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Echo 05 『 交錯する空 』

サントラ イメージソングはこちらからどうぞ

https://open.spotify.com/playlist/6bFZdpvxKZC0kdREsooTmc?si=a1feec7479d64356


対応番号 : 9 / 10



 五月。

 若葉(わかば)の青臭(あおくさ)い匂(にお)いが風に混(ま)じり、陽射(ひざ)しがじわりと肌へ熱を残す季節。俺は、弓道(きゅうどう)の特別特訓を約束した辻ノ(つじの)先輩の実家へ向かっていた。


「……それにしても、この階段、多すぎだろ」


 神社が実家だとは聞いていた。だが、実際に目の前へ広がる石段(いしだん)は、もはや修行(しゅぎょう)だった。


 山の麓(ふもと)には土産物屋(みやげものや)や茶屋(ちゃや)が並び、復興(ふっこう)運動の象徴(しょうちょう)として整備(せいび)された観光地らしい賑(にぎ)わいを見せている。その喧騒(けんそう)を抜(ぬ)けた先にある長い石段(いしだん)は、容赦(ようしゃ)なく体力を削(けず)ってきた。足を踏(ふ)み出すたび、太腿(ふともも)の奥が熱を持つ。制服の背中が汗で張(は)り付き、呼吸が浅くなる。


「ここで食べる蕎麦(そば)、美味(おいし)いんだよなぁ……」

 まだ開店前の店先から漂(ただよ)う出汁(だし)の香(かお)りに、一瞬だけ意識が引(ひ)っ張(ぱ)られる。


 だが、遅刻したら何を言われるか分からない。脳裏(のうり)に浮かぶのは、あの辻ノ(つじの)先輩の鋭(するど)い眼光(がんこう)だった。ようやく鳥居(とりい)を潜(くぐ)った頃には、肺(はい)が焼けるようだった。肩で息をしながら空を見上げる。


 高い。抜(ぬ)けるような青空。吹(ふ)き抜(ぬ)ける風が汗ばんだ首筋(くびすじ)を冷(ひ)やし、火照(ひて)った身体から熱を奪(うば)っていく。


「……水、飲みてぇ」

 喉(のど)が乾(かわ)ききっていた。口の中が砂みたいにぱさつく。


「あの……お水、要りますか?」


 背後(はいご)から声が降ってきた。振(ふ)り返る。そこには、髪(かみ)を下ろした「辻ノ(つじの)先輩」が立っていた。白い巫女(みこ)服。陽射(ひざ)しに透(す)ける黒髪(くろかみ)。手には冷(ひ)えた麦茶の入った竹筒(たけづつ)。俺は反射的に地面へ頭を擦(こす)りつけた。


「遅刻して大変申し訳ございませんッッ!!」


 砂利(じゃり)が額(ひたい)へ食い込む。だが、返ってきたのは怒号(どごう)ではなく、妙(みょう)な沈黙(ちんもく)だった。


 ……あれ?


 空気がおかしい。怒られると思っていたのに、気配(けはい)が柔(やわ)らかい。恐(おそ)る恐(おそ)る顔を上げようか迷っていると——。


「なぁにボサボサしている。さっさと準備して修行(しゅぎょう)するぞ」


 頭の上から、聞き慣(な)れた凛(りん)とした声。空気を裂(さ)くような、あの声だ。俺は驚(おどろ)き顔を上げた。そこには、道着(どうぎ)姿の辻ノ(つじの)先輩。そして目の前には、巫女(みこ)服姿の「辻ノ(つじの)先輩」。俺の脳内が完全に停止した。


 頭の中で何かがバグる。理解が追いつかない。


 片方は腕を組み、不機嫌(ふきげん)そうにこちらを睨(にら)んでいる。

 もう片方は困ったように微笑(ほほえ)んでいる。その空気に耐(た)えかねたように、最初に声をかけてきた巫女(みこ)姿の彼女が口を開いた。


「……実は、私たち姉妹なんです」

 巫女(みこ)服の少女——妹の方が、柔(やわ)らかく笑った。


「“あやか”、もう少し髪型(かみがた)に変化をつけろ。紛(まぎ)らわしい」


「姉さん、後輩君にそんな高圧的なのどうかと思いますけど……」


「ふん。私についてこれない軟弱者(なんじゃくもの)が悪い。私は去年、弓道(きゅうどう)と剣道(けんどう)で全国一位になったんだぞ」


「それはそうですけど……」

 妹の彼女は苦笑する。

 その苦労、少し分かる気がした。


「あやか、お客さんか?」

 国造館(こくぞうかん)の奥から現れたのは神主(かんぬし)らしき男性だった。白衣(はくい)に染み込んだ古い木と線香(せんこう)の匂(にお)い。穏(おだ)やかな笑(え)みを浮(う)かべている。


「あぁ、私の学校の後輩だ。弓道部(きゅうどうぶ)へ入って、私が指導することになった」


 いや、違う。正確には、顧問(こもん)が丸投げしただけだ。


 俺は被害者だ。こんなことになるなら、弓道部(きゅうどうぶ)なんて入らなければよかった……。そう後悔(こうかい)しかけた瞬間、頭の中へ別の疑問が引っかかった。


 ……待て。


 辻ノ(つじの)先輩が妹を「あやか」と呼び、神主(かんぬし)さんが辻ノ(つじの)先輩を「あやか」と呼んだ……?


 脳内が宇宙猫になった。


 混乱(こんらん)して固まっている俺を見て、神主(かんぬし)が腹を抱(かか)えて笑(わら)い始めた。

「“あやか”、妹がいるって言ってなかったのか?」


「……言う必要がないと思っただけだ。あくまで先輩と後輩の関係だからな」

 辻ノ(つじの)先輩が珍(めずら)しく気(き)まずそうに視線を逸(そ)らす。


 その隣(となり)で妹の「あやか」さんは、にこにこと微笑(ほほえ)んでいた。


 俺は恐(おそ)る恐(おそ)る聞いた。

「えっと……つまり、お二人とも下の名前が“あやか”さんなんですか?」


「あぁ、そうだとも」

 神主(かんぬし)は快活(かいかつ)に笑(わら)う。


 一方で、辻ノ(つじの)先輩の視線は蛇(へび)みたいに鋭(するど)くなっていた。


 本気で逃げたい。


「私は辻ノ(つじの)先輩だ。次、下の名前で呼び捨てにしてみろ。その首を矢で射抜(いぬ)くぞ」


 冗談(じょうだん)に聞こえなかった。冷や汗が背中を流れる。


「あ、姉さんは怖いこと言いますけど、本当は優(やさ)しいんですよ」

 妹の方が慌(あわ)ててフォローを入れる。


「“あやか”、こいつは遊びで来たんじゃないぞ」


 そりゃそうだ。こんな朝早く神社へ来る高校生なんてそうそういない。


「力を持つ者には責任が伴う。扱(あつか)いを誤(あやま)れば碌(ろく)な人間にならん」


 ぐうの音も出ない正論だった。


「姉さん、御弓神事(おゆみのしんじ)では毎年すごい人が集まるんですよ」

 妹が誇(ほこ)らしげに言う。


 辻ノ(つじの)先輩は「やめろ」とでも言いたげに顔をしかめるが、耳がほんの少し赤かった。その表情を見て、俺は少しだけ見惚(みほ)れてしまった。


 凛々(りり)しい姉。

 柔(やわ)らかな妹。同じ顔なのに、空気がまるで違う。


「何をぼーっとしている! さっさと着替(きが)えて準備しろ!!」


 怒声(どせい)が飛ぶ。俺は慌(あわ)てて案内された部屋へ駆(か)け込(こ)み、道着(どうぎ)へ着替(きが)えた。布地(ぬのぢ)が汗ばんだ肌へ張(は)りつく。


「ここへ立て」


 道場(どうじょう)へ戻ると、辻ノ(つじの)先輩が中央で待っていた。俺は以前教わった姿勢を思い出しながら弓を構(かま)える。辻ノ(つじの)先輩は無言(むごん)で周囲を回る。


 床板(ゆかいた)が軋(きし)む音。

 張(は)り詰(つ)めた空気。

 何も言われないことが逆に怖い。

 ……案外、ちゃんと出来てるのか?そう思い始めた瞬間だった。


 ガクンッッ!!


 膝(ひざ)へ強烈(きょうれつ)な衝撃(しょうげき)。視界が傾(かたむ)き、そのまま床へ叩(たた)きつけられた。

「重心(じゅうしん)がなってない!! 肩幅(かたはば)まで足を開け! 背筋(せすじ)を伸ばせ!!」


 スパルタだ。完全に昭和の体育会系だ。心の中で愚痴(ぐち)りながら、俺は立ち上がる。


「口で理解しても意味はない。身体へ叩(たた)き込(こ)め。射法八節(しゃほうはっせつ)は確認したのか?」


 ……しゃほう、はっせつ?

 困惑(こんわく)していると、辻ノ(つじの)先輩が呆(あき)れ顔になった。


「はぁ……この私が時間を割(さ)いて教えているんだ。少しは覚えて帰れ」


「……ありがとうございます」


 怖(こわ)い。でも、実力が本物なのは分かる。結局、俺はその日、六時間みっちり射法八節(しゃほうはっせつ)を叩(たた)き込まれた。


 肩が裂(さ)けそうだった。

 指の皮が擦(こす)れて熱い。

 足は鉛(なまり)みたいに重い。


「はぁ……っ、はぁ……」

 床へ転がり、天井(てんじょう)を見上げる。


 木造(もくぞう)の天井板(てんじょういた)。

 汗の匂(にお)い。

 夕方の光。


 辻ノ(つじの)先輩はそんな俺を見下ろしながら矢を収(おさ)めた。

「もう昼か。休憩(きゅうけい)に入るぞ」


 そう言うと辻ノ(つじの)先輩は俺を待つことも無く建物の中に消えて行った。


 視界が揺(ゆ)れる。脚(あし)が笑(わら)っている。俺は疲(つか)れた上半身を右腕で支え起こし、左手で床に手をついた。眩暈(めまい)がしてふらつく頭をなんとか起こし、俺もその建物の中に入った。


 昼食に出された天ぷら蕎麦(そば)は、異常なほど美味(うま)かった。揚(あ)げたての衣(ころも)がつゆを吸い、噛(か)むたび出汁(だし)の香(かお)りが広がる。


「今は成長期だ。いくらでも食べなさい」

 神主(かんぬし)さんが笑(わら)い、妹のあやかさんがご飯をよそってくれる。


 ……ここ、天国か?漬物(つけもの)まで美味(うま)い。


「おい、食べ過ぎるなよ」

 辻ノ(つじの)先輩が呆(あき)れた声を出す。


 いや、仕方ないだろ。美味(うま)いんだから。満腹感が全身へ広がり、午前中の疲労(ひろう)が少し和(やわ)らいでいく。


「私は風に当たってくる」

 辻ノ(つじの)先輩が席を立った。


「お姉さん、あなたのこと凄(すご)く期待してるんですよ」

 "あやか"さんが羊羹(ようかん)を差し出しながら微笑(ほほえ)む。


 羊羹(ようかん)の甘さが舌の上でゆっくり溶けていく。しっとりした甘味が疲(つか)れた身体へ染みた。


「私のことは呼び捨てでも構いませんよ」


「あ、あぁ……ありがとうござ...ありがとう」


 言い直した瞬間、彼女は吹き出した。涙目になりながら笑(わら)っている。うーんどうして瓜二(うりふた)つなのにこんなに姉妹で性格が違うのだろうか。そう思って見つめていると、あやかさんは少し照れたように髪(かみ)を耳へかけた。


「私、綺麗(きれい)の“綺”に、本のしおりの“栞”って書いて“あやか”って読むんです。同じ学校の2年なので同級生ですね」


 俺は気が付かなったのだが、別のクラスなのだろうか。まぁ合同授業なんてものもあまりないこのご時世(じせい)だし、デバイスがあればいつでもどこでも授業を聞けるような環境だからな。


「もしお姉さんが厳(きび)しくて逃げたい時は私がかくまってあげますから...」


 うーん可愛い。結婚しよう。


 その柔(やわ)らかな笑(え)みに、俺の理性は危(あや)うく崩壊(ほうかい)しかける。ごちそうさまと言い、恥(は)ずかしさから逃げるように口を漱(すす)ごうと外へ出る。冷たい水が火照(ほて)った口内を洗い流していく。


 その時、近くに辻ノ(つじの)先輩がいることへ気づいた。少し気まずい。刺激(しげき)しないでおこう。そう思った矢先。


「こっちへ来い」


 逃げられなかった。連れて行かれたのは、街を見下ろせる高台だった。風が吹く。汗ばんだ道着(どうぎ)の隙間(すきま)へ入(はい)り込(こ)み、熱を冷ましていく。


「どうだ。やり遂(と)げた後の風は心地(ここち)いいだろう」

 辻ノ(つじの)先輩が空を見ながら言う。確かに、悪くなかった。


 肺(はい)の奥へ入り込む山の空気。

 遠くで鳴く鳥の声。

 町並みを抜(ぬ)ける風。


「ここはお気に入りなんだ。ここへ来ると、集中が研(と)ぎ澄(す)まされる」

 目を閉じる辻ノ(つじの)先輩。風が髪(かみ)を揺(ゆ)らす。その静かな横顔へ見惚(みほ)れた瞬間——。


 存在しないはずの記憶が、濁流(だくりゅう)となって脳内を逆流(ぎゃくりゅう)した。




 海。

 冷たい水。

 沈む感覚。

 裏切り。

 家族。

 師。

 社会。

 断絶。




 頭の奥を鉄槌(てっつい)で殴(なぐ)られたみたいな激痛(げきつう)と眩暈(めまい)。


「いつしかお前も、自分の生き方を貫(つらぬ)いて戦う日が来る」


「……俺は、先輩を誤解(ごかい)していたようだ」


「分かってくれたのか?」

 辻ノ(つじの)先輩が道着(どうぎ)の乱れを整える。指先が胸元(むなもと)へ触(ふ)れる。


「私も退屈な日々を無為(むい)に過ごすほど、やわな人間じゃない」

 彼女が手を差し出す。


 俺はその手を握(にぎ)った。


 そして——。


「あんたのやり方は時代遅れだってことがな!!!」


 気づけば、身体が動いていた。


 渾身(こんしん)の柔道技(じゅうどうわざ)一本背負い。辻ノ(つじの)先輩の身体が宙(ちゅう)を舞う。だが彼女は空中で鮮(あざ)やかに受け身を取り、静かに着地した。


「この現実は虚構(きょこう)で塗(ぬ)り固められている。変革(へんかく)には犠牲(ぎせい)が必要だ」


「それが、あんたの言う変革(へんかく)かよ!それで一体何が残るって言うんだ、 ふざけるな!」

 呼吸が荒(あ)れる。胸が熱い。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。俺はよろめく身体を支え、先輩を睨(にら)みつけた。


「口先と力で何不自由なく従(したが)えられるあんたみたいなやつに、虐(しいた)げられた弱者の痛みが分かるか!」


「何が弱者だ!!」

 先輩の怒声(どせい)が響(ひび)く。


「お前だって力で敵を黙(だま)らせ、頂点に上(のぼ)り詰(つ)めようとしていた人間だ」


 動揺(どうよう)した。なぜ、知っている?


 沈めたはずの“俺”が、水底から浮かび上がってくる。混濁(こんだく)した意識の中で、もう一人の"俺"が何かに呼ばれているかのように鼓動(こどう)が脈打(みゃくう)つ。


「力のない正義はただの無力だ。お前だって分かるはずだ! この残酷(ざんこく)な現実が!!」

 綾華(あやか)は怒りを俺にぶつけ、拳(こぶし)を叩(たた)きこむ。


 俺は拳(こぶし)を握(にぎ)って歯を食いしばり、飛び込んでくる拳(こぶし)を両腕で受け止めた。

「今度はお前の口を黙(だま)らせてやる」


 失われた記憶が、火花みたいに脳内で爆(は)ぜ始めていた。


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