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Echo 04 『 弦音の洗礼 』

サントラ イメージソングはこちらからどうぞ

https://open.spotify.com/playlist/6bFZdpvxKZC0kdREsooTmc?si=a1feec7479d64356


対応番号 : 7 / 8



 俺は帰宅部だ。

 正確には、そうあることを望んでいた。だが、生徒会長から「内申点(ないしんてん)に響(ひび)くぞ」と何度も念を押され、結局どこかの部に所属する羽目(はめ)になった。


 妹の未夏(みか)は水泳部だ。

 俺も誘(さそ)われたが、どうにも「水」が駄目(だめ)だった。


 シャワーの水滴(すいてき)が肌を打つだけで、肺(はい)の奥がきりきりと縮(ちぢ)む感覚がある。

 以前、学校のプールで水に入った瞬間、喉(のど)の奥に冷たい鉄を押し込まれたみたいに呼吸が止まり、そのまま意識を失った。気づけば病院の白い天井を見上げていた。


「仕方ないよね、お兄ちゃんはプールに長時間入れないもんね」


 未夏(みか)は残念そうに唇(くちびる)を尖(とが)らせながらも、俺の部活探しに付き合ってくれていた。あの「事件」以来、彼女は少しだけ大人しくなった気がする。


「スポーツはダメなの?」


「いや、出来なくはないんだがな……」


 高校一年の頃、三十六キロマラソンを完走した記録が残っているらしい。記録用紙の数字だけ見れば、俺はかなり体力がある人間だ。


 だが今の俺は、とにかく楽をしたかった。

 それに、時折(ときおり)肺(はい)の奥を掻(か)きむしるような痛(いた)みが走る。


 病院でレントゲンを撮(と)っても異常(いじょう)なし。だが、白黒の陰影(いんえい)を見つめていると、胃の腑(ふ)が裏返るような悪寒(おかん)が走る。


 肺(はい)の最奥(さいおく)。


 そこに蠢(うごめ)く、肉を引き裂(さ)くような黒い粘着質(ねんちゃくしつ)の指。それは悪魔の触手(しょくしゅ)さながらに、気管支(きかんし)の粘膜(ねんまく)を内側からじっとりと撫(な)で回し、喉元(のどもと)へ向かって微(ほの)かに脈打(みゃくう)ちながら這(は)い上がってくる。


 逃げ場の無い肉体の檻(おり)の中で、未知の怪物が孵化(うか)を待っているかのような悍(おぞ)ましい感触に、全身の毛穴が総毛立(そうけだ)った。


 気味(きみ)が悪かった。


 医者からも「激(はげ)しい運動は控(ひか)えろ」と言われ、選択の武道(ぶどう)でも柔道(じゅうどう)や剣道(けんどう)は避(さ)け、卓球(たっきゅう)を選んでいた。


「うーん、お兄ちゃんって音楽は?」


「……音を褒(ほ)められたことならある」

 俺は視線を落とし、小さく首を振った。


 大勢(おおぜい)の視線が自分一点に集まる光景(こうけい)を想像するだけで、肌に冷たい汗が滲(にじ)む。

 吹奏楽部(すいそうがくぶ)の演奏を横目に見た時に感じた、あの光景は今でも脳裏(のうり)に焼き付いている。金管楽器(きんかんがっき)の音が廊下(ろうか)の窓ガラスを震(ふる)わせ、陽射(ひざ)しの中で埃(ほこり)が揺(ゆ)れていた。


 ああいう“青春の中心”みたいな場所に、自分が立っている姿は想像できない。


「それなら、茶道部(さどうぶ)は?」


「悪くないが、成長志向(しこう)に欠けるな」


「じゃあ……弓道部(きゅうどうぶ)は?」


 その瞬間、不思議と胸の奥に小さく何かが落ちた。


 弓道(きゅうどう)。

 激(はげ)しく走るわけでもない。数学部みたいに脳を酷使(こくし)するわけでもない。静かで、張(は)り詰(つ)めていて、どこか孤独(こどく)だ。

 俺はその場で入部届(にゅうぶとどけ)に「弓道部(きゅうどうぶ)」と書き込み、顧問(こもん)へ提出した。


「君が由記(ゆうき)君か。よろしく!」


 顧問(こもん)の男は、柔和(にゅうわ)な笑(え)みを浮(う)かべて右手を差(さ)し出(だ)してきた。案内された道場は剣道場(けんどうじょう)と隣(となり)り合っており、引(ひ)き戸(ど)を開けた瞬間、熱気が肌にまとわりついた。


 隣(となり)の剣道場(けんどうじょう)から、竹刀(しない)のぶつかり合う乾(かわ)いた衝突音(しょうとつおと)が響(ひび)く。汗と木材と、防具に染み込んだ古い革(かわ)の匂(にお)い。夕陽(ゆうひ)を吸った床板(ゆかいた)が赤く光り、道場全体が呼吸しているみたいだった。


「剣道(けんどう)と兼任(けんにん)してる子がいてな。指導(しどう)はその子に任(まか)せてる。君は週三日くらい顔を出せばいいよ」


 レンタルの道着(どうぎ)を渡(わた)される。厚手(あつで)の布地(ぬのぢ)が指にざらりと引っかかった。

 着方(きかた)が分からず戸惑(とまど)っていると、顧問(こもん)が剣道場(けんどうじょう)へ向かって声を張(は)り上げた。


「部長、いるか!」


「はい」


 凛(りん)とした声だった。空気を一本、真(ま)っ直(す)ぐ切(き)り裂(さ)くような声。面(めん)を着(つ)けていて顔は見えない。だが、その立ち姿だけで分かった。


 強い。


 無駄(むだ)な重心(じゅうしん)移動が一切(いっさい)ない。竹刀(しない)を握(にぎ)る手の角度、足の開き、呼吸の深さ。ただ立っているだけなのに、空気が張(は)り詰(つ)める。


「今日から入る在原(ありわら) 由記(ゆうき)君だ。弓道(きゅうどう)の指導(しどう)を頼む」


「……三年の辻ノ(つじの)だ。よろしく」


 差(さ)し出された手を握(にぎ)る。汗で少し湿(しめ)っていた。だが驚(おどろ)くほど滑(なめ)らかだった。剣道(けんどう)で鍛(きた)えた硬さと、女の肌特有の柔(やわ)らかさが奇妙(きみょう)に同居(どうきょ)している。


「更衣室へ来い。着替(きが)えを教える」


 案内された更衣室には、洗剤(せんざい)の匂(にお)いと、乾(かわ)き切らない布の湿気(しっけ)、汗の残(のこ)り香(が)が混(ま)じっていた。


「匂(にお)いはそのうち慣れる。靴(くつ)を脱(ぬ)げ。……それから制服もだ」


 女性の前で服を脱(ぬ)ぐ経験なんて、未夏(みか)や甘奈(あんな)くらいしかない。制服のボタンを外す指先が妙(みょう)にぎこちなくなる。上半身を晒(さら)した瞬間、辻ノ(つじの)先輩の視線が細(ほそ)くなった。


「ふむ……素材は悪くない」


 値踏(ねぶ)みするような目。

 肩。胸板(むないた)。腹筋(ふっきん)。視線がゆっくりと肌をなぞっていく。

 そして、その目が止まった。


 沈黙(ちんもく)。


 気づけば、俺の下半身が熱を持っていた。

 道着(どうぎ)へ着替える途中の中途半端(ちゅうとはんぱ)な格好(かっこう)。密室(みっしつ)。汗。近距離の女性。

 条件が悪すぎる。


「喝(か)ッ!!」


 頭に鋭(するど)い衝撃(しょうげき)。手刀(しゅとう)だった。


「……精神鍛錬(せいしんたんれん)も必要のようだな」


「は、はぁ……いきなり手厳(てきび)しい……」


「修行(しゅぎょう)の一環(いっかん)だ。私を前にしてそんな不埒(ふらち)な真似(まね)、見過(みす)ごせるわけがなかろう」

 辻ノ(つじの)先輩は小さくため息を漏らすと、すぐに表情を張(は)り詰(つ)めさせた。


 その手は淀(よど)みなく俺の腰へ回り、道着(どうぎ)の紐(ひも)をきつく引(ひ)き絞(しぼ)る。きゅっ、と腹部が締(し)め付(つ)けられる。指先が脇腹(わきばら)を掠(かす)めるたび、妙(みょう)に意識してしまう。


「力を抜(ぬ)け。呼吸が浅(あさ)い」


 耳元で低く囁(ささや)かれ、俺は無意識に息を止(と)めていたことに気づいた。道場(どうじょう)へ戻ると、彼女は面(めん)を外した。現(あらわ)れた素顔(すがお)は、想像以上に端正(たんせい)だった。


 白い肌。切れ長(なが)の瞳。


 汗に濡(ぬれ)れた前髪(まえがみ)が頬(ほほ)へ貼(は)りつき、首筋(くびすじ)を一筋(ひとすじ)の汗が流れ落ちる。その雫(しずく)が鎖骨(さこつ)を滑(すべ)る瞬間、時間が一瞬だけ止まった気がした。


「ぼーっとするな。弓を引け」


 渡された弓は想像以上に重かった。指に食い込む弦(げん)の硬(かた)さ。肩甲骨(けんこうこつ)が軋(きし)み、胸筋(きょうきん)が引(ひ)き裂(さ)かれそうになる。弓を引き切った瞬間、全身の筋肉が震(ふる)えた。


「っ……!」


 視界が白くちらつく。

 それでも、矢を離(はな)した瞬間だけ、不思議と世界の音が消えた。


 ——パンッ。


 乾(かわ)いた弦音(つるね)だけが、静かな道場へ真(ま)っ直(す)ぐ響(ひび)いた。


「ふむ……素質(そしつ)はある」

 辻ノ(つじの)先輩がわずかに感心したような目を向ける。


「基礎(きそ)はまだまだだが、上出来だ」


 褒(ほ)められるのは悪い気分(きぶん)じゃない。

 だが、同時に思う。


 ——これ、いつまで続くんだ……?


 肩が焼けるように痛(いた)い。握力(あくりょく)も限界だ。


「よし、そこまで」


 その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜(ぬ)けた。張(は)り詰(つ)めていた筋肉が弛緩(しかん)し、背骨がぎしりと鳴る。


「……なかなかハードですね」


 そう漏(も)らすと、辻ノ(つじの)先輩は大きく息を吐き、夕陽(ゆうひ)に染まる道場(どうじょう)の中で俺を見つめた。


「素質(そしつ)はある。鍛(きた)えれば伸びるだろう」


 その言葉に、俺は少しだけ嬉(うれ)しくなった。俺は少しほっとして、少しだけこの部活にやる気があるところを見せようと思った。


「明日も空いてませんか? ……少し、興味が湧(わ)いたので」

 俺がそう言うと、彼女は意外そうに目を瞬(まばた)かせた。


「夏の大会が近い。部活中は時間を割(さ)けん」


「あー……それじゃ仕方ないですね」

 内心ほっとする。毎日これをやるのは流石(さすが)にきつい。俺は残念そうに肩をすくめてみせた。


 だが次の瞬間、彼女はさらりと言った。


「私の家(いえ)に来るといい。みっちり叩(たた)き込(こ)んで、一人前(いちにんまえ)にしてやる」


 空気が止まった。俺の沈黙(ちんもく)など意(い)に介(かい)さず、彼女は矢を一本つがえる。


 弦(げん)が張(は)る。

 呼吸が消える。

 放たれた矢は風を裂(さ)き、一直線に的の中心へ突(つ)き刺(さ)さった。


 ——この人だけは、絶対に怒らせてはいけない。


 肌が粟立(あわだ)つような戦慄(せんりつ)と共に、俺は新しい「日常」の始まりを予感していた。

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