教えているんだ。少しは覚えて帰れ」
「……ありがとうございます」
怖い。でも、実力が本物なのは分かる。結局、俺はその日、六時間みっちり射法八節を叩き込まれた。
肩が裂けそうだった。
指の皮が擦れて熱い。
足は鉛みたいに重い。
「はぁ……っ、はぁ……」
床へ転がり、天井を見上げる。
木造の天井板。
汗の匂い。
夕方の光。
辻ノ先輩はそんな俺を見下ろしながら矢を収めた。
「もう昼か。休憩に入るぞ」
そう言うと辻ノ先輩は俺を待つことも無く建物の中に消えて行った。
視界が揺れる。脚が笑っている。俺は疲れた上半身を右腕で支え起こし、左手で床に手をついた。眩暈がしてふらつく頭をなんとか起こし、俺もその建物の中に入った。
昼食に出された天ぷら蕎麦は、異常なほど美味かった。揚げたての衣がつゆを吸い、噛むたび出汁の香りが広がる。
「今は成長期だ。いくらでも食べなさい」
神主さんが笑い、妹のあやかさんがご飯をよそってくれる。
……ここ、天国か?漬物まで美味い。
「おい、食べ過ぎるなよ」
辻ノ先輩が呆れた声を出す。
いや、仕方ないだろ。美味いんだから。満腹感が全身へ広がり、午前中の疲労が少し和らいでいく。
「私は風に当たってくる」
辻ノ先輩が席を立った。
「お姉さん、あなたのこと凄く期待してるんですよ」
"あやか"さんが羊羹を差し出しながら微笑む。
羊羹の甘さが舌の上でゆっくり溶けていく。しっとりした甘味が疲れた身体へ染みた。
「私のことは呼び捨てでも構いませんよ」
「あ、あぁ……ありがとうござ...ありがとう」
言い直した瞬間、彼女は吹き出した。涙目になりながら笑っている。うーんどうして瓜二つなのにこんなに姉妹で性格が違うのだろうか。そう思って見つめていると、あやかさんは少し照れたように髪を耳へかけた。
「私、綺麗の“綺”に、本のしおりの“栞”って書いて“あやか”って読むんです。同じ学校の2年なので同級生ですね」
俺は気が付かなったのだが、別のクラスなのだろうか。まぁ合同授業なんてものもあまりないこのご時世だし、デバイスがあればいつでもどこでも授業を聞けるような環境だからな。
「もしお姉さんが厳しくて逃げたい時は私がかくまってあげますから...」
うーん可愛い。結婚しよう。
その柔らかな笑みに、俺の理性は危うく崩壊しかける。ごちそうさまと言い、恥ずかしさから逃げるように口を漱ごうと外へ出る。冷たい水が火照った口内を洗い流していく。
その時、近くに辻ノ先輩がいることへ気づいた。少し気まずい。刺激しないでおこう。そう思った矢先。
「こっちへ来い」
逃げられなかった。連れて行かれたのは、街を見下ろせる高台だった。風が吹く。汗ばんだ道着の隙間へ入り込み、熱を冷ましていく。
「どうだ。やり遂げた後の風は心地いいだろう」
辻ノ先輩が空を見ながら言う。確かに、悪くなかった。
肺の奥へ入り込む山の空気。
遠くで鳴く鳥の声。
町並みを抜ける風。
「ここはお気に入りなんだ。ここへ来ると、集中が研ぎ澄まされる」
目を閉じる辻ノ先輩。風が髪を揺らす。その静かな横顔へ見惚れた瞬間——。
存在しないはずの記憶が、濁流となって脳内を逆流した。
海。
冷たい水。
沈む感覚。
裏切り。
家族。
師。
社会。
断絶。
頭の奥を鉄槌で殴られたみたいな激痛と眩暈。
「いつしかお前も、自分の生き方を貫いて戦う日が来る」
「……俺は、先輩を誤解していたようだ」
「分かってくれたのか?」
辻ノ先輩が道着の乱れを整える。指先が胸元へ触れる。
「私も退屈な日々を無為に過ごすほど、やわな人間じゃない」
彼女が手を差し出す。
俺はその手を握った。
そして——。
「あんたのやり方は時代遅れだってことがな!!!」
気づけば、身体が動いていた。
渾身の柔道技一本背負い。辻ノ先輩の身体が宙を舞う。だが彼女は空中で鮮やかに受け身を取り、静かに着地した。
「この現実は虚構で塗り固められている。変革には犠牲が必要だ」
「それが、あんたの言う変革かよ!それで一体何が残るって言うんだ、 ふざけるな!」
呼吸が荒れる。胸が熱い。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。俺はよろめく身体を支え、先輩を睨みつけた。
「口先と力で何不自由なく従えられるあんたみたいなやつに、虐げられた弱者の痛みが分かるか!」
「何が弱者だ!!」
先輩の怒声が響く。
「お前だって力で敵を黙らせ、頂点に上り詰めようとしていた人間だ」
動揺した。なぜ、知っている?
沈めたはずの“俺”が、水底から浮かび上がってくる。混濁した意識の中で、もう一人の"俺"が何かに呼ばれているかのように鼓動が脈打つ。
「力のない正義はただの無力だ。お前だって分かるはずだ! この残酷な現実が!!」
綾華は怒りを俺にぶつけ、拳を叩きこむ。
俺は拳を握って歯を食いしばり、飛び込んでくる拳を両腕で受け止めた。
「今度はお前の口を黙らせてやる」
失われた記憶が、火花みたいに脳内で爆ぜ始めていた。




